首級を改める③葬る人々

今回は、貴人と雑兵の首級改の儀式について、ご紹介します。


貴人の首級改は「対面」と呼ばれました。

その中で、宿老級の首級は、大名や公卿などと区別して「検知」と呼ぶ家もありました。


付けられた首札くびふたは、桑の木製で、大きさは幅、二寸(約7cm)長さが五寸(16.5cm)。名前は楷書で書かれました。

載せられる台は、おおよそひのき製の八寸(約25cm)四方、厚さが九分(約3cm)の板に四寸(約12cm)の脚が左右と後ろの三枚付いています。大きさはもう少し大き目に作る家もありました。

この対面用の首台は、供饗くきょうと呼ぶ家もありました。

この板も柾目で、正面から見て、横線が入っているように見えるように使います。


さて、首実検と同じように、殿や連枝、宿老たちが席につき、辺りを近習や旗頭に率いられた兵たちが取り囲みます。


首級を取った武者は、介添と共に供饗を運びます。首を正面にして右側を討ち取った武者が持ち、左側を介添が持ちます。

左側の介添えは普通に両手でたいを持ち、右側の討ち手は右手は台を、左手で髻を持ちます。(持つ手が反対の家もあります)

討ち手は先に歩きますが、少し斜めに歩を進め、後ろの介添も後ろから、同じように斜になって進みます。

殿の正面の定位置まで進むと、供饗を下ろし、右膝を突いて屈みます。

それから、後ろに討ち手が回り、髻を持ち上げ、手を添えて、右から左へゆっくりと回します。


奏者は奏上しつつ、右手の指で☆印を地面に描いて、殿に災いが降りかからないように、結界を築きました。(前回、書き忘れていました。首実検でもこの仕草はします。この為、殿は、必ず奏上があった後にしか、立ち上がりません)

殿は奏上を聞くと、おもむろに立ち上がり、弓をひく時と同じように足踏みをし、首実検と同じ所作をします。それが終わり、殿が席に付くと、酒と肴が三方にのせられ運ばれてきます。


殿の前に据えられた三方の上には、出陣式の三献の膳と同じく、素焼きの土器の盃と肴が皿に置かれています。それを干すと(拙作「戦に参る①」をご参照下さい)、給仕が下げ、別の膳が討ち手の元へ運ばれます。


首級の前に置かれるこちらの膳には、昆布と重ねられた二つの素焼きの盃が置かれています。

給仕が進みでて、柄のついた銚子を、左手を上、右手を下という逆手で持ち、二度に分けて盃に注ぎますが、これもまた、忌み嫌われるやり方です。

受ける方も左酌という、縁起の悪い形で酌をされます。


とことん、不吉で普段しないやり方をしますね。


討ち手が盃を干すと、次は首級に盃が回ります。と言っても、勿論、ふりなだけですが。

まず、討ち手が肴である昆布を、首級の口元へ運びます。

それから、討ち手が首級に代わって、下の盃を取り、給仕の逆手の左酌で、二度の注ぎで受けると、首級の口元に近づけ、飲んだ風に地面に酒をこぼし、盃を膳の上に伏せます。

この膳の上に伏せる仕草は、現代でされている方もいますが、非常に縁起の悪い振る舞いで、迷信深い当時は、普段、誰も致しませんでした。

それから今度は上の盃を取り上げ、再度逆手で左酌、二度注ぎをして、口元へ持っていき、下へ零し、膳に伏せます。

これは「四度注ぐ」で「死」に通じ、死者へ礼であったようです。


二度目の首級への盃が伏せられると、見守っていた殿は立ち上がり、そのまま退場をします。

殿の姿が消えますと、次いで討ち手と介添が、供饗を持って立ち上がりますが、ここでは右足から起こします。戦国期では、普段、常に左から動作を始めるのですが、全て右からになっていましたね。そして、来た時と同じように退場します。


使った食器などは、そのまま棄てられるそうです。

以上が「対面」になります。



 葉武者たちの首級改は「見知」と呼ばれました。

付けられた首札くびふたは、椿か杉で、大きさが、幅一寸程度(約3cm)、長さが三寸六分(約11.9cm)。名前は仮名で書かれました。

この札は髻に結ばれ、右側へ垂らしました。

首台も余程のことが無い限りは用意されず、大体百個単位で纏めて、幕の外にズラリと西向きに並べられます。これを「頸揃くびそろえ」といいます。

中でも、少々曰くがあったり、立派な者がいれば、そこに板を立てて、区別したそうです。


 用意が整うと、殿が馬に乗り、北から南に通り過ぎます。やはり、通り過ぎる時には、ブツブツと呟きつつ、白目を剥いて、目尻でチラリとそっちを見たかな〜?という感じの雰囲気を醸し出します。端っこまで行くと、また左回りにUターンして、北へ戻り、全部で3回北から南に前を通り過ぎます。


見知は実際のところ、殿ではなく、軍監や戦大将たちが、代行で行うことの方が多かったようです。


 次に「首供養」について書いていきます。

まず、迷信深い当時の事ですから、討ち取られた時の表情で、吉凶を占いました。

一番大事なのは「眼」であるとされ、左を向いているのは、「左眼」と言い、敵に吉、お味方には不吉。反対に「右眼」は味方に吉。下を向いているのは「地眼」で吉。上を向いているのは「天眼」で不吉。ところが武田家では「天眼」と「地眼」は反対の意味になりました。

両眼を閉じているのは「仏眼」で成仏をして災いをもたらさないとされ、反対に激不吉なのが、歯を食いしばり、片目だけ開けている首級で、これは後述する「首祭」「首供養」をすることになります。


それから鼻を削ぐという話をしましたが、鼻を削がれた首級を「女首」といいました。なんで、女首なんでしょうね?

