戦国時代の殿の臨終

 さて今回は、具体的な臨終場面を見ていきます。


亡くなる殿が、重い病を得たところから始めましょう。


 殿が病を得るとまず医者が呼ばれ、そして城郭内の寺社に連絡がいき、加持祈祷やお祓いがなされます。


政治的な配慮もあり、伊勢や熱田、岩清水八幡宮など霊験確かな大社には、現役の当主は地盤に余程の余裕が無ければ、なかなかお願いはしかねます。


なので、まずは城郭内の寺社に病気平癒をお願いをして、城郭外の方には功徳を積む為に布施をする場合があります。


 それでも治らないとなると、出家してみたり、うちうちに信頼できる近習や女房を城郭外の由緒ある寺社へ差し向けて参籠をさせてみたりします。


この間、枕元では延々と菩薩戒を誦んで貰い、それを聞いていなければなりません。


菩薩戒とは、大乗の菩薩(殿のこと)が受持すべき「止悪、修善、利他の三つ」(「日本大辞典」)の戒めだそうです。


これを見ると、当時の病気は因業が廻ってきたり、悪想念を受けたりしてなるものだと考えられていたことがよく分かりますね。


しかし数年に渡って、闘病生活を送る場合、絶え間なく菩薩戒を枕元で誦むというのは、相当な負担でしょう。



 しかしどうもこうにも、これはマズイぞということになりますと、家督を譲り、本格的な療養生活に入ります。


今までの間違いを振り返り、仏に懺悔をします。

臨終が近づくとそうでなくとも悪業が競い起こって、魂が肉体からするりと抜け出るのを妨げ、更にはそのまま地獄に連れて行こうとするとされていました。


その為、あらかじめ普賢懺(六根の懺悔をテーマにしている普賢観経を基にした懺悔かと思われる)を行い、懺悔読経をしてないといけないようです。


この辺りから、安楽死に向けてのラストスパートが始まっているようですね。


 そして更に布施を勧められます。

これまでは病気を治す為に布施をしていますが、ここからは安楽死の為の布施です。

内容は、麻油、衣服、食糧になります。


 麻油というのは現代でいう胡麻油となっていますが、一部では、当時普段の服を作っていた苧麻、いわゆる大麻の油だとも書かれています。

麻油を奉納するのは、塔廟に灯りを灯せば、亡くなる時に光明を見ることが出来るからだそうです。

やはり麻油の原料は大麻で、幻覚作用があるんでしょうか。


この光明は「日輪と月輪と天人と如来」(『葬と供養』松浦秀光著)だそうです。

光明を見る=天の使いがきてる=天国に還れるということらしいです。

やはり幻覚作用?



 衣服や食糧を布施するのは、西遊記で有名な三蔵法師が亡くなる時に、衣服と食糧を布施をしたことをなぞらえているそうです。


 また社会的な始末も始まります。


重い病気になると「置文」と言われる遺言状が書かれます。

用意の良い殿は、もう少し早めに書いておられるでしょうが、病気になって見ると、どうもアレはコレだぞと思い返すことがあるかもしれませんね。


これは葬儀のありよう、土地や寄進、また跡目について言われるもので、これに沿わない者は遺産相続から外されました。


殿の葬儀を取り仕切る奉行が立てられ、寺に没後のことを命ずる沙汰が下ろされます。


奉行は教養のある人物が選ばれます。

中世後期以降は、奉行は家臣の場合と僧の場合がありますが、基本的に家臣の奉行人は、僧に葬儀の一切を委託し「監督調整をするもの」だったと言われています。


非常に重要で大変なお役目でしたので、殿の多くはこの死後の一切を取り仕切る奉行を、生前から指名して、誓約をさせていたようです。


奉行の下には、様々な役者(係)がつきました。


僧侶の方は、通夜前に殿の亡骸を沐浴をさせる人やその時にお経を詠む人から、下火語をあげる人など、色々決めなければなりません。

家臣の場合は葬送の列のとき、誰が殿のご遺体を乗せた輿の長柄を持つか、誰がなにを持つかなどの役割分担ですね。


お墓や焼き場などの準備も進めます。



 病気の殿の枕元には医師とともに陰陽師が呼ばれますが、彼らが首を横に振ると、いよいよ殿の到彼岸への用意が始まります。


そうなると、あらかじめ一生に成した作善を書き出して置いたものを、信頼できる人に耳元で讃嘆してもらいます。


面白いのは、例えば信長公のように、生前多額の布施をされている場合、布施を請けた側(寺社など)はしっかりとしていないと、身代わりに地獄に落ちてしまうかもしれないと書いてあります。


