戦国時代の軍制改革

 戦国時代になって大きく変わったことの一つに軍制があり、これが様々なことに大きく影響を及ぼしていることは案外知られていません。


 

 天武10年(681)天武帝が律令制の導入の詔を発令されました。

その中の軍制に関することもあり、「陣法」(陣列ノ法)という言葉が使われているのが、軍記物でよく出てくる「軍陣」の文書による初出になっています。


その他、軍隊の各団は10番(部隊)に分けられ、農繁期、農閑期にかかわらず都までやってきて、10日間ずつ軍事訓練を受けるなど、制度が出来ています。


貞観14年(872)頃に成立したとされる『貞観儀式』には、大角はらのふえかね大鼓おおつづみなどの鳴り物を使った隊の統制が詳細に書かれています。

これは大変興味深いもので、戦国時代のものと比べてみたいですね。


また後に信長公の発案したとされる「三段撃ち」の原型、ボーガン状の弩(おおゆみ)部隊の陣法を見ることができます。


下向井龍彦氏が復元した陣法は、前備まえそなえ(先鋒)として大きな盾が横に5つ(五盾)並び、その盾の後ろにそれぞれ5人(隊伍)縦に並びます。その備の後ろに詰として次鋒が横に5盾、それぞれの盾の後ろにやはり5人ずつ兵が並んでいるというものでした。

長方形の備が前後に二つ並ぶのが、日本最初の陣形になるそうです。



 次に「陣法」が書物に出てくるのは、平安時代の終わりを待たねばなりません。


『保元物語』(成立不明、推定承久年間13世紀)に、源義朝が250騎を率いて「魚鱗」で突撃し、迎える源為朝は28騎で「鶴翼」の構えを取るシーンが出てきます。昔より大人気の場面ですが、これは『史記』から取ったもので実際の話ではないそうです。

    

『平家物語』(同じく承久年間13世記)でも、この「鶴翼、魚鱗の陣を敷いたが」という台詞が出てきています。

陣形の名前は出てきますが、具体的なことは全く書かれてはいません。


 さてそれに新たな陣形が出現するのが、『太平記』の時代になります。

多勢で有利だったはずの足利軍は「魚鱗の構え」で追い詰めた南朝の兵たちが、突如奇声を上げて大長刀を振り回し反撃をすると、あまりの気狂いじみた姿に、馬の首を返し逃げ始めます。


それを見た大将足利高経は、不甲斐ない兵を一喝します。


慌てて止まった軍勢は、Uターンをしながらバラバラと敵に向かって行きますが、何しろ魚鱗の3000対16ですから、はからずしもコロニーを作りながら、立ち向かうことになりました。これが「虎韜ことう」になります。


また敵が勢い良くきっさきを揃えて突撃してくるのを、「あれは」と言っています。


実は当時の陣形の実態は、当初の「陣形」を広げるか(鶴翼)、小さくまとめるか(魚鱗)くらいの大まかな陣の展開しかなかったそうです。

つまり戦中の号令で周囲との距離を取るか、近寄るか程度ですね。


そして戦が展開され陣形が乱れたり、土地の関係で布陣がたまたまそんな風に見えるのを、「おそらく鋒矢」「虎韜のよう」と言っていた訳です。


 なぜ、こんなにいい加減なんでしょうか。


「〇〇殿が挙兵なされる」「いざ鎌倉」と聞くと、武将は自らの郎党を引き連れて参上し、そのまま武将ごとに編成されて、ザックリ戦っていたからで、平安以前のように、集まった兵を部隊に振り分けるというものではありませんでした。


つまり団体で戦う時も、備は「☆殿の采配のもと、〇殿と△殿は御心を合わせられ」といった具合で、編成される武将たちの兵力によって、その備の人数は違いますし、統一された弓の部隊とか、槍の部隊とかないわけです。


更に「御心を合わせられ」と言われても、武将にとって大事なのは手柄を立てて領地を広げることで、基本的にとなりの武将のことなんて知ったことではありません。


そもそも陣形を取らせる訓練をする文化が断絶し失われており、その部隊を広げる(鶴翼)か密集させる(魚鱗)くらいしか、陣形を取らせることができなかったのです。



 そのまま時代は鎌倉時代を過ぎ、室町時代も戦国時代も案外こんな感じで過ぎていきます。


この間の軍記を読むと、当時の戦のあり方がわかるので、非常に興味深いものです。

陣形は基本的に大きく広がる「鶴翼」とこじんまりまとまる「魚鱗」で、もっともらしく戦は進んでいき、「敵は鋒矢であろう」と推測する文化は続いて行きます。


それは戦国真っ只中の『信長公記』の初期の戦、桶狭間でも、美濃戦十四条、軽海合戦でもこれを見ることができます。


沼地の続く美濃の畦道に魚鱗で布陣した織田軍に、斉藤龍興軍はうっかり鶴翼で襲い掛かり、そこいら中にある沼地に落ちた彼らを、織田軍は沼地ごとに「魚鱗からの図らずしも虎韜」でトドメを刺します。


