信長公の天下取りを支えた熱田社の歴史


 熱田は津島と並んで、信長公の天下取りの下支えをした重要な拠点です。

戦国当時、神階、正一位を誇る熱田神宮の大宮司、千秋せんしゅう家、伊勢湾よりの入口を挟むようにして館城を築城した、豪商、東西加藤家が、その熱田を支配していました。


この熱田の方々はなかなか面白い歴史をお持ちなので、今回は皆様と共有し、大宮司、羽豆城主の千秋季忠、あるいは加藤家への話の下地としていきたいと思います。


 まず、この熱田神宮と大宮司家を、過去に遡って見ていきたいと思います。


 平安後期、国司の目代(代理)として、下級貴族の三男、藤原季兼ふじわらのとしかねが尾張へ下向してきました。

そして、当時の熱田大宮司である尾張員職おわりのかずもとの娘を娶り、二男に恵まれます。

そして、尾張氏は大宮司職を、季兼の長男で、孫にあたる藤原季範ふじわらのすえのりに譲り、権宮司(副官)に退きます。


尾張員職に、譲る息子が居なかったのでしょうか?

いいえ、息子は三人ほどいますし、権宮司になっている兄達もいます。それにも関わらず、三河からやって来た、下級貴族の季兼の長男の季範に譲ったのです。


そもそも、長男が生まれた時、藤原季兼は既に47歳で、当時では老年の域です。お爺ちゃんです。もしかしたら尾張員職より年上だったかも知れません。

その彼に、愛娘をわざわざ嫁がせたというのは、どうもいわくがありそうです。


なんだか、この話、非常に珍妙なことだなぁと思いませんか。


ここが歴史の醍醐味の、とても面白い参考例なんですよ。

ちょっと見ていきましょう。


この唐突な移譲に関して、大宮司家の資料には、員職が「霊夢を見た」と書かれていますし、通常、それに沿った説明がされています。

Wikipediaにもそう書かれていますので、そこから小説を書いておられる方も多いことと思います。


信仰心厚い時代ですしね。そういうこともあるのかなぁという気がしますよね。

ところが『宇治拾遺物語』を読むと、これがなかなか面白いことが、書いてあります。


長久三年(1042)のこと、尾張守として橘俊綱たちばなのとしつなが下向したにも関わらず、尾張員職の父で、当時の大宮司だった員信かずのぶは、挨拶に赴きませんでした。それに怒った俊綱は、社領を取り上げたとあります。


 何故大宮司は、国司の下向に際して、挨拶に行かなかったのでしょうか。


この尾張氏というのは、非常に古い家で、『日本書紀』にも登場しています。もとは海部あまべ氏と言い、渡来人で海洋系の一族だったようです。尾張に「海部郡」というのがありますね。

少なくとも5世紀までには「尾張」と名を変え、尾張一円を支配下に置き、古くは日本武尊、そして孝昭天皇、崇神天皇などへ、多くの皇妃を出しています。


特に重要なのは、日本武尊が東征して草薙剣を持ち帰って預けた、継室の宮簀媛命みやすひめのみことが尾張氏の娘であることです。

ここから草薙剣が、熱田神宮の御神体になるわけです。まぁ途中ゴチャゴチャとありますが、すっ飛ばして参りましょう。


尾張氏は6世紀ごろに朝廷から「尾張国造おわりくにのみやつこ」に任命されています。もう、古墳なんて作りまくりで、尾張氏の威を内外に現します。

7世紀になると、尾張氏は古墳に変わって、せっせと神社仏閣を建設するようになっていきます。

建築大好きですね。


また現在の氷上姉子ひかみあねこ神社は、初期の熱田神宮です。元は「火神」「火上」だったそうですが、燃えちゃったんで縁起が悪いということで、「火」が「氷」になったそうです。