多額の布施を受けた寺社には連絡が行き、この期間、必死で殿の到彼岸をお祈りをしていたのかもしれません。信心を集めていた大きな寺社は、大変そうですね。


それから、殿の最期に立ち会いたいと願う家臣も出てきます。


また室の皆様も、殿のご様子は気になるところでしょう。


 元々殿の身の回りは、小姓を中心とした御側衆と上級女房(侍女)たちで賄っています。


ですから正室や側室の方々は、殿のルーティンに入っていない限り、そう頻繁に会う間柄ではないことが多いのです。


当時は奥と表という垣根はありませんが、殿は屋敷内で至高の存在なので、家族と言えども正式には取次を通す必要があります。

非公式に殿自体とアクセスするには、ルーティンを熟知し、殿の近習とそれなりの繋がりがある必要があります。


ましてや病に伏していれば、室の皆様は小姓たちを通じて、お見舞いしたい旨を申し上げて許可を得る必要があります。


室の方々のご実家が大名家など他所の家や、両属、多属の国衆の場合、殿の様子は政治が絡んで来ますので、なかなか気軽にお見舞い頂くのは難しいものです。


しかし最期に一目お会いし、無事に極楽浄土へ送り出すお手伝いしたいという気持ちになられるのは、人情というものでしょう。


また隠居した侍女を含む家臣、他の城に入っている御兄弟や息子たちも、最期のご奉公を果たしたいという忠義の心が燃えるのを抑えることは難しいでしょう。


そうした見舞客を「問訊人もんじんひと」と呼びます。


彼らや看護の人々は、殿の出離を妨げないように、酒や五辛を服してはいけないそうです。

何しろ殿が狂死してしまうそうです。

今までの殿の努力を無にしてしまいますし、後々自分の臨終の折に恐ろしいことになりそうです。



さてこれまでに出家をされていない殿は、高僧に戒を授けられ出家されることがあります。


中には苦しい息の下わざわざお寺に移られて、出家される方もおられます。

これを「逆修の法事」と言われるようです。


石碑や石塔などに「逆修」と書かれていますが、戦国期に於いては生前に仏名(戒名)を持っていたことを指します。


「中世では逆修によって(戒名を)受けることが当たり前だった」

と禅宗の僧侶である松浦秀光氏が言われています。

それに対し、生前出家の機会を持たなかった方は、追修と言います。

秀吉は逆修ですが、信長公は追修ですね。


 何故、生前に出家なさるのかというと、死後行われる追善供養は生前に行われるそれより、7分の1の功徳しかないとされていたからです。

残りの7分の6は供養を行う眷属が取ってしまうそうです。追善供養が盛大に、また度々行われる理由はここにあるのですね。


その為、逆修の法事は「七分全得」と呼ばれます。


 しかし出家、出家と簡単に言いますが、死出の旅立ちを控えた殿には、大変な負担です。

この様子は『禅家の葬法と追善供養の研究』(松浦秀光著)から抜粋でお伝え致します。


病中で死の迫った場合の出家の様子を、松浦氏は古文献『仏説無常経』(701年成立)からそのまま引用されており、それが古語の上に専門用語で、手持ちの辞書にも載っていない言葉が多々あり、曖昧なので間違っていたらごめんなさい。


