『桶狭間合戦討死者書上』六角氏と織田氏

 今回は『桶狭間合戦討死者書上』から、六角氏と信秀について、見ていきます。


 当時の六角氏当主である六角定頼は、将軍による二度の「六角征伐」を乗り越え、細川政元暗殺から始まる「両細川の乱」を終息させた守護大名です。


「明応の政変」で、自らを攻めた将軍義材が細川政元により追放されると、新将軍義澄と政元に近づき、細川政元が暗殺されると、細川高国と協力体制を取りました、

さらに一時期、天下人のような権力を握った高国が失脚し、義澄が前将軍義材に追い落とされた後も、義澄の嫡男義晴の将軍擁立に貢献しました。


天文15年(1546)、その功績を認められ、義澄の嫡男義輝が元服する折には、官僚代に任じられ烏帽子親にまでなりましたが、細川氏らのように、領国を守護代に任せて在京することはありませんでした。


それは、六角領の経営問題であるとされています。


 大永3年(1523)、京極氏家臣浅井家の下剋上が始まります。

浅井亮政は、主家京極氏の家督争いにて高広を推し、対立する高清、高吉たちを尾張へ追い落としました。

ところがその後内部で権力争いが起き、コントロールが難しいと悟ると、高清を呼び戻し、それを傀儡かいらいとし、実権を握りました。


京極氏は、「守護不入」という、近江守護である六角氏には従わなくて良い権利を幕府から認められていました。

ですから浅井氏の台頭は、近江支配を目指す六角氏にとり良いチャンスで、すかさずこの騒乱に介入しました。


当然のことながら浅井亮政は六角氏と対立し、阿波から上洛の兵を起こし、堺公方となった足利義維につき、更にお隣の土岐氏家督相続争い「美濃騒乱」では、次男の頼芸側につき、六角氏と争いました。


 この頃、足利義晴の支援の関係から、六角定頼は越前朝倉家の宗滴と入魂じっこんの仲でした。


朝倉貞景は正当な土岐氏の後継、土岐頼武に娘を入れ、嫡男頼純の祖父という関係にあり、「美濃騒乱」では頼芸と対立し、六角氏が浅井家を攻めるのに、手合の兵を出すなど、支援をしたり、和平を仲介していました。


天文4年(1535)頃、頼純と頼芸の間に大戦が起こります。

越前に追い落とされていた土岐頼純は、朝倉孝景、六角定頼の支援を受けて、美濃に侵攻しましたが、頼芸を支える斎藤道三の力もあり敗退し、幕府の仲介で和議が結ばれました。


頼芸は六角定頼の娘を正室に頂き、頼芸の妹が六角氏のどなたかに嫁いだと言います。

争った仲ですから、重縁ということなのでしょう。


更に頼芸は六角氏と和睦したことから、彼を後ろ盾とする義晴より修理大夫に任官され、更には翌天文5年(1536)、正式な美濃守に遷任されました。


また天文8年(1539)、頼武の嫡男、頼純との間にも和議が成立し、頼純は大桑城主として、越前から美濃へと帰還しました。


これで美濃も、落ち着くかと思われました。


 しかし天文10年(1541)、斎藤道三が頼芸の弟の頼満を、毒殺したと言われています。

これにより頼芸と道三は、険悪になっていきます。そして天文12年になると、頼純は斉藤軍に大桑城を襲われ、鷺山城から越前へと逃走し、続いて頼芸も尾張へと追放されました。


天文13年(1544)、頼芸、頼純は織田信秀と朝倉孝景の支援を受けて美濃に侵攻し、加納口合戦が起こります。


道三の宿老長井九兵衛が、水野十郎左衛門信近(緒川城主水野信元の弟で、於大の方の兄)に宛てた書状に、土岐頼純、朝倉孝景、織田信秀合わせて2万5、6千の軍勢だったと書かれています。


加納口合戦の終結は、天文15年(1546)、或いは天文16年、まず頼芸の守護職退任を条件とした、斉藤道三と朝倉孝景の和睦の成立になります。

このことで、土岐頼純が守護職に就き、道三の娘を正室に迎えました。


天文16年11月17日(1547年12月28日)頼純が急死します。

 

