戦国時代の殿の葬儀①
戦国期には葬式はなかったという説がありますが、迷信深い彼らは戦さ場であれ、平時であれ、せっせと供養に励みました。
何しろ公式に動物専用の葬儀の仕方もあったくらいですから、ペット用の葬送を批判しがちな現代とは違い、この世に生あるものが没後、極楽浄土へ粛々と向かっていただくことへの熱の入れ方は、並々ならぬものがありました。
地位のある方々、世に名を轟かせた方々のそれは、非常に贅を凝らしたものになっていますが、中心部分をおおよそざっくり見ていきます。
殿が何処で亡くなられるかは、それぞれです。
出家をする為のお寺、出陣を含む外出先、そしてご自宅の本城……現代でもさまざまですが、当時もさまざまです。
今回は、病気や怪我で療養されていた殿が、家臣団に見守られつつ、本城で亡くなられたというシュチュエーションで見ていきます。
まず殿が亡くなられた事が僧侶によって確認されると、殿は北枕に寝かせられ、衣をかけられます。
殿の枕元に点けられていた燈明の火で、香に火を移します。夏場であれば、容器に酢を入れて置き、死臭を消したと言われています。また几帳や逆さにした屏風を殿の周りに建て巡らせたと書かれているものもあります。
こうして殿の死の床の用意が整いますと、予め決められていた葬儀を取り仕切る奉行が、施主に挨拶をします。
施主はまだ殿が現役であれば、跡目を取る嫡男が立つのが普通で、彼は葬式後の法要の施主も行い、世間に向けて跡取りであることを公表し、認知してもらう場になります。
殿が御隠居なら、基本的に現役の殿が施主を務めますが、殿がご不在とか、ご病気とか、御仲が宜しからぬなどの場合は、筆頭家老や御内室様が務めることもあったようです。
施主は、御自宅でご遺体になった殿の死の床の几帳などの外側に座り、同じく外側に座っている僧侶の後ろで、枕経を謹んで拝聴します。
施主と共に、ご遺族、殿の近習、重臣たちも手を合わせています。
室内には焚かれている香の香りが漂い、燈明が揺れています。
その頃、急ぎ使者が葬儀を執り行う寺へ、殿が亡くなったことを知らせ、寺では遺体になった殿をお迎えする準備を進めることになります。
殿の亡くなられたお部屋の方に、
同じ仏教のお坊さんでも、遺骸、遺骨を取り扱う葬送は、禅律念仏僧。
満中陰など仏事を扱うのは顕密僧と分かれていました。一種の分業制ですね。
これは死穢観念の発達により、葬送によって起こる触穢を顕密僧を嫌った為であると『日本中世社会と寺院』の中で大石雅章氏が述べており、これが現在の通念になっています。
禅律念仏僧とは、禅僧、律僧、念仏僧のことを一括してそう呼びます。
細かく見ていくと、仏事に関わる僧侶の種類は混在しているので、臨機応変なゆるさがあったのかもしれません。
さて当時は「座棺」と呼ばれる、屈葬の木棺、桶に似ているやつですね、あるいは大きめの
この棺は神輿のような形で大切に担ぎ上げられ、皆さまに見送られて、付き添う近習と共に寺へと運び込まれます。
それを城に住まう人々も見送ります。
お寺に着くとお坊さんがご遺体を棺の外へ出して、香湯で沐浴をさせます。
戦さ場で討ち死したなど、急なことで出家をなされていない殿は、ここで出家をします。
当時の武家の葬儀は「
というのも前提として武家の葬儀を執り行う禅宗では、出家者を対象とした葬送儀礼しかありません。
ですので在家葬法(在家の人を葬る形式)は、在家を出家させてから亡僧葬法式(出家者を葬る形式)で葬式を執り行うことになります。
つまり「
生前に授戒される方は「生者授戒」。
亡くなられた方の授戒を「亡霊授戒」「亡者授戒」とも言います。
亡くなった後出家される没後授戒は、葬送儀礼としての授戒であり、文字通り「
この授戒に関して細かい規定があり、生前の授戒であれ、没後の授戒であれ、生前の殿の身分がそのままスライドして行われ、この授戒の時に与えられる戒名(仏名)にもそれが現れます。
さて殿は髪の毛を剃られ、死化粧を施され、墨染の衣を着せられ、袈裟を付けてもらい、最後に帽子を被せてもらいます。
そして僧となられた殿を礼拝の間にて、椅子の上に安座させます。
亡くなった瞬間からご遺体を扱う僧は、霊魂が自らの体に罹って来ないよう、またその人を襲った穢が移らないよう、忌みの為に体に縄を巻くというのは非常に興味深い話です。
うつけ時代の信長公の縄巻きは、ここから来ているのかもしれませんね。
亡くなられてからは、何かする毎にそれ専用の経があげられます。
詳細を知りたい方は『禅宗相伝資料の研究』(石川力山著)をご覧ください。
かくして殿は出家をなされ、旅立たれる準備が相整いました。殿のご用意が整いますと、大鐘を一つ打ちます。
ゴ〜〜〜ン
すると、ご遺族の皆様や家臣の方々が、ワラワラとお寺の方へ参集してきます。
菩提寺はおおよそ城下にありますから、これでことがすむんですね。
ここで参列者の皆様は、読経を聞きつつ順番に焼香をします。
亡くなられた殿の前には、燈火、花、茶湯、香が供えてあります。
これが現在の通夜式にあたると思われます。
ここから気が変わって蘇生しないか、2〜4日ほどそのまま置きつつ、間陀羅尼経が詠まれます。
この間、加持祈祷などがされ、反魂を試みたりする場合もあったようです。
この日数はその時々で変わりますが、亡くなって2日というのが多かったようです。
これは当時、「人間の真価というものは、没して3日経たなければ語ることができない」という考え方があり、
こうして殿の蘇生を待ちつつも、葬場を作り、位牌や卒塔婆を用意し、葬儀の準備を整えています。
上で書きましたように位牌や卒塔婆の書式は細かく決まっていました。申し訳ありませんが、詳細は石川氏の前掲書でご確認ください。
火葬の場合の葬場は「大屋」と呼ばれる建物が作られます。
7間四方(98畳、49坪)を板で囲み、それぞれ東西南北に向いた壁に門を作ります。門は1間半(高さが畳の長い方の長さで、幅が畳の短い方の一個半)で、鳥居がつけられています。門は東西南北、それぞれ「発心門、修行門、菩提門、涅槃門」と呼ばれます。
「大屋」の中央には「火屋」が建てられます。この大きさは1間四方(2畳、1坪)で高さが2間(約3,70m、畳2枚を縦に並べた感じ)、四方の壁には入り口が開けられ、殿の収まった棺が入るようになっていました。
また土葬の場合は、棺を収める穴を掘っておきます。
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