例の桶狭間の戦いの時に、この氷上姉子神社がある山に、別働隊である大宮司千秋氏が一軍を率いて居たのではないかとされています。


さて、その熱田社、氷上姉子神社の他、尾張部神社、尾張氏の祖神を祀った羽豆神社など数多くの神社が建立されていますね。


『日本紀略』に拠ると、弘仁13年(822)に初出の熱田神社の神階は、従四位下です。

これは、とんでもない。三種の神器が祀られているとは思えない扱いですね。

しかし、11世紀を迎える頃には正一位に登り、権勢は「尾張国の大社」として最高潮に達します。

何と言っても草薙剣です。神宝です。遂に、真価が認められたといっても過言ではないでしょう。

ところが、どうも、それだけではありません。

尾張氏祖神を祀った羽豆神社もそれに続く、従一位になっています。


これは、なんていうのか、こう……結構権勢欲のある世俗的なやり手の一族でいらっしゃる。すみません、失礼なこと言って、尾張さん。

まぁ、御先祖のことなんで、大目に見てもらいながら、勝手に話を進めるんですけども。

まぁ、尾張氏の弛まぬ地道な政治的活動の結果が、このように関連神社の神位に現れて、領地で「すごいぞ、尾張氏」みたいな感じで、支配力がパワーアップしていたという話です。


と、言うわけで。

そういう歴史を背負っていますから、朝廷から派遣される国司やその目代たちに、尊大な態度を取っていたんですね。「あいつ、最悪やで」という文書が残っています。

任期が6年(のちに4年)の国司からしても、地元の有力者である尾張氏に機嫌を損ねられては、経営がうまくいかない、という事情があったのでしょうね。


そういう事情があり、おごり高ぶった尾張家の社領を取り上げ、弱体化させるというのは、最初から仕組まれていたのではないでしょうか。


 そして、その三年後(1045)、帝の怒りが解けないまま、恐れ入った員信は、三男の員職に大宮司職を譲ります。

しかし、尾張氏の所領を返されることなく、思惑通り、尾張氏は力を失っていきます。(のちに返還されます)


 さて対する藤原季兼です。

彼の兄や親戚が、国司である三河守を歴任しています。

平安時代からの常で、彼らは国司を拝命した時位しか現地に下向せず、目代という代理を現地に寄越します。

彼らの代わりに、長い間、三河へ下向していた季兼は、額田郡を中心に開墾開発して自領とし、三河では有力な領主になり、「参河四郎太夫みかわしろうだゆう」と名乗っていました。

しかも姉妹が、摂関藤原道隆の孫忠親に嫁ぎ、その子を季兼が預かり、額田郡で養育をしていたり、おばさんとか従姉妹とかが、帝とか院に嫁いで「なんちゃら院」とかになったり、乳母になったりして、田舎の目代なんですが、中央ともパイプの太い有力者なんですね。


 この頃、季兼の叔父である保相の子一族が、尾張守を度々任じられていたことから、その縁で季兼を呼び寄せ、尾張氏娘(「玉葉和歌集」によると「松」)との間にできた孫の季範に、大宮司職を譲ることで手を打ち、本貫を失っていた熱田大宮司家に、季兼の所領を安堵することで、熱田神宮の神位を守る結論に至りました。と言っても、すんなり行きません。そういうものですね。

