桶狭間に散った大宮司 千秋四郎季忠 

 織田氏と千秋家の関わりをここでは見ていきます。残念ながら、千秋四郎季忠の人物を示すエピソードは見つからず、彼を取り巻く状況をお伝えするのみになります。


前回、千秋家の成り立ちを見ていきました。

熱田神宮の話でしたね。

ここで、軽く振り返り、補足します。


元々、熱田神宮大宮司は、尾張氏でしたが、禁裏に本貫を召し上げられ、藤原千秋氏に娘を嫁がせ、その嫡男に跡を継がせることで手を打ちました。


 さて、世の中は南北朝を経て、三代将軍、足利義満が勢力を蓄える為に、各地の守護の力を削ぐ為に画策を始めました。


よく三代目で潰れるといいますが、義満は政治的にも、経済面でも非常に優れた方で、毀誉褒貶はありますが、治天の君として、なかなか肝の据わった方であろうかと思われます。


土岐氏が、「美濃の乱」で室町幕府に討伐され、義満の元の養い親である斯波氏や、「足利の血が絶えた時には吉良が立つ」の吉良氏も、義満の謀略にしてやられます。

すごいっすね?



そして、洛中民の皆様の言う所の、「先の戦い」の応仁の乱が始まります。


応仁の乱は、細川勝元と山名宗全の対立に始まった、応仁元年(1467)から11年間の、すったもんだです。


 越前・尾張・遠江守護の斯波氏も、それに絡んで再び家督争いが始まります。

尾張でも守護代の織田氏が、二手に分かれて争い始めます。


文明8年(1476)、元々守護代職の、伊勢守織田敏弘(広、廣)が、応永7年(1400)に、守護職、斯波義重が築いた尾張守護所、下津城に入ります。

そこを傍流である大和守家織田敏定が攻め、焼きました。

結果、伊勢守織田敏弘は負けて岩倉城へ退き、守護所別廓として、応永12年に建てられていた清須城を守護所として、文明10年に大和守敏定が入りました。


大和守家は、下尾張守護代となります。そのサポート役の執行人である3代官のうち一つが、後に信長公を生む弾正忠家です。


 そして応仁の乱の頃、幕府奉公人の千秋家は、将軍の近習のために、相変わらず、在京をしておりました。

その中で、範忠の弟の範信の息子のうちの一人、範時の子孫に、千秋李国という方がいます。

この方は大宮司では無いのですが、大宮司が在京をしている時代に、尾張熱田社の方へ戻ります。

応永26年(1419)6月から社務代、文明元年(1469)11月からは奉行、延徳2年(1490)からは大宮司代として季国(のちに月栖)が、しきりと発給文書を出して、熱田神宮大宮司家を掌握している様子が見られます。

当時、相変わらず、尾張氏が把握していた熱田の支配を、千秋家へ移譲させて、人脈を構築していっているのでしょう。

ちょっと長生きですね……不安ですね。

李国さんのお父さんと李国さんの話かもしれませんね。

ちょっと言い訳なんですけど、これね、皆さん、大宮司になる為に、家系図を改竄されるんですよ。だもんでね、遺されてる家系図ってね、非常にわかんない部分が出てくるんですね。

だもんで、微妙なんですけど、ごめんなさい。多分二代かけて、持って行ったんだと考えてくださいね。


 その尾張では、文明15年(1483)3月11日、越前から斯波氏が、尾張守護として清須に入城します。


 さて、平安後期に海部郡が上下に分割してできた海西郡、中島郡を支配下に置いた、信長公のおじいちゃんの弾正忠信貞は、津島に居城を移し、更に永正年間(1504〜21)、津島に近い勝幡城を築城し入城しました。


さて、ようよう本題です。長かったですね。


甥っ子の政範が二回大宮司をした後、季国は天文2年(1533)7月28日、息子の季通に大宮司職をゲットします。


そして天文7年(1538)、勝幡城から移動して、那古野、古渡とズイズイ熱田の近くへやってくる、弾正忠織田氏の信秀公と、関わるようになってきます。



なんで近づいてきたのか、と言いますと、前回でも申し上げた通り、この熱田の経済力と人脈が相当なものなんです。加藤家もそうなんですが、熱田神宮もすごいです。


どれだけ凄いかというと、文和三年(1354)なんですけど、熱田神宮が納める年貢が、1291貫文(藤本氏前掲書)と書いてあります。これがごっそり、熱田神宮の大宮司の立場を保証する者の懐に入ってきます。


この1291貫文というのは、現代でいえば、どれ位なのでしょうか。

中世では「米一石、一貫文」と言われていました。といっても、その年、その年の米の出来具合や、品質によって違いますから、目安なんですけどね。

1貫文は銅銭千枚を纏めた単位で、大体15万円前後だっただろうと言われています。

ということは、おおよそ2億円弱の年貢だったことになります。

それを払っても、尚、平気なほど、実入りがあるわけで、いや、すごいです。

私で良ければ、保証しますって人は、限りなくいそうです。


これだけの収入と人脈のトップですから、皆、大宮司職に就きたいなぁと思います。

ポスト争いですね。最初は身内同士でワイワイやっているんですが、もうね、千秋家から分家した星島さんとか萩さんとか、娘婿の野田さんとか、もう打ち乱れて、大宮司職争奪戦を繰り広げます。