 まず息も絶え絶えの殿は、香湯で澡浴そうよくし、新しい浄衣じょうえに着替え、安座します。


一人で座ることが叶わぬ殿は、小姓たちがお支えします。

支えても座れない殿は、仕方がありませんから、右側を下にし合掌をさせて、顔を西側に向かせます。


合掌もできない殿はどうするのかは書かれていません。小姓が手を握るのかもしれませんね。


殿の前には浄処じょうしょが設けられます。

白い蓮の華になぞられた(おそらく)布を敷いた上に、壇を組み上げ、名香を焚き、四角に灯をともし、壇に仏像を御安置します。


そこで心を鎮めて仏を思い、痛みが軽減し微笑みを浮かべて、菩提心を発するに至ったところで、菩薩戒が授けられるそうです。

息も絶え絶えの殿は、それどころではないかもしれないんですけど。


「汝今何の仏土に生ぜんとねがうや」

「我が意某仏世界に生ぜんと楽う」


殿が応えると、僧侶はここで心の世界についての説法をし、仏に殿の魂の救済を願います。


結構長いですね。

出家の途中で亡くならないか心配です。

早うせい!と思う人もあったことでしょう。


それから、今までの罪を懺悔させ、殿に仏名を授け(戒名)、三帰を許します。

この行程が殿の病状によって厳しい場合は、側の小姓が代わってされます。


殿の罪を懺悔する小姓って大変そうですね。

「停陣の折、寺の稚児を手篭めになさいました!」

「な、なにぃ!わが寵童の菊王丸を手篭めにしたは、貴様か!」

みたいな修羅場があったりして。


 さて、こうして無事に出家をなされた殿も、比較的元気なうちに出家をなされていた殿も、死が目前に迫ると北枕に寝かせ、顔を西に向けさせます。

仏陀入滅図ですね。


今際いまわきわにあたり、亡くなる殿は印を結び、息絶え絶えになりつつ、宝号(神仏の名前)を呼んでみたり致します。


天台宗ですと、有名な藤原道長のように五色の紐を持ったりするようです。

禅宗だと合掌です。


 ここから、殿が亡くなるまで高僧と周囲の皆様は絶え間なく読経をします。

絶え間なくです。絶える事なく、ずっと延々と誦み続けます。


亡くなる殿は勿論のこと、見送る周囲の人々も、殿を極楽浄土へ送り込む為に、「善知識」である高僧に全集中することが求められましたから、もう大変です。


性欲、睡眠欲、食欲を克服し、最期のご奉公を成し遂げなければなりません。

性欲はこんな場面では、なかなか出ないでしょうけども、「あ、あの小姓くん、かわいいな」とか「殿の御方様の侍女のなんとかさん、今度口説いてみようかな」でしょうか?


この時のお経は勿論、延命や再生ではなく、安楽死を促すものです。


菩薩戒を受けて亡くなる殿には、光明の中、お迎えの天の使いが現れるそうです。

その天の使いの菩薩とか、行者が現れると、殿が微笑むので周囲の皆さまは「あ、死ぬな」と分かるそうです。


こうして高僧たちと看護人や見舞客に囲まれて、お経が詠まれるなか、殿は粛々と笑みを浮かべて浄土に旅立って行かれます。(と書いてある)


しかし現在と違い、「ピコーン、ピコーン」と枕元で鳴るやつをつけていないので、亡くなったのか、気を失ったのか、寝たのか、ちょっと分かりませんよね。


『禅宗相伝資料の研究』(石川力山著)に、臨終時の僧侶の振る舞いが書かれています。


僧侶が経を唱え、殿のお名前を呼びつつ没後喚起もつごかんき(本当に死んだのか確認する)をするそうです。


「亡者ノ名ヲ喚キ起シテ拶タツキ結夕ヲスル是不断ノ理也」と書かれています。

前半部は「絶えず亡くなった人の名を大声で呼び起こして、叩きながら」です。

それから「結夕ヲスル」ね。これは体を揺するのでしょうか。

ちょっと分かりません。ごめんなさい。


これは現代でも、「お母さん!お母さん!」「お父さん!しっかりして!」とか名前を呼びながら、叩いたり、体を揺すったりして、「は!」と意識を取り戻したりしますね。


そんな感じでしょうか。


しかし、ここでお坊さまが「どうも起きられませんね」と申されますと、通夜や葬儀などの儀式に入っていきます。


立場が上になればなるほど、戦さ場で亡くなることは少ないですから、殿の多くはこうして亡くなっていったのだなと思うと感無量ですね。


ま、天下人信長公には、こんな暇はなかったでしょうけど、現代で大人気の公には、追善の思いが時を超えて届いていますでしょう(合掌)


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る