また果敢に勇者が飛び出していって「我に続け!」と声をかけ、その部隊の人たちが続くのではなく、「腕に覚えのある者」がパラパラと飛び出していって一緒に戦うというシーンが見受けられます。


『信長公記』で言えば、永禄元年(1558)の浮野合戦で、砲術師の橋本一巴(おそらく本陣にいた)と敵方の弓の名手林弥七郎とが、備から離れてを始め、橋本が倒されると、信長公の小姓の佐脇良之が飛び出していっています。


 しかし徐々に、徐々に大名たちは武将たちが差し出す兵を集め、部隊別に振り分けて軍隊づくりをし始めているのがわかります。


大名たちは戦になると、武将たちに軍役を課しますが、この時の「軍役定書」を見ると「手練れの者を」とか「あの剛の者である〇〇を連れてこい」ではなく「騎兵は何人、歩兵は何人」と「数」を要求しています。

これこそが、「ヤァヤァ、我こそは」の個人戦から、大名家の軍隊としての戦への大きな変換を示しているものです。


武将としては自らが養っている兵を駆使して、自らの手柄を披露する時代から、兵役で集めた領民を大名に差し出して存分に使ってもらうことで、忠義を証立て、自らも編成された部隊(といっても主力の騎兵は自分の家臣や与力)を預かって集団で勝ちを取る時代へ向かいます。


ここでようやく、私たちの知る陣形が使用されるようになってきます。


 ではその変換点はどこにあったのでしょうか。


丁度時代は、守護職(守護大名)たちに権力が集まる構造になっていました。


 ご存知の方も多いと思いますが、日本の陣形の父は甲斐の虎武田信玄公です。

『甲陽軍鑑』の山本勘助との逸話は非常に面白く、これぞ戦国という感じです。


勘助が中国古来からの八陣の使用を薦めます。


勘助の勧めた『軍林兵人宝鑑』の諸葛亮孔明の八陣の図をご覧になった方もおられると思います。

「軍林兵人宝鑑 2巻 デジタルアーカイブビュワー」

https://www.library.yonezawa.yamagata.jp/dg/AA044_view.html


6ページ目をご覧下さい。

これが高名な孔明の八陣の全てです。(駄洒落になってしまいました汗)


実はこの孔明の八陣、名前だけが一人歩きし、概念だけが発達して、実態がないものだったのです。だって、今まで必要なかったのですから。


それを知らない信玄は、「お前はえらい勉強をしたのだな」と恐れ入って問いかけます。すると勘助は「八幡一帖とて読まず」と応えます。

この言い回しは、「絶対嘘じゃないぞ!」「信じられないかもしれないけど、本当に!」という時に使われます。信長公も金襴の安土城を見せたときに、細川幽斎に向かって、この言い回しをされたのが残っていますね。


「神に誓って一冊とて、孔明の八陣に関するテキストを読んだことございませぬ」

勘助は胸を張って言いました。


本には「孔明の八陣」の内容も名前も書いていないし、私の知識は全部伝聞で、はっきりとした実態なんて、この日本には御座いませんもの。

だから

「御屋形様、御自ら『諸葛亮孔明の八陣』を作ってくださいな」


武田信玄というのは、本当に天才ではないでしょうか。


そして天文16年(1547)上杉勢と相対した勘助は、敵を指差してもっともらしい顔で皆に告げます。

「あれは鋒矢に相見えし候」

(あれは鋒矢の陣見えますな)