国司として何度かおじさん一家が下向し、尾張氏に圧を掛けています。


 さて、康和3年(1101)季兼が亡くなり、永久二年(1114)24歳の季範が大宮司に就任しました。

この藤原季兼は、かばねが千秋であったことから、ここに熱田千秋家ができました。


季範は京に滞在し、実際の運営をしていたのは、依然、尾張氏でした。

藤本元啓氏によると、季範就任より、少なくとも応永年間(1394〜1428)に至るまで、太神宮庁は京の大宮司居館に置き、代官を派遣していたとされています。

まぁ、国司と目代(代理)みたいな関係ですが、そっちの方がお互い上手くいくシステムだったのでしょう。


 さて京に滞在している季範は、朝廷で勢力を伸ばしていました。

そのお陰で、大宮司家は源氏と結びついて、その勢力を拡大したと言われ、また武家の側面を色濃く持つことに至ったようです。


大宮司季範は、北面の武士である河内源氏の源行遠みなもとのゆきとおの娘と結婚します。

全員が正室の子ではないようですが、七男、四女に恵まれます。ここの所が、後々影響を及ぼす重要ポイントなので、足を止めて見ていきます。


男の子たちは後白河さんの北面の武士になったり、出家したりします。

女の子のうち、お由良さんという娘さんが、源義朝と結婚して、かの有名な頼朝さんを生みます。

他の娘さんもなんちゃら院の女房として、出仕したりして、大宮司家の勢力はグングン増していきます。


 以下、彼の子女を整理しておきます。(【中世熱田社の構造と展開】藤本元啓著)


・範忠 長男 従四位下 内匠頭、諸大夫、後白河法皇北面(大宮司)ー息子清季が【野田】

・範信 【星野】 式部丞、のちに上野介(鎌倉幕府 御家人)

・範昌(雅)五男 後白河法皇上北面(父から大宮司を継ぐが、父が亡くなると兄、範忠に職を譲る)

・範綱 大学助太夫

(出家者)

・範智(粟田口)園城寺法眼(近江、大津)

・長暹 仁和寺法眼 諸寺執行 後白河第二皇子守覚法親王に仕える。

・祐範 園城寺法橋(父の菩提寺)


(娘)

・千秋尼 上西門院(統子内親王)女房 

・大進局 侍賢門院女房(待賢門院は縁戚)

・お由良(通称) 源義朝 正室 息子が頼朝 

・不明  源師経 正室 息子 隆保

・不明

この末娘の不明さんは後に範忠の娘として、足利(源)義康と結婚します。出来た三男が義兼といい、源頼朝正室、北条政子の妹、時子と結婚します。鎌倉殿の相婿として、羽振りが良かったそうですね。

不明さんから直系で下ること6代に足利尊氏が出ます。千秋家強しですね。


さてこの後、世の中は保元、平治からの源平の戦い、そして鎌倉幕府へとむかっていく流れです。


ご覧の通りスタート地点に於いて、千秋家は役職上は法皇に近く、縁戚的には源氏に近いという形になります。

彼らはこの時代をどう生き抜いたのか、少し見てみます。


 まず、長男の範忠は実は後白河院が親王時代からの仲良しさんです。

元々、藤原千秋家というのは、管弦が上手なご一家なんです。

後白河院といえば、最初は権勢欲もない風流人で、今様が大好きで2日3日歌い込んで、喉つぶれてもうたとかいうエピソードをお持ちですね。そんな後白河院と長男範忠くんはカラオケ仲間です。

ここから暫くは、このカラオケのご縁で、後白河くん、源くん、範忠くんは、言ってみればパリピな仲良しの生活をしています。

範忠くんは、妹を源義朝くんに、更に娘を源義康(足利義康)に嫁がせ、この御縁で義朝くんと義康くんは仲良くなって、同盟まで結ぶ仲になっています。

ここで、鎌倉、室町幕府と熱田神宮との縁も出来、頻繁に各種奉納をしてもらう縁ができました。


1147年には、季範おじいちゃんちである、尾張、熱田大宮司家別宅で頼朝くんが誕生します。まさかこの時、この坊やが征夷大将軍になるなんて思わなかたことでしょう。

しかし、妊娠中に琵琶湖の東岸に切り立つ山々を越えて行ったんでしょうか?京をでて、堺あたりから海路で?

この別宅って、先程あげました京の御屋敷ではないかという気がします。おじいちゃんご夫妻もこっちにいますしね?わざわざ馴染みのない向こうへ?

