戦国時代の殿の葬儀②

少し時間を遡り、殿が去られたお屋敷の方をみてみましょう。

当時はご存じのように、「穢」というのがありまして、それに対応した動きがなされています。


殿が亡くなられた瞬間から、「死穢」が発生します。着座していた人全てと、その部屋自体が死穢に触れたと考えられました。


生前であろうが、亡くなった後であろうが、着座をしていれば即「触穢」で、今際の際に侍った方々は、僧を含めて「穢」た状態になりますね。この部屋にあるものに触った人もみな「触穢」です。


大変な状況ですが、これを穢に詳しいお坊さんがふむふむと分析して、どのようにお祓いするか、決定をされます。


まず亡くなられた部屋は枕元に灯されていた蝋燭が消され(葬儀が終了するまで燈明を灯していたという説もあります)、僧侶が浄める為に読経をした後使用禁止になり、殿が亡くなる瞬間に使用されたものは焼かれます。

出た塵、ゴミは川に流され、それを掃き出した箒も焼かれます。焼いた後の灰も川に流します。

門には「物忌札」が立てられます。


そして殿を亡くされたご内室様、殿の乳母の皆様と傅役は出家されます。

出家しても、御内室様たちは再婚される方も多いので、美容室に行ってくる感覚で、「ちょっと、出家してくる」みたいな軽い感じで、髪をそぐ程度だったようです。


それから、ご遺族の皆様は、白い喪服を用意されました。

細川藤孝が亡くなった時、息子で喪主になる細川忠興は鈍色の着物を着ていたと書かれています。流石に風流なことですね。

信長公の時には、皆烏帽子に藤衣だったそうです。


 普通の殿の葬儀では通常、多少のご身分の違いにもよりますが、跡目の新しい殿は白の直垂、諸士は白の小袖に上下、近臣は白の素襖、女性陣は白い絹被衣を被っておられたようです。


 さてさて。

皆様の用意が整ったようです。


葬儀の前にもう一度、殿を木棺やかめの中へ入れ直します。

棺の内側には梵字や真言密教の偈文を墨書したりします。また砕いた土師器と香などを底に敷き、体液が漏れないようにしたと言います。

この時に、ご遺族から差し入れられた衣や真言密教の偈文などを入れた筒や呪符などを入れます。

一連の作法に従い、ご遺体を棺に納めている間もそれ専用のお経が詠まれています。



さてご一同様が集まると、僧侶は読経をされます。線香の煙が立ち込め、殿の格に合わせて僧侶たちが居並び、到彼岸を祈ります。


殿の入られた棺の蓋を閉める事を「鎖龕さがん」と呼びます。これは選ばれた高僧が行うことが多かったようです。


 一連の儀式が終わると甕または桶を火屋や埋葬場所へ届けます。

これを「葬送」と呼びます。

葬送の時間というのは、元々は陰陽師が吉凶を占い決めていましたが、戦国期に至り、禅宗儀礼における葬送が主流になっていくと、僧侶が決めるようになっていったようです。


公家貴族の方々は、基本的に土葬が多いようですが、武家では火葬も多く見られます。


荼毘に付すために、出棺する時刻を島津毅氏が調べておられます。

おおよそ、戦国時代の武家、およびその内室様、お子様方においては、寅の刻、それから巳の刻が多いそうです。

元々、夜型の生活をしていた王侯貴族たちは夜の間に儀式をし、まだ暗い頃に出棺をして、日の出までに終了していたようです。

しかし段々と「見せる葬儀」が増えるとともに、昼間の儀式になっていったのではないかと分析されています。


さて。


ご遺体は輿に乗せられて火葬場や埋葬する場所に運ばれます。

運ぶためには、まず堂から出さねばなりません。これを「起龕きがん」と呼びます。

棺は持ち上げられると、玄関からではなく、しとみの間から出るそうです。蔀というのは、古来よりの社寺建築に使われている格子を取り付けた板戸のことです。上に跳ね上げて開けますね。