更に天文17年(1548)に、斎藤道三と織田信秀とが和睦し、鷺山殿を輿入れさせることを約し、頼芸は妹の嫁ぎ先である六角氏の元へと追い出され、後に甲斐武田氏に保護されました。


この鷺山殿は、頼純の正室だったとも言われます。


 加納口合戦に於いての注目点は、六角氏がいないことです。


まず頼純と頼芸が追放された先は、史料により、一、頼純も頼芸も尾張へ追放された。二、頼純が尾張、頼芸は不明。三、頼純は朝倉家、頼芸は尾張に追放と3パターンあります。


順当に考えれば、頼純は朝倉家、頼芸は六角氏なのですが、六角氏と朝倉家であれば、仲が良い家なので、共闘してかかってくると道三は考え、あえて尾張へと追放したのではないかと思われます。


土岐頼芸の祖父成頼は、尾張知多分郡守護一色義遠の息子であり、尾張一色氏は応仁の乱の後、東軍に領地を没収されてしまった為、本拠地の丹後守護をしている兄義直のもとへと移動しています。

その一色義直の娘は、斯波義寛の正室であり、当時の尾張守護斯波義統の祖母にあたります。

ですから、尾張へ追放するというのは、道義的には間違ってはないわけです。


更にこの時、朝倉家と信秀は共闘していますが、これまでの経緯で朝倉家と斯波氏(信秀)が、朝倉家と同盟を結んでいるとは考えにくく、道三としても、まさかこの二家が手を結ぶとは思わなかったのではないかと思うのです。


斯波氏は、元家臣の朝倉家が寝返りにより越前守護の座を手に入れ、その上一度裏切った義廉の実家を利用して斯波武衛家の介入を封印したことに恨みに思い、最後まで越前奪還を悲願にしていました。

実際に天文10年頃には、朝倉家当主孝景に対して謀反を起こした、弟景高を支援し、越前奪還の策を練って実行に移そうとしていたとも言われています。

斯波氏としては、その朝倉宗家と結ぶというのはあり得ませんし、その朝倉家と入魂の関係にある、当時影響力が大きかった六角氏と親しくしたいと思うか微妙です。


つまり、頼純、頼芸の落ちたパターンは3番目で、この時の共闘関係は、信秀の発案で、頼芸、頼純のラインで手を結び、その為、道三は先に六角氏の後ろ盾のある朝倉家と和睦をし、織田、頼芸を孤立させる策をとったと考えられます。


斯波氏と織田信秀は、今川家との抗争を抱えています。

斯波氏(信秀)としては、頼芸を旗印に美濃に影響力を持つことは、越前奪還を考えると、戦略的にアリだったでしょう。

しかし遠江回復は、越前奪還よりも現実味のある望みで、そのためには三河戦が主力であるでしょうし、そうなると斉藤家と朝倉家が手打をした時点で、土岐氏と斉藤家のゴタゴタに巻き込まれるのは得策ではなくなります。


そこで人脈が広い平手政秀が、道三娘との縁組を模索した、という事情が見えてきます。


ということで、加納口合戦の時点では六角氏は信秀と同盟を結んでいないということになります。


ではいつ頃、六角氏と信秀は、結んだのでしょうか。


まず確認事項ですが、基本的に大名同士が結んだ場合、その配下の家はそれに従い、独自で別の大名と結ぶことはありません。

ところが戦国時代になると、家格の上下動が激しくなり、家によっては、一定の家格を持つ武将が、主家とは別の家と同盟を結び、独自で動いている姿が散見されます。


尾張でも大和守家が怨敵今川家と結んでいたり、犬山織田氏が伊勢守家、或いは勝幡織田氏から離れ、独自の動きを見せています。


 勝幡織田氏、信秀も前回見た献金を自らの名前でし、朝廷からの使者を自らの屋敷に迎えていることからしても、斯波氏を担いでいるとはいえ、独自性を色濃くしていていました。