でも熱田に折角立派な碑が立っていますので、お由良さんたら、妊婦なのにすごなぁと言う感じでいきたいと思います。

また、信長公は頼朝と義経のゆかりの鞍を持っておられるのですが、このご縁かと思われます。

ま、つかまされているかもですけども。


さて話は戻りまして、保元の乱では、当然、源義朝、義康と共に後白河院に付きました。


ここまでは、順調なんですが、次の平治の乱では、何たることか、源くんたちが反乱し始めて、範忠くんは頭を抱えます。

いや、藤原千秋家自体が頭を抱えます。

気分は「ないわ〜、源くん、ないわ〜」でしょう。


金比羅宮に残る文書では、「舅なりければ、我が身は上らざりけるに、家の子郎差遣」或いは「小舅なれば〜」で、自分の出陣は避けています。

気持ちはわかりますよね。こないだまでの親友の家族を討つのは嫌なものです。


そして、妹婿の義朝くんが、落ちていく最中、例の尾張は野間の内海で、風呂上がりに家臣に謀殺されます。

義朝くんは、折に触れ、熱田神宮へ刀や馬を奉納してくれていました。この時も先ず熱田に寄り、その後、知多半島を南下して野間の内海へ向かいました。

自分たちが会った直後にこんな悲劇が……

この報を聞いた千秋家の皆様も、大変苦しい気持ちになったことでしょう。


熱田の皆様の思惑と関係なく、長田氏は裏切りました。


後にこの長田氏は、頼朝に「お味方するなら『美濃、尾張』をやろう」と言われ、お味方して功績を立てた挙句に「身の終わり」というブラックジョークをかまされ、かなり酷い殺され方をしています。この殺され方はとんでもないですよ。ここを調べてから、信長公の残虐性を語って欲しいですね。


これが信長公の次男信雄が、秀吉によって野間の内海に幽閉され

「古来よりあるじ内海(討つ身)の野間ならば、報いを待てや羽柴筑前」

詠んだとか詠まなかったとか噂のある、辞世の句のベースです。


さて範忠は駿河で頼朝の弟の希義を捕縛し、朝廷に差し出し、とりあえずは平氏、後白河方、いわゆる京方と同調をしています。


ところが、もうね、運勢は下り坂です。

応保元年(1161)のことです。9月3日に後白河院と建春門院平滋子との間に、後の高倉帝が生まれますが、生まれた途端の9月15日には、東宮にしようとしたという陰謀が露見、近臣であった範忠は解官、翌年6月には周防へ流罪になりました。

巻き込まれた感、半端ないですね。


反対に弟の祐範は、頼朝を保護すると千秋尼と一緒に助命運動をし、流罪の折には家人をつけて伊豆へ送り、月に一度使者を差し使わせ、支援を続けます。

このご縁と範忠の孫息子の縁で、千秋家はなんだかんだと鎌倉時代を乗り越えます。


この動きで特筆すべきは、大宮司職を季範は、正室の長男である範忠ではなく、庶子の五男範昌に譲っていることです。理由はまた「霊夢を見た」です。

この範忠と範昌の間で少なくとも二回大宮司職の委譲があり、季範と嫡男だった範忠の間に相当な葛藤があったようです。

ここを書くと長くなるので、また機会があれば、そちらに譲りたいと思います。


 次は、延元元年(1336)足利尊氏くんが室町幕府を興します。鎌倉から本拠地が京に戻りました。(征夷大将軍に任じられたのは1338年)

先述の通り、千秋家は、尊氏くんの縁戚関係者です。

室町幕府の権力基盤というのは、史上最弱なので、権威のある熱田大宮司家というのは、大事な家でした。奉公衆に名を連ね、更に権威付けのために、儀式礼法成立に力を入れた幕府に於いて、様々な儀礼に重用され、将軍家祈祷奉行として、特異な立場を確立しました。


この頃には、千秋家は分家して、全国展開をし、おおよそ三流、千秋、星野、野田に分かれています。そこから何とか氏とか、一杯分かれて繁栄しています。

問題なのが、千秋家の系図がこの時期から、この三家で「自らの大宮司職の正当性を誇示する」形になり、私程度の知識では読み解けない部分が相当あります。

操作してますがな?みたいな?