とりあえず、鼻を削いだら、戦後、該当する首を探しに行ったそうです。

『雑兵物語』では、削いだ鼻は鉄砲袋の底に入れ置いたので、型崩れをして、首級になかなかくっつかなくて大変だったとか、非常にリアルな話が書いてあります。


 首実検や対面に供せられるような首級の場合は、儀式が終わり次第、幕外に用意されていた首桶に、首台のまま入れられます。

首級を納める「首桶」は、檜、杉を薄く削り取ったもので作る、円柱型の曲物わげものです。

高さが一尺八寸(約68.2cm)、口の大きさの直径が八〜九寸(約24〜27cm)で、普通、被せ蓋がついています。この大きさもおおよそです。

被せ蓋の上には卍の模様が焼印か、筆で描かれます。中には漆塗りの首桶が残っていますが、これは行器ほかいと呼ばれるもので、朝敵、その一門の首級に使われるものでした。

彼らは、槍先に立てて、三日の間、晒し首にした後で、穴の中へ埋められます。この行為は獄門と呼ばれます。供養など無かったと言います。


 さて、首祭、首供養です。

まず、例の不吉な祟られそうな形相の首は、首の種類にかかわらず、その場で僧侶にお経を読んで貰い、供養をしました。


この後は家や大将の考え方によって扱いは違いますが、基本的に戦さ場に打ち捨てられた遺体は、大きな穴を掘って、そこへ入れられます。

戦さ場の戦後処理は、基本的に勝軍のお仕事で、周囲で見守っていた庶民の皆様に手伝ってもらい、穴を掘ったりするんですが、皆様、乱取りで忙しいので、小銭を握らせたり、優先的にご遺体の「良いもの」を身包み剥がさせてあげたりします。


討ち取られた首級は、ご遺体とは別に首塚を築きます。大きさは一尺二寸(45,5cm)四方、高さも同じくらいで、更に石塔や卒塔婆を立てました。

塚を築くと、僧侶に供養をしてもらいます。

石塔や卒塔婆が間に合わない時には、矢を一本刺して、矢塔婆としました。


また、討ち手の方も供養をします。

母衣武者や有力な武将を討ち取った者は、二十一日間精進潔斎し、塚を築いて僧に供養をしてもらいました。

平首の場合は、それぞれの人が三十三首をとるごとに、首塚を築き、僧侶を招いて供養をしました。この三十三供養を何度したかは、それぞれの武勇になりましたが、結構お金がかかったので、百首まとめてとかしていた話もあります。


大将首になると、もう少し大掛かりで、対面が終わった後、大きな辻に晒し、当家が討ち取ったことを内外に知らしめます。

これはSNSやTVのない時代に、街の噂や取次から聞いた、戦勝の確認をしてもらう手段で、戦さでの晒し首は、獄門とは違い、首級を辱める意図は無かったと言います。

これが終わると、念入りに千僧供養を行いました。



首実検以上の首級は、相手方は返すことが多く、その場合は以下の手順で引き渡します。


まず首級は首絹と呼ばれる、薄手の絹布で包み、綴目とじめを正面にして首桶の中に納めます。首級が母衣武者の場合は、腰紐を切った母衣で、右上にして包みます。

また大将では、お仕着せの絹布ではなく、本人が着用していた着物の錦布などを使ったとも言われています。

包み終わると、蓋をして、革、帯製の緒を十字に掛けます。

更に一幅(約37,8cm)の白布を広げて首桶を置き、蓋の上で結びます。

これも様々で、二幅(約75㎝)、長さ二尺四寸(約90㎝)の家もあったそうですし、大将であれば白布ではなく、錦の布で包んだという例もあるそうです。

そして弓取り、武人であることに敬意を表する為に、征矢(実際に戦に使用する鋭いやじりの矢)を添え、また定まった書式の文書も付けました。


 使者は甲冑を着、相手側の受け渡しの使者の元を訪れます。

この時、矢の根を自分の方へ向けておきます。

相対した引き渡しの使者は片膝をついて、頭を下げ、まず矢を右手で相手に渡します。この矢は「暇乞いの矢」と呼ばれます。

続いて、白布を取り、底を右手で支えて、左手で緒を持ち、綴目を相手に向けて差し出します。

そして蓋を開けて、首級を確認し、引き渡したそうです。

ちょっとですね、実はこの引き渡しの儀礼に言及した史料を見失っておりまして、ここまでは記憶でかいているのですが、また史料を発見し次第、書き込みます、ニーズはないかもですけど……


これが出来るのは、まだフレッシュな頃で、桶狭間の時には、引き渡した頃には腐乱が進んだ為に、持ち帰ることが叶わず、途中で義元の首塚を築いて埋葬をしたそうです。


 全てが終わりますと、宴会が開かれます。

この時にですね、お膳にお椀に入ったご飯が出ますが、普通は玄米のご飯です。手柄を立てなかった人には「黒椀」という黒米くろごめが出たそうです。

反対に、大将を討ち取った、殿をしたなど、上々な手柄を取った者は「赤椀」という二の膳、三の膳まで付く豪華なお膳が配給されたそうで、これを「赤椀黒椀の軍法」という決まりごとだそうです。






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