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『桶狭間合戦討死者書上』と織田信秀

 拙作「市姫の嫁入り」でふれた、『桶狭間合戦討死者書上』から、六角氏と織田氏との関係を見ていきます。


今回は信秀の立場に、注目してみましょう。


『桶狭間合戦討死者書上』とは、永禄3年5月19日(1560年6月12日)に起きた、「桶狭間の戦い」の戦死者の名前を書き、義元の対面(大将の首級改)が行われた長福寺に、成仏を願い奉納したものです。

徳川美術館にて、2017年に公開されました。


書上自体は、江戸時代のものとされており、真偽は不明です。


 戦死者は戦の後に、注文帳にまとめられ、亡くなった方の菩提寺の過去帳に記されます。


家康が桶狭間を契機に今川から独立し、今川の血をひいた妻子を葬った過程を考えると、怨霊の存在が実在とされた当時、開幕や代替わりなどの節目に、それらを元に制作を命じた可能性はあります。


 奉納を受けた長福寺は、天文7年(1538)に開山された寺院で、今川義元と共に、遠江二俣城主松井宗信の木像が安置されています。

彼は桶狭間の折、本陣前備の旗頭を任されており、信長公らが本陣へ斬り込んだ際、手勢200余を率いて義元を護り、討死したとされています。


 この注目点は、織田軍の戦死者990人余りのうち、272人が近江佐々木氏方からの援軍であるというところです。


 近江佐々木氏は、源頼朝の親戚の近江源氏の末裔で、承久の変の折に幕府側に付いていた佐々木信綱が祖になります。


信綱の4人の息子が、近江佐々木領を分割し、三男佐々木泰綱が、六角東洞院にある京都屋敷を譲られ、「六角」と名乗り、また父から家督を相続し近江守護となったことから、六角氏が近江佐々木氏嫡流と言われます。

その他、長男が大原氏、次男が高島氏、四男が佐々木道誉を生む、後の京極氏になります。


もしかすれば桶狭間の「近江佐々木氏」は、京極騒乱で尾張に逃げ落ちてきていた、京極氏の残留組かもしれません。

しかし佐々木軍の戦没者だけでも272人と、一万石程度の人数がおられますので、もし尾張に残っていた京極氏の家臣団であれば、ここ以外でも名前が残っていても良いような気がします。


そう考えると、やはり六角氏が手合を出した、とするのが自然ではないでしょうか。


また更にこれと共に、今川家臣渡邉玄蕃が、佐々木氏の武将を討ち取って奪ったあぶみというものが寄進されています。


 さて、手合(援軍)を出したということは、この時期、六角氏は織田家と同盟を結んでいたということになります。


これはあるか、ないかと言えば、拙作「信長公の妹、市姫の嫁入り②」で見ましたように、ありうることではあります。

https://kakuyomu.jp/works/1177354054890230802/episodes/16817330652435206731


しかもこの同盟が天文末期(1552〜1555)には結ばれていた場合、なかなか面白い事態になります。


上記の「市姫の嫁入り②」で見ましたように、信長公の弟、信勝の正室が「和田氏」の養女「高島氏」娘(高島七党のいずれか)であれば「高島局」と呼ばれたこと、またのちにその嫡男の信澄が近江大溝城に入ったのも分かります。

そして足利義昭の交渉の使者として、幕臣和田惟政が選ばれたというのも、当時の風習から見て頷けます。


ではこの同盟は、天文年間に結ばれた可能性があるかというと、あり得ると言えますし、また私達が思うよりも、勝幡織田氏が大和守家の家臣とされる期間は短く、家格は高かったのではないかという話になります。


いつも以上のエンタメとして、お読みください。


 実は今回、これを書こうと思ったのは、一通の書状の存在を知ったからなのです。

それは幕府宛の「天文14年5月2日付織田信秀書状」です。


内容は

「去年十月之貴札致

拝見候、仍 上意様

為御使、進士修理進殿

就東国御下向之儀

示預候、此国路次等之

儀申付候、是式事雖

何時候、蒙仰不可存

疎意候、猶自是可申

入候、可得御意候

恐惶謹言


   五月二日 信秀(花押)


 大舘左衛門佐殿

       参 御報」


「此国路次等之儀申付候」

(この国の路次などの義、申し付け候)


将軍足利義晴の奉公衆進士修理進が、使者として東国に下向し、尾張を通過される時にはお世話をし、身の安全を保証しますという、いわゆる「路次馳走」を約束する内容になっています。