「それでは我が軍は偃月となし……」

かくして戦国の世に陣立てが出現いたしました。


 そんな武田家と相争う越後の龍上杉謙信を擁する上杉家では、もっと重要な軍制改革がなされていました。


天文17年(1548)信濃の独立した国衆である村上義清は、上田原で武田軍に追い詰められていました。

「もうあかん、もはやこれまで」と腹を括った義清は、「こうなれば、アホの信玄(当時は晴信)に一矢報いん」と決意します。

そりゃ本陣の前で首実験を始められりゃ、「ナメくさって!」と腹が立つでしょう。


『妙法寺記』によりますと、義清はまず兵を、歩兵と騎兵に分け、更に歩兵を長柄部隊と、騎兵の槍を持って彼らに槍を渡す槍持部隊に分けました。また足軽を弓部隊と鉄砲部隊に分けて、それぞれに矢と弾薬を持たせ、彼らは5人一組にして小頭を付けました。

つまり兵種によって部隊を分けた訳です。

その部隊ごとに名前を決め、その旗印を背負わせました。

これで自分が何隊なのかわかる仕組みです。


そしてこの隊は、この太鼓などの鳴り物の合図でこうすると決めました。


こうして戦国時代に久々に「軍隊」が出現しました。


この取り組みは非常に有効で、武田軍は四苦八苦します。

そして村上家の軍隊と武田の軍勢が戦っているところの横から、義清を先頭にした親衛隊が武田本陣に斬り込んで、見事信玄に傷を負わせました。


これは軍勢の「陣形」が、軍隊の「隊形」に敗れた瞬間でした。


戦の勝敗よりも、足軽の集中砲火を浴びせる鉄砲や弓の強さ、そしてその隙をついた見事な作戦は、陣形の父信玄を驚かせました。


また村上義清たちが逃げ込んだ、上杉家でもこの「発明」にど肝を抜かします。

ゲーオタだった軍神謙信公は、この新しい「隊形」に興奮し、早速上杉家も兵種別の「隊形」を組ませ、武田家の「陣形」を使えるよう訓練を始めるように指示を出しました。


 そして最後に天文19年(1550)京の都で三好軍と細川軍がぶつかり、日本で初めての鉄砲による討死者が出ました。

見物していた公家たちも大いに驚き、このことを日記に書き留め、話題にせずにはおられませんでした。


何しろ当時の常識は、剛の者を倒すのは、同じく腕に覚えのある者で、「ヤァヤァ我こそは」と進み出て「弓をもて」とか「槍をもて」、或いは「これは名刀なんちゃら」で、「さても、さても尋常に一騎討ち」となるはずで、名もなき雑兵ではないはずです。ところがこの「鉄放」を用いれば、雑兵でも軽々と強者を倒してしまえることになったからです。


この鉄砲といかに戦うか、これが大名たちの課題になりました。


 こうしているうちに川中島の戦いが、天文22年(1553)に起こります。


当時は大戦おおいくさが起こるとなると各地の大名が注目し、長戦になると物見が走ります。


親交のある大名、武将たちは事前にお知らせが来ますし、敵対する大名家では相手を常に監視をしていますから、ぬかりはありません。


そして各地の大名家で「軍役定書」が書かれ始めるのは、この川中島の戦い以降と言います。


また差し出された軍勢を、兵種別に分けて、部隊を作るというのは、戦国大名には好都合なことでした。

というのも武将単位に任せておくと、裏切りが発生しやすいものです。

本格的に武将単位の軍勢をいったん解体して、部隊を作り直していれば、島津軍もトンズラできなかったはず。


「ややや、殿が旗本を連れてどこかへお行きなさる!ワシらも行かねばなるまいて!」

とパラパラとあちこちの備から島津の兵が飛び出て、それはそれで大変になったかもしれませんが。まぁ、ね。


で、実際のところはでございます。

戦国時代には足軽を集めて槍部隊を作ったり、弓部隊を作る方は広がったのですが、実戦での「陣形」の方はなかなか広がらなかったと言われています。

現在に残っている陣立てと、「鶴翼の陣で迎え討ち」だの「車懸りの陣で襲いかかり」などと勇ましい軍記と、古地図と3D地図を見比べると、あれれ?になることは少なくありません。


大体日本って、アメリカみたいにそんなに広々してないのよ。

お手入れされた、木の生えてない平地の草原なんて、日本のどこにあります?

はっきり言えば陣形は、軍記物を盛り上げた感じです。


やはりこの辺は、何処か芸術家肌の信玄公と、ゲーオタの謙信公の気質(拙作「あの人のうつけ時代」参照)を感じさせるものです。


しかしながら、平時の陣形を取る訓練というのは、兵をまとめ上げるには有効な方法だったようです。


この軍制改革はその家、その家で浸透度が違い、家臣の中でも根本的な考え方が理解できず、追放になったり、暇乞いをした武将もおられる、結構大きなものでした。





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る