つまり出入り口からではなく、横ちょの方からお出になられる訳です。


そこから広縁に出て、階段を降りてくるりと回って正面の階段の付いているところまで行くようです。元々死者が通常の門から出るのは、のちに通る人が穢に触って亡くなるということになっていたので、堂々と正面から出ることは憚られていました。

御堂の正面まで行くと、左回りに一回巡り、それから「葬場」へ向かいます。


僧侶たちは阿弥陀の大咒を唱えながら続きます。

松明、幡、天蓋を持つ人々、鉢、鐃皷を打つ僧、燭台、香炉、花瓶、湯瓶、茶湯、掛具等を持つ人々が行きます。

位牌は家督(亡くなられた殿の次の殿)が持ち、棺の「善の綱」は、日頃殿に縁の深かった人たちが持っています。


葬場につくと、火葬の場合は三度火屋を回り、最終的にその中に棺を納めます。

これに炬火たいまつで火をつけることを「下火あこ(下炬)」と呼びますが、これを行う前に「下火語(下炬語)」を読み上げ、引導を渡します。

この「下火語」を集めた史料もあり、亡くなられた方の人生や亡くなり方が分かり、大変趣深いものがあります。


炬火は葦やすすきなどを束ね、紐で縛り、片方に炎をかたどった朱色の紙をつけた二尺五寸(約75㎝)ほどのもので持ち手のところには紙が巻かれていたそうです。

火をつける時には、二本の炬火を使うことになっていました。


火葬の後は骨を拾うことになりますが、これを「起骨」と言います。殿によっては諸寺に分納することもあります。

焼ききることは難しかったため、数日に渡って焼いたとも言いますし、薪代の関係で当日骨を拾ったという話もあります。



 土葬の場合、棺に土をかけることを「捲土」と呼ばれます。

僧侶が木製の一尺八寸(54.5cm)ほどの鍬(钁鍬きゃくしゅう钁子くわ)を持ち、足もと前方に一円相を描き、引導の言葉を述べた後、元の位置に戻します。

一尺八寸というのは、六根・六境・六識の一八種の法(十八界)を示しているそうです。

この後、殿の棺を埋めてお別れをいたします。

この儀式を「下钁あかく」と言い、火葬の「下火」に相当するものだそうです。



 御遺族の皆様は、この後、49日間の精進潔斎をします。

これは魂が地上に止まると言われている期間で、この期間に亡くなった人は7日ごとに地獄の裁判官である十王に裁きを受け、四十九日めに何処に行くか決定すると言われています。現在でもこの中陰が明ける四十九日に法要が行われますね。

それに準じ、7日ごとに殿の悪行が軽減されるよう祈りを捧げるのは、大変重要なことでした。



 また大名や武将たちはこのように丁寧に葬られ、貧しい庶民は「村」という生活互助システムの下にあれば、それなりの野辺送りをしてもらう事ができました。

よく庶民は葬いはなく、そのまま埋めたという話もありますが、それは死穢への恐怖を無視した話かもしれません。

悪霊、死霊が実在で、不幸や天災は因果律の下にあるのが常識な当時、領民たちの死穢に対し、上部組織がそんなに無関心ではありませんでした。


それは人々が大量に亡くなる、災害、戦さでも同じです。

確かに普段のように個々の葬いは、場合によっては行われなかったかもしれませんが、事態が落ち着いた後、慰霊を執り行ったとされています。


また戦の場合は拙作「戦さで御座る」でも書きましたが、戦場の清掃、葬いは勝者の仕事であり、遺体は埋めて塚を作り、卒塔婆、矢塔婆を立てて、従軍している陣僧が懇ろに弔いを行いました。

また首を取る武者たちは、取った首の数やその種類に応じて其々法要を営み、殿も日を改めて慰霊を致しました。

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