首級を改める② 我が手柄を御目に掛ける!
さて、今回は首級改の儀式について書いていきます。
平安時代にもこの首級改はあったようですが、然程儀式ばったものでもありませんでした。
武家による首級改は、かの源義経が始まりと言われています。
時は元歴元年(1184)二月七日、一ノ谷合戦後に、士気高揚を兼ねて、義経が執り行ったと『春日山日記』に書かれています。
『吾妻鏡』に拠る、文治五年(1189)の衣川合戦で、義経の首級を改めたことをはじめとする説もありますが、平家滅亡時には既に首級改があったようですし、この辺りは定かではありません。
義経が実検者として大掛かりな儀式を執り行う様子は、『本朝武家評林』に載っています。寡聞にして、戦国時代当時の図解を見出せず、この図が往時を偲ばせる唯一の首級改の図解であるとされています。
そして、儀礼が整う室町期に更に様々なしきたりが盛り込まれ、仰々しくなっていきます。戦国時代は、室町時代からの流れで、身分が儀礼に結びついている社会ですので、死んでもキッチリと身分により、様式が変わりました。
首級改は相手の生前の地位によって、言い方が変わります。
大将の場合は「
武者の場合は「
葉武者、足軽の場合は「
今回は、標準の「実検」から書いていきます。
これは代名詞になる程有名なので、ご存知の方も多いと思います。
まず、場所ですが、寺が多かったようです。
まず、寺の山門のうちに儀式の場所が設えられます。首級を見てもらう人たちは山門の外へ控えます。寺ではない場合には幔幕を張り、内外を分けます。
ここからは更に『本朝武家評林』と『図説 日本戦陣作法辞典』、『武者物語』を見つつ説明をさせて頂きます。
さて、綺麗に首化粧した首級は、
付けられた
本来、足立氏は斎藤家の股臣になりますから、さほど身分は高くはありませんが、二つ名を持つスター級の方でしたので、武将級の扱いを受けています。
さて、その札は上から二分(5㎜)下がったあたり切れ目を入れ、細い紐で髻の左に付けました。大将首と兜首は左、葉武者は右となっていました。
入道など髪の毛のない方は、耳に穴を開けて〜付けられます。クラクラ。
載せられる台は、六寸(18.18cm)四方に二寸(6,06cm)の脚が二枚付いています。
この首台は首板ともいい、縁のない板に蒲鉾の板みたいな脚が付いているもので、上部に釘が出ており、そこに首の切断面を引っ掛けるようにして安定させました。
板は柾目で、前から見ると、左右にラインが入っているように置きます。これは普段ではしない縁起の悪い使い方になります。この縁起の悪い不吉なやり方が織り込まれているのが、首級改の特徴です。
この首板、首台が無い場合には、扇子や葉で代用したそうです。
しかし、こうしたグッズも小荷駄隊で運んだんですかね?
さて、ここに出てくる皆様は礼を尽くす為に、城に一旦帰ってお風呂に入って寛いだ後でも、兜を被り、甲冑を着て、戦支度をし、背中には弓矢を背負い、槍や弓を手に完全武装で行います。
梨子打烏帽子や髷を覆う布などを被っていた室町初期までは、烏帽子姿でしたようですが、戦国期には兜を被るようになっていました。
奏者に名前を呼ばれますと、首級を手に持った家臣は、
幕内正面には、殿が南面し、扇を片手に、虎などの獣皮を敷いた床几、または
軍扇は昼間には、日輪の絵柄を表にし、日が落ちてからは、月輪を表にすることになっています。
足は敷物の白い部分に置くのがしきたりだったそうです。
また胡坐で座ったという話もあります。
結構、家々によって違うので、大まかなところですね。
殿のすぐ後ろには、弓持ちの従者が立っています。
殿の周りには数人の小姓衆が
その殿の一団の後ろには副将、戦大将、侍大将などの連枝衆(兄弟、親戚)、宿老の皆様が、殿の後ろ正面を開けて、左右に分かれてずらりと居並んでいます。彼らは、戦の時の座り方である足の裏を合わせた
戦さ場では、家臣たちは武器を帯びていますので、主君に刃向かうつもりがないことを、殿が臨席の場では示す必要がありますので、こうした座り方になります。
更に、その殿と宿老たちのスペースを三方囲むように、後ろ二百騎ばかり、左右各百五十騎の近習たちが取り囲んだといいます。
また首級を見てもらう人がまかり出る場所の三方にも、兵がぐるりと囲んでいます。
まず首級を持って入った武者の左右に旗頭が威儀を正して立っており、その後ろに二十騎ばかりの近習が並んでいます。