ですから、勝手に……というのも考えられます。


しかし、もしかするとですが。


三河方面戦で一番困るのは、斉藤家に背後を突かれることです。

また越前奪還の為にも、朝倉家と斉藤家が結ぶのは大変困ることです。


そうなると、斉藤家を押さえるには、六角氏と結ぶことは、斯波氏としてはプラスであることではあります。


しかし朝倉家と入魂な関係の六角氏と結ぶことは、当時の朝倉氏の事情により、天道思想に基づいて、朝倉家が斯波氏との和平の仲介を申し込むことは可能性として高いでしょう。

(この朝倉氏の事情については、長くなるので次回見ていきます。)


そうなると斯波氏としては忸怩たるものがあるでしょうし、朝倉攻めの時には、天道的に斯波氏には具合が悪いことになります。


となると従五位下の官位を持ち、武家貴族としての面目を持っている織田弾正忠家の信秀に、義晴の仲介で六角氏と結ばせて、都合のよい使い方をするという考えも出てきます。


ということで、従五位を叙位された後ならば、義晴の古参の家臣六角氏との縁組を、となってもおかしくない立場です。


そうなると加納口合戦後の天文16年の後半あたりならば、叙位もクリアし、信長公ではなく、信勝にスライドした理由も立ちます。


ただ家格差を考えると、将軍に大きな力を持っていた六角氏では、さすがの信秀でも次男と……というのは、少し荷が重いかもしれませんね。


となると、六角氏ではなく家臣のあたりとの縁組というのもわかります。


また「和田備前」ですが、和田惟政は備前守ではないところが気になります。

しかし和田備中守、和田備後守はおられるのですが、「備前守」だけはいないというのも、なんだかなぁです。

信勝、信澄と二代に渡り、怨念が残るとされる亡くなり方をし、また和田惟政にしても、亡くなり方は悲惨で、家も呪いにかかったかのような衰退をしているので、太田牛一が言葉を濁したのは、そのあたりなのかもしれませんし、全く的外れな話かもしれませんが、ここは惟政であろうということで話を進めます。


 しかし実は、以前追いかけた「飯尾近江守」で残った疑問もここで解決しなくもありません。


疑問とは、①飯尾近江守定宗の正室が、細川晴元の実の娘であること。

②飯尾定宗とその息子の尚清が、近江多賀大社の杜司として名前が残っていること。

です。


 義輝の元服を取り仕切った「御元服奉行」は、飯尾大和守堯連になります。

つまり彼は、都落ちを繰り返す義晴たちに付き従っていた幕臣の1人と言えます。


幕臣飯尾氏では、飯尾氏嫡流の大和守家の当主が出奔した為、大和守家の支流である飯尾近江守家から、飯尾堯連が養子に入り、近江守家は断絶しました。


織田弾正忠家の家臣である飯尾氏は、元々大和守家の連枝の家です。

斯波氏の家督相続争いに乗じて、大和守敏定が斯波氏に直接出仕した折に、証人となった三男敏宗が祖である(最初は証人は次男だったが、長男が船田合戦で討死した為、スライドした)とされています。

しかし大和守が謀反を起こすと、斯波氏に出仕していた敏信は、手打ちにされる代わりに、弾正忠家にお預けになり、家としては息子たちを他の家に養子にだすことで断絶させられました。

敏信の息子の1人である飯尾定宗に、幕臣飯尾近江守家の名跡を継ぐ形で、「飯尾近江守」を名乗らせたとしたら、どうでしょうか。


 飯尾定宗の正室の父親である細川晴元は、両細川の乱で、高国に阿波に追い落とされた細川澄元の嫡男になります。

晴元は元将軍義材が養子にした義澄の息子、義維を推戴して阿波から攻め上り、享禄4年(1531)高国を討ち果たします。

その後義維から、義晴へと主君をかえて和睦すると、六角定頼と共闘関係になり、定頼の養女を正室に迎えます。


しかし晴元に対する、反乱の火の手は収まることはなく、天文12年(1543)には、細川高国の養子の細川氏綱が、打倒晴元を掲げて和泉国で挙兵する事態になりました。

義晴は、自らを支える三好氏などとも争う晴元から、次第に細川氏綱支持へと傾いて行きました。


しかし天文16年(1547)、晴元は細川氏綱方を打ち破ると、六角定頼の仲介で、閏7月に義晴と再び和睦しました。

そう考えると、飯尾氏と晴元娘との婚姻は、この流れだったかもしれません。


また享禄元年(1528)生まれの飯尾尚清の正室は、信秀の十女と言われていますが、彼女の生年は天文21年(1552)前後で、武家の嫡男の尚清の最初の正室に入るには無理があります。