例えば、暦にして北朝の貞和2年(1346)12月に、大宮司職を巡り、四人の藤原氏が競いました。

時代は、南北朝、相争っている頃です。

この時に、大宮司に採用されたのは、北朝側で、最も嫡流に近いとされた野田氏の範重でした。

しかし、母親が野田流ではありますが、全く相続権のない、傍流中の傍流、越前に本領を持つ、宇治江氏の高範も出馬してます。


この高範は、足利尊氏に近侍しており、京での勢力を増大させ、宗家と結合して、後に高範流千秋家が、大宮司主流になっていきます。

ここの流れの京での部分は、江戸期に編まれた系図を元にした話であって、高範流千秋家の正当性を申し立てる為に、改竄したものかもしれません。


さて、この争うってのが、なんでそんなことが起こるのか、といえば、熱田神宮の権力、収入というのは、相当なものだったのです。その為に、それぞれが権力者と繋がり、その人の推薦で、大宮司になろうとするようになります。

権力者側も、その推薦をする礼金、そしてどうも、推薦した人が大宮司職にいる間、熱田の税収が、その権力者の懐に流れ込むので、是非とも後ろ盾になりたいと思ったようです。

絡む思惑、たぎる野望というのは、どこの権力者の家の跡目争いも同じです。


こうして、内部闘争が激化していた時代に、宗家は、尾張は熱田、羽豆崎城へ引き揚げてきました。


前述しましたように、藤本元啓氏が、季範就任より応永年間(1394〜1428)に至るまでは京に居たとおっしゃられています。

更に歴史をよく見ていきますと、室町時代末期の女傑、ご存知、日野富子氏ですが、この日野富子氏に千秋家は気に入られ、高い頻度で祈祷をしたり、献金を受けるだけではなく、寺社詣や猿楽見物などに随行した記録が残っています。

そして、幕府に取り入っている千秋家の血筋の方々が、その富子氏の推挙で大宮司職について、税金を納めていたりします。

これを考えると、冨子氏が権力を握る初期は京に滞在しており、影響力が衰退して亡くなる前後に、室町幕府に見切りを付けて、尾張に移住したのではないかと思います。


富子氏が亡くなったのは、明応五年(1496年)です。

これは熱田のある下尾張に於いて、コロコロ守護代が変わっていた頃です(拙作「下尾張三奉行と統一事情」をご参照ください)そして、守護代の下の三奉行、特に勝幡織田氏が台頭してきています。


少なくとも、千秋季光は、織田弾正忠信秀の家臣として、出陣をした記録があります。

つまり千秋家は、織田氏に大宮司職の後ろ盾となってもらい、下尾張の実質的な支配者になりつつあった彼に「以後、大宮司職は千秋季光の系統から任命される」と宣言してもらう代わりに、家臣になりました。

ここに大宮司職の跡目争いが、沈静化する方向へと向かい、織田弾正忠家に税収が入る形が出来ました。


千秋季光の嫡男が、桶狭間で散る千秋季忠です。


このように千秋家というのは、血筋としては、源氏との関わりに於いては、鎌倉殿の母系の家であり、父系の縁戚である武田家とは親しく、足利家とも血流にあるいう意味で、他の守護職とも遜色のない武門としてもエリートな家でした。

その血筋を生かして、当時の権力者と結びついて、熱田神宮を繁栄させていったと言えます。


桶狭間の段で「内外に有名な千秋家」と書きましたが、熱田神宮の大宮司家ということもありますが、こうした武家エリートな血筋という意味で、当時の武家にとっては有名な家だったのです。


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