織田家臣団

戦国大名、家臣の形態。 国衆

 現在、「桶狭間の戦い」をまとめ中で、それに伴ったあれこれを出していく予定です。一部訂正、加筆、まとめが大量に発生すると思いますが、ご了承ください。


 さて、戦国期を理解する上で、重要な部分があります。

それはタイトルの大名の家臣の形態です。


 戦国大名の家臣の武家部門は、大きく分けると「正社員」の自前の家臣、「契約社員」の国衆に分かれます。

国衆は契約社員だから、重要な役職に就けないかというとそういうわけでは有りません。


国衆の研究は、戦後から本格化したもので、「家」として捉えた場合と「職」として捉えた場合では、様相が異なる為、おおよそという形で捉えていただければと思います。


 さて、「国衆」というのは、「在地領主」とも言います。 

「在地に居住した惣領をトップに置いた勢力」で、元は鎌倉時代に設置された「地頭」職の侍です。


地頭というのは昔の言葉で「現地の」という意味で、任命された御家人が現地に赴き、百姓たちと相対して、年貢を徴収したり、村の争いごとを収めたり、中央からくる指示を徹底させたりしました。

地頭は、武家であり「いうことを聞かない百姓は指を切り落とす」「髪の毛を削いで尼にする」「鼻を削ぐ」など、非常に戦闘的な解決……解決なんでしょうか、ちょっと疑問では有りますが、まぁ解決をしたことから、「泣く子と地頭には勝てぬ」という諺ができました。

ま、あたしは地蔵だと思っていまして、なんでやねんと首を捻ってたんですけども。

歴史を勉強するというのは、疑問も解決することもあり、有り難いものですね。



彼らは、時代が下るに従って力を増していきます。


 中には自ら商業、特に物流に携わり、河川系は「問丸といまる」、陸運系は「馬借ばしゃく」と呼ばれる商売を始めて、そこから銭を蓄えました。

また宗教と関わり合いを持ち、人心掌握をし、銭儲けをする地頭も出てきました。

鎌倉時代から室町時代に移る頃には、幕府から派遣されている領主たちと、地元の百姓などの間に介入し、後述する「守護職しゅごしき」の代官職、所務職を請け負い、さらには百姓の上層部を被官させて権力を更に増していきます。


 そして、戦国期に至って、守護職の権力が衰退していくと、彼らは「城持ちの独立領主」となりました。

この中には更に力を増して、大名家へ躍り出たものも少なくありません。


そこまでいかなかった国衆たちは、従属する大名に証人あかしびとを出して、二心無きことを示しました。

と言っても、あくまでも立場は「契約社員」です。

権力においては大名と同等の権利を持っており、この大名と思えば支えるし、これはダメだとなると転仕するのは当然の権利でした。

また、大名と大名の端境の土地に住んでいる国衆ならは、「両属」「多属」で国を護ることもありました。


まぁ、国衆というのは、簡単に言えば、地元密着型で権力の強い代々続いている村長さんとか、町内会長さんみたいなものです。


信長公と関係のある国人出身の家を上げていきます(ものすごく多いので、ほんの一例です)


越前は元同僚の朝倉氏


甲斐武田の穴山梅雪を生んだ穴山氏、跡部氏、甘利氏、板垣氏なども国人衆です。


美濃は、浅野、斎藤道三の斎藤、そして西美濃三人衆の安藤、稲葉、氏家(あ。い。うですね)、弾正忠家とも婚姻関係を結んでいた遠山、明智、それから光秀の妻の氏である妻木、垣内、蜂屋というお馴染みの名前も見えます。

それから竹中半兵衛の竹中、そして森三左衛門可成の森、もしかしたらお母様のルーツかもしれない土田氏。

日根野氏に、仙石長久の仙石、堀久太郎秀政の堀、そして寧々さんちの杉原さんも、秀吉のお母さんの関さんもこちらの国人です。他にもたくさんおられて、盛り沢山ですね。



 そして尾張では、信長公の織田氏。

尾張の御器所を拠点とする佐久間一族。

尾張春日井郡比良城の佐々氏。

同じく春日井郡児玉村の丹羽氏。

それから信長公の一長いちおとなの林秀貞の林氏がいます。この林氏は美濃の稲葉氏と元は同じ氏族であるとされ、斎藤利三の娘である春日局を継室に迎えた稲葉政成は、林秀貞の子供の林正秀の息子(つまり孫ですね)に当たると書いてあります。