また取次を、大舘左衛門がしていたことが分かります。

大舘左衛門晴光は、将軍家の支流にあたる幕臣であり、姉妹が義晴の側室に入っている重臣で、代々申次衆を世襲している名家の当主です。


 「路次馳走」については以前書きましたが、領国内を通過する使者の安全な交通路の確保、宿所の確保、場合によっては案内をつけることを約束するものです。


ただ通過することの承認ではなく、相手に「路次馳走」を求めるということは、主従関係、同盟関係にあることが必要になりますし、馳走する側がそれを保証できるだけの権威と権利を有していることが必要になります。


信秀はこの当時、公式的には備後と三河の守護(備後守、三河守を叙位されている)の官位を持っていますが、勿論実質の支配はなく、流石にそちらでの路次馳走を申しつけられることはないでしょう。


と言っても、信秀の住む尾張は斯波氏の所領です。

幾ら将軍といえども、不安定な立場にある義晴が、信秀を国守扱いして、余計な紛争を招く行為はしないでしょう。


ということは、書状に「去年の10月に頂いた」とありますから、天文13年(1544)には、すでに信秀は、少なくとも尾張守護職である斯波氏直臣、しかも重臣の立ち位置にあったことになり、斯波氏は足利義晴に陣営にいたことがわかります。


ここで少し斯波氏の事情について見ていきます。


 斯波氏は応仁の乱の前に武衛嫡流が絶え、支流二家の間で家督相続争いが起き、家を東西に割り、乱を戦いました。結果、勝軍の東軍に属していた斯波義敏が武衛家を継ぐことになりました。

しかし応仁の乱の折、西軍斯波義廉に付いていた越前守護代朝倉孝景が、東軍に寝返ることで「越前守護職」を手にします。


すると同じ東軍に属していた斯波義敏は激怒して、乱が収束すると足利義政、義尚に訴え出ました。しかし朝倉孝景は、旧主斯波義廉(西軍)の嫡男を推戴し、鞍谷公方の領国とすることで、斯波武衛家の越前守護復帰を封じました。


 また近江守護六角高頼は西軍に属していたにも関わらず、その勢力を衰退させるどころか、乱後も拡大させ、ついに寺社領を侵すようになり(この頃の大名の殆どはそうしていた)、彼らは幕府に訴え出、将軍による六角高頼征伐「長享、延徳の乱」が起きます。


この2回の戦に於いて、斯波義敏の嫡男、義寛は副将軍(総大将)を任じられ、細川政元と関係が危うくなっていた足利義材(義稙)の引きを受け、その威風は辺りを払い、細川政元を凌ぐほどの権力を回復していきます。

六角征伐の折、参陣しようとした朝倉孝景は、斯波氏の険悪を受けて、出陣を見合わせねばならなかったほどです。


言葉を濁してきた将軍家も、遂に「朝倉退治」の御教書を下しました。


ところが明応2年(1493)細川政元が将軍の擁廃立事件「明応の政変」を起こし、足利義材から足利義澄へと将軍が代わりました。


斯波義寛は、義材との親密さが災いし、幕府内で孤立することになりました。


義寛は六角氏征伐での盟友であり、政元の姉を娶った赤松政則の仲介で、足利義澄に出仕し、義材廃立後の幕府の最高権力者となった細川政元の前に膝を屈することになりました。


その後、永正4年6月23日(1507年8月1日)細川政元は暗殺され、細川高国と澄元による両細川の乱が始まり、政権は乱流に呑み込まれます。


政元により廃将軍となっていた足利義材は、政元の死の翌年、大内軍を率いて京を占領し、義澄を追い落とすと、将軍職に復帰します。


そして永正8年(1511)、六角氏所領水茎岡山城(九里氏)に身を寄せていた義澄を攻め(その9日前に病死していた)、負けた義澄の息子たちは、義澄派の家臣の家へと預けられました。


これにより義材の政権は、安定するかのように見えました。


しかし大内義興が周防国に帰国すると、細川高国と対立しはじめ、大永元年(1521)、義材は細川澄元の実家である阿波守護細川家へ落ちて行きました。


そこには義澄の息子の1人、義維が養われており、彼を養子にしたことから、義維と義晴は政権争いに巻き込まれて、将軍位を争うことになります。


 斯波義寛の跡を継いだ義達は、守護代に宿老筆頭の甲斐氏が任じられている遠江を今川氏に度々侵攻されていました。そして自ら大軍を率いて出陣し、生け取りにされて無理矢理出家させられ、三歳の我が子義統に守護職を譲る羽目に陥りました。


そんな斯波氏は、復帰した義材に従わず、基本的に、義澄、義晴派に属していたようです。



ということで、天文13年前後の、尾張の布陣は

尾張守護 斯波義統

上尾張守護代 織田信安 

  犬山織田氏 織田信時(信貞は天文9年、信康は13年8月死亡)