更にその後ろにスペースを空けて、それぞれ旗頭に率いられた一軍隊千騎ばかりの兵が左右と後ろの三方向を固めています。
この人数は義経の執り行った儀式によるもので、かなり大々的な規模です。
警護のため、近習が取囲んだのは変わりないでしょうが、どうだったのでしょうね。どちらにしても、家の大きさや、戦の規模で変わったはずです。
この厳戒態勢の理由は一つには、首が飛んで殿に喰いつくとか、飛んでいくというオカルトなもの。もう一つには、大将や名のある武将の首級を取り返しに来るという事情によるものだそうです。
しかし、これは、相当広い場所でないとできませんね。
さて、名前を呼ばれた武者たちは、揃って首台を持って幕の中に入っていきます。幕を張らない寺の場合は、山門前に歩いていきます。
戦国期には作法が複雑化し、それぞれの家が独自のルールを持っていました。
それに合わせた礼法を守って振舞います。
武者は片方の手を首台の下に後ろから入れ、手の平で支えるように持ち、もう片方の手で首級の髷を持ちます。この手は家によって、左右が決まっていました。
左脇の方へ抱えこむようにして持つと、静かに罷り出ます。
罷り出ますと、殿から二、三間(3.7~5.5m)離れた正面の定位置につきます。
『書礼袖珍宝』
右膝を突き、左膝を立てる。
『軍用記』
胡坐。
殿が手にしていた扇、軍配を腰に差します。すると殿の後ろに控えていた弓持ちが、進み出て、殿に弓を差し出します。
殿は左手で受け取り、弦を内側にして弓を立てます。殿が弓杖を突くと、弓持ちは左から定位置に後ずさって戻ります。
殿は弦を外に向けて、手を膝に置き、弓を斜めに持ちます。
武者は、
『書礼袖珍宝』では首板のまま、髻を少し持ち上げ、顔を上向かせて、前と横顔の三度見せる。
『軍用記』では、首台を下に置き、おもむろに首を持ち上げまして、左手を首の下に入れて、耳に大指(親指)を突っ込んで……ヒィ〜
残る4本の指で
とあります。
すると右前方に畏まっていた司会進行役の「首の奏者」が、膝の前に両手の拳或いは指をチョコンと突いて、☆印をささっと描いて結界をはってから首を見、それから殿の方へ顔を向けて
「前田又左衛門 討ち取りし候処の足立六兵衛の
と大声で元気よく奏上します。
討ち取った首が誰か分からない場合は、討ち取った人の名前だけが呼ばれます。
奏上が終わると、殿は立ち上がり、顔と体を右に向けて弓杖を突くと、右手で太刀の鯉口を切ります。体勢は弓を射る形ですね。そしてそのまま、白目を剥いて左の目尻でチラッと首を一瞬見ます。
この時に「諸悪本末無明束実検直儀何処有南北」と口の中で唱えると、死者は速やかに成仏し、祟らないとされていました。
見終わると、カチンと太刀を戻します。
殿がチラ見したなと察した武者たちは、首台を持って左回りに幕から退きます。
殿も左回りに回って定位置に戻り、腰掛けていた床几か鎧櫃に腰を下ろします。すると弓持ちが駆け寄って、弓を受け取ります。
殿はおもむろに腰に差していた扇、軍配を取り出すと、左手に持ち、昼間なら日輪、日が落ちていれば月輪を見せ、胸前で大きな動作でバッサバッサと三度扇ぎます。
実際にこのように殿が首実検をするのは、三番首までと名のある武者の首だけで、全員の首級を検分した訳ではないようです。
名のある武者とは、例えば、有名な軍師、二つ名のある武者、母衣衆などです。戦さ場で目立つ母衣と呼ばれる、長い布を棚引かせて走る、主君の親衛隊である騎馬兵の母衣衆は、勇猛果敢であるということで、尊敬される立場にありました。彼らは討ち取られた後も、特別な扱いを受け、その首級は母衣で包まれ、首実検に供せられました。
さて、全ての首級の披露目が終わりました。
殿は閉じた扇子、軍配を右手に持ち、立ち上がり扇子、軍配を持ち替え、再度弓を受け取り右手に持つと、胸前で扇子を開いて、或いは軍配の日輪だか月輪を見せたまま、「えいぅわう」と皆の衆に呼び掛け、一緒に立ち上がっていた家臣たちも「おう!」と応えます。
こうして、三度鬨の声を上げ終わりますと、弓持ちが弓を受け取り、閉じた扇子や軍配を右手に持った殿が左回りに退場をされて、儀式は恙無く終了しました。
これが普通の将の首実検になります。
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