そして、林さんは実は養子で、信長公の小姓の長谷川橋介のお兄様の与次の奥さんか、お母さんの関係者です。



それから前田氏も国衆です。

尾張前田氏には二系統あり、まずは利家を生んだ「荒子前田氏」。代々当主の通称が蔵人です。菅原道真の曽孫の次男の良正が祖で、美作菅家原田氏から派生した支族であると言われていました。そのため、信長公の支族が「津田」姓を称するのと同じように、利家の系統では「菅原」を名乗ります。

それから、通称を与十郎とする前田与十郎家がありました。海東郡の前田城、後に那古野の下之一色城を築きました。元は荒子前田氏の主筋だったとも言われ、美濃守護代斎藤氏の傍流という説もありますが、どちらも確証はありません。


 知多郡の方へ目を転じますと、久松氏という氏族がおられます。今でもその名を残している阿久居という所に拠点を持つ一族で、こちらも菅原道眞の長孫、久松麿が祖であるそうで、室町期には斯波氏に属した国衆です。

戦国期に入ると、久松氏は弾正忠家に転仕します。

当主が久松俊勝の時代に、織田氏と同盟を結んでいた水野藤七郎忠政の娘で、家康の母親である於大の方を娶りました。

桶狭間の戦いの折、先発の補給隊として発した家康が、母との対面を果たしたのが、この阿久居で、母と共に異父三兄弟に会って松平姓と葵の御紋を贈ったと言われています。

一応書いておきますが、この時、家康は証人で義元に良いように引き回されている状況で、既に大名家ではなく国衆です。ええ、一般的には先は今川家の一家臣と言った具合です。

家康は私たちが歴史で習ったよりも早い時期に、今川に反旗を翻し信長公の傘下に入るべく運動していたことが、今、判明しつつあります。もしかしたら、内通していたのではとすら言われていますが、この行動も、近々、今川氏から出ることを決意していたら、わからなくもありません。

まぁ、桶狭間でとは限りませんが。

そして、桶狭間後から、久松三兄弟はお父さんの俊勝とともに松平となって、家康お兄ちゃんの方へ転仕し、一門衆(連枝衆)として三河平定に尽力し、宝飯郡の上ノ郷城を頂きました。別名宇土城、鵜殿城です。

はい、桶狭間の時に、家康が補給して城将を交代した、息子たちが家康軍に生け捕られ、家康の妻子と交換になった鵜殿長照の居城です。

元の阿久居は庶長兄にお任せ!という感じです。


そして於大の方の実家である水野氏も国衆です。

同じ水野でも、例の頼朝のパパの家臣のくせに落ちてきたパパを騙し討ちにしたので有名で、「昔より主、内海の野間ならば、報いを待てや、羽柴筑前」と恨みがましく信雄が詠んだとかいう、野間荘の長田姓を名乗った尾張平氏の水野氏は、長田氏の支流になります。平安後期には山田荘水郷、志段味郷を領しました。

その山田荘には、源氏の血を引く山田氏も居ました。


山口氏は、元々は、大内氏であるとされています。その一系統が尾張星崎に移り、大内氏が山口に住んでいたことから、山口姓を名乗りました。その山口氏は、那古野今川氏に仕えて三系統に分かれます。嫡流は傘城から寺部城を築城して移って寺部山口氏。

今川氏が信秀に追い出された後、迷走し力を失っていきます。寺部の支城の市場城の市場山口氏は弾正忠家に迷わずついていきます。

そして、桜中村城の桜中村山口氏も信秀に付きますが、家督を信長公が継ぐと、今川氏に寝返った山口教継、教吉親子です。


信長公から今川方へ寝返った戸田氏も国衆です。尾張海部郡、戸田荘を領しています。



徳川家康の松平家も元はと言えば、国人でした。織田氏と同じように、大名まで登りましたが、守山崩れで家康の祖父、清康が亡くなると自力で国を守れず、国衆まで落ち込みました。

家康の代で織田家の後ろ盾を得て、家格を回復し、天下人へと登っていきます。


彼らは、たとえ大名になっても、呼び名は殿で、お屋形様とは呼ばれません。

それは武田信玄や上杉謙信などの守護大名家だけの特権でした。


国衆は、自ら主人を決めて証人を出し、領土を安堵してもらいました。

しかし、大きな戦力を持つ彼らは、見ての通り、ただ従属するだけではなく、大名たちに重臣として扱われ、政権に参画し、運営に口出しをしていました。

不平等に扱われていると思えば、他の大名へ転仕するのは勿論、大名が気に食わねば、敵と通じて転覆を計ります。

彼らを統御し、人心を掌握するのは、大名の大きな仕事で、かなり負担になっていたようです。


江戸期の権力体制とはまた違った部分ですので、押さえておきたいポイントですね。





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