父親共々六角氏の下に入った尚清が、多賀大社の車戸氏か、その周辺の娘を娶ったとすれば、尚清と定宗が多賀大社の社司に名前を連ねていることが理解できます。


そこまで考えると、この婚姻のメインは尚清で、父親の定宗は後見としてついて行ったのではないかと考えさせられますね。


そしてこれらの伴い、この頃六角氏の家臣だった和田氏の娘が、次男の織田信勝に嫁ぐというのもあり得るでしょう。


ところで彼女の呼び名の「高島局」です。


既婚の女性の呼び名は、婚姻後に住んでいる場所のほか、実家や婚姻前に住んでいた場所、例えば「鷺山殿」(美濃鷺山城から嫁入る)、「浅井局」(浅井亮政の娘)の場合もあります。


もしかすると彼女は、近江高島に住んでおり、和田氏の養女として嫁いだのかもしれません。


ここで足利義輝の元服に関わった人を見てみます。


加冠 六角定頼

理髪 細川晴経

惣奉行 摂津元造

元服奉行 松田晴秀、飯尾堯連

打乱 朽木稙綱

泔坏 大原高保

御祝調進 大隅秀宗、大草公広

御手長 伊勢盛正

御物奉行 蜷川親世、三上秀長


この中で朽木氏が西近江を継承した高島氏の一族になり、この頃六角定頼に従っていました。


また泔坏を任じられている大原高保も、近江佐々木氏です。大原氏は信綱の長男重綱の系統です。大原氏はこの頃断絶の危機に瀕して、六角定頼の弟高保が、大原備中守政重の養子に入りました。この大原氏は、坂田郡大原荘を領していますので、高島ではないですね。

勿論高島七党の本家の高島越中守家もおられ、六角氏の傘下に入っているはずなのですが、この頃幕臣で義晴に近しい朽木氏と険悪になっており、天文19年頃に戦をしています。

それを考えると高島氏というのは、クエスチョンマークがつきます。


ということで、信勝の正室は朽木氏の娘ではないかと、現時点では思われます。

 


 この後の彼らの動きを見てみると、信勝の嫡男の信澄は弘治元年(1555)、あるいは永禄元年(1558)に生まれています。


飯尾定宗は弘治2年(1556)7月、秀俊が亡くなる守山城攻めに、信長公方より息子の尚清(讃岐守)とともに出陣している姿が、『信長公記』に遺されています。


弘治2年(1556年)8月に、信長公と信勝の決戦、稲生合戦が起きています。


信勝の岳父にあたる和田氏、或いは六角氏が信勝の手合に出ていない以上、六角氏弘治元年前後で信勝との縁組を解消したと考えられます。

子供は家につきますから、弘治元年に出産した後の高島局を戻らせ、飯尾定宗らを織田家に返したと推測が立ちます。


そしてその後も、信長公の「織田弾正忠家」との同盟は続いたとすれば、桶狭間合戦で六角氏は手合を出したでしょう。


 実は林秀貞らは、信勝を推戴して家督相続争を起こした時に、六角氏の支援を得られると踏んでいたのではないかと思われます。

六角氏なら信長公の後ろ盾である斎藤道三よりも力を持っていますから、互角にやっていけると取らぬ狸の皮算用をしていたかもしれません。


本来の計画では、斉藤道三の死を待つのではなく、経済面で有利な信長公とは、短期決戦を考えていたのではないかと考えられます。


ところが六角定頼は、信長公と争うことを嫌い、証人の交換を解消し、そのせいか、味方をしてくれるだろうと考えていた武将らは知らぬ顔をした。


あたかも本能寺の変の後の、明智光秀のように。


 そう考えると、利用されるだけされ見殺しにされた信勝と、その家族は本当に気の毒です。

 幼い頃に父と死別し、母と生き別れになっていた信澄は、西近江の高島の城で生母高島局と会えたでしょうか。


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