先程のね、家系図もね、改竄しまくられますね。


こりゃあ、埒があかんわいということで、外部の権力者に、保証をしてもらう形になっていきます。

「〇〇さんに承認された」ということで、大宮司職に就きます。

将軍になりなさいって言われた!とか、いやいや、僕なんか、もうね、帝のお母さんの侍女さんから、なったらいいよって言われたんだ。きっと帝のご意思だよ、とかね。

そして、保証した人は、賄賂をがっぽり頂いた上に、毎年、上記の年貢を頂戴する、というシステムが構築されていきました。


それでですね、信秀さんはこの頃、凄い勢いで実力者になっていますから、李国さんも君に決めた!という感じでしょうか。

信秀さんが「じゃあ、次の大宮司はこの人ね」と言っているのに、だめとかいうと、体面を傷つけたなと言って、織田軍団がわあわあ、きてしまうかもしれませんね。

何しろ離れた京の誰それじゃなくて、すぐ軒先の方なんで、ワアワア来られたんじゃたまりせん。


その上、なんと、ここから大宮司家は千秋季国くんとこ一択で、と決めてもらいました。

これは、もうすごいことです。

皆、不満で一杯かもしれませんが、言うことを聞かざるを得ない、それだけの力が、弾正忠織田家にはあったのですね。


前回も書きましたが、信長公所蔵の源義経、頼朝兄弟の鞍は、頼朝の母を生んだ千秋家から、この辺りで、賄賂として納められたものかもしれません。

何しろ鎌倉殿の鞍ですからね。いざ鎌倉で、道までできちゃうんですからね。そのいざ鎌倉の道は、すぐ側に通ってますから、親しみも一入です。

凄いものです。

奉納されたものなので、鎌倉殿が使用したかどうかは定かじゃありませんが、由緒正しいものです。



 ということで当時の大宮司千秋季光は、信秀の家臣化して、織田家に年貢を納め、ついでに従軍もします。

この熱田神社の皆さんは、源平の争いに関わったりして、元々なかなか血気盛んな方々だったようですから、神職なのに?という感じではないのですね。


ところが、天文13年(1544)加納口(井ノ口)の戦いと呼ばれる、対斎藤戦の稲葉山城山麓における戦いで、大宮司さんは討ち死にしてしまいます。

神のご加護は……


不幸中の幸いにも、彼には息子が三人もいました。


季忠は信長公と同じ年に生まれですので、この時十歳、元服には早い年頃です。大宮司家の系図(熱田大宮司千秋家譜)を見ると、長兄の季直が天文16年(1547)に大宮司職に就いたように書かれています。

3年のタイムラグがありますから、大宮司代を立てて、一定の年齢になるのを待って、お父さんの後を、お兄ちゃんが継いだということでしょう。


お兄ちゃんがどうなって、結局、末弟が大宮司になったのか書いてありませんが、少なくともその13年後の桶狭間の時には、季忠が大宮司になっていました。お兄ちゃん、死んだんでしょうか?


ともあれ、季忠は大宮司になります。


千秋季忠の奥さんは、浅井たあさんです。なかなかカワイイ名前ですね。

浅井さんというのは、「尾張郡書系図部集」によりますと、熱田の住人でお医者さんの家系だそうです。

この熱田浅井家には、織田家の文書が残り、『熱田浅井家文書』なんて呼ばれていて、重宝されています。通説以外の記録も残り、非常に興味深いです。


さて、浅井四郎左衛門さんは、息子さんも四郎左衛門を名乗っていますが、年齢的に天正4年8月12日に他界したお父さんの方でしょう。

四郎左衛門さんには、小姓の加藤弥三郎の実家、熱田豪商加藤家の娘が輿入れしています。

ということは、加藤弥三郎と季忠は親戚ですね。


ついでに、加藤弥三郎のお父さんと、李忠のお母さんの弟が、おそらく小姓の岩室重休のお父さんで、その姉が主君、信長公の弟、長利のお母さんなので、とっても密です。


また、加藤弥三郎の舘城には、一時期、松平竹千代御一行様を引き受けておられましたから、近所の李忠は、石川数正たちと遊んだことがあるかも知れませんね。

微笑ましいことです。


ついでに、信長公の側室で、三男信孝を生んだ板氏娘は、熱田神宮の神官、岡本氏の親戚なので、この辺りも、知り合いかもしれませんね。

密ですね。密。


さて、熱田は、大宮司千秋家と豪商加藤家が支配していました。ですから、お互い婚姻関係を結び、支配を強固なものにしていっていたのでしょう。


そして桶狭間で、大宮司千秋李忠が亡くなった、その時、たあさんの腹には、次代大宮司になる、季信が宿っていました。

妊娠七ヶ月だったそうです。何とも悲しい話です……

それで、次兄の季重を大宮司代に立てて、たあさんは実家に戻ります。


永禄9年(1568)、李信が、無事に数えで8歳(満7歳)を迎えると、信長公は、浅井家に7貫200文を与えています。

更に天正2年(1572)、数えで12歳を迎えた季信は、信長公に拝謁します。


三河高橋郡舞木村、尾張国海東郡下田村、同丹羽郡赤目村を給され、「以後従軍を止め、社務に務むべし」という言葉を頂戴します。

大宮司職就任は、天正4年(1576)正月10日、信長公の朱印状が残っています。


のちに徳川幕府の下、尾張国愛智郡野並郷717石を社家として安堵されています。

そして30を迎えることができなかった父、祖父の代わりに、52歳まで生きました。命日は、慶長17年(1612)11月17日。


天国で、現世では会えなかった父、李忠に逢えたでしょうか。






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