下尾張守護代 織田信友

になります。


尾張守の斯波義統は、上記のように父親が今川戦で大敗を期して失脚し、僅か3歳で守護職につきました。

確かに斯波氏の威信は落ちましたが、この頃33歳になった義統は、前守護職の父と共に政務にあたり、大名同士の諍いの仲介などしている姿も残っています。

普通に考えれば将軍家としては、足利別家である斯波義統に申し付け、その近習たちが大舘左衛門佐に返答するところでしょう。


また現在言われているように、勝幡織田氏が、下尾張守護代の家臣ならば、少なくとも信秀ではなく、信友が返答すべきではないでしょうか。


 当時の尾張の上下守護代織田氏は、共に嫡流が絶えています。

上尾張は、斯波氏の直臣織田信安に、勝幡織田氏娘岩倉殿を娶せ、更に血流が途絶える伊勢守の弟が立てた木之下織田氏に、織田信貞を入れて、信安の後見としました。


下尾張守護代の信友は、因幡守家の息子とも、大和守家敏定の甥とも言い、はっきりとせず、更に小守護代坂井大膳が取り仕切っていたと言います。


どちらも嫡流ではないため、家臣の力が強まっていた時期になります。


また斯波氏自体、応仁の乱前の家督相続争いの折に担ぎ上げてくれた大和守家との関係が、謀反を起こされるなどして悪化しています。

そして上記のように上尾張守護代に勝幡織田氏を入れるなどし、勝幡織田氏の権力を増させているように見えます。


 またこの頃の信秀の立場について、もう一つ視点として、加納口合戦があります。


この時斯波氏は、信秀を総大将に任じ、上下織田氏に従うように命を下し、彼らはおとなしく兵を出しています。


加納口戦は天文13年(1544)説と天文16年(1547)説、また2回戦があったという説の三つがあります。


よくこれは特例であるという捉え方をされていますが、書状と合わせ考えると、天文13年頃には、信秀は斯波氏の直臣として、上下織田氏を凌ぐ権威を持っていたと考えられます。


また10年後、大和守家が斯波氏を襲い、斯波義銀らが、那古野城へと逃げ落ちたのは、勝幡織田氏は以前から、自らの家臣だったからなのではないでしょうか。(岩倉⇄清州⇄那古野はほとんど距離に変わりがない)

さすがに襲撃してきた大和守家の家臣の家には、逃げ込まないと思いますし、この当時、うつけとされる信長公を、斯波氏は支持していたことも分かります。


 では勝幡織田氏と、主家であるとされる大和守家の関係は、どうだったでしょうか。


勝幡織田氏は、天文元年(1532)に一旦手切を入れて正室大和守家の娘を返しています。大和守家は藤左衛門家と結び、勝幡織田氏と戦をし、敗北して和睦しました。


天文7年(1538)那古野城再建の折の文書から、この年はまだ形式的にでしょうが、仮初にも主従関係にあることがわかります。


しかし那古野城に本拠地を移し、津島に次いで、熱田の富をも手に入れた信秀は、天文13年までの間に、権力を増大させると、斯波氏と対立する大和守家から離れたと考えられます。


では信秀がどれほどの富を手に入れたか、任官と献金の記録を見ていきます。


天文9年(1540)31歳

伊勢神宮遷宮のため、700貫文と材木を献上。

9月 三河守に任官。


天文12年(1543)34歳

朝廷に対し「内裏築地修理料」4000貫文を献金。


天文14年(1545)36歳

或いは天文15年(1546)37歳

この頃古渡城を築城し、那古野城を信長公に譲ったのではないかとされています。

古渡城の築城についての、大和守家の文書はないようです。


天文16年(1547)38歳

禅居庵摩利支天堂(建仁寺の塔頭寺院)を再建。

従五位下を叙位、備後守任官


4000貫文は、おおよそ3億から4億くらいの額になります。

またこれ以外でも、那古野城主となって以降の信秀は、美濃白山など数多くの寺社に、多額の献金をしたり、再建などの勧進元になったりしています。


官位としては勿論斯波氏(正五位)より低いものの、津島、熱田を押さえた信秀の経済力は全国でも有数であり、その影響力は上下織田氏、そして斯波氏を凌駕していたと思われます。


つまり斯波氏は、自らの復権の為に、武力と経済力に優れた勝幡織田氏を取り立てていたと考えられ、その発端はそもそも信秀の父、信貞が津島を押さえたところから始まる……と推測できます。

 

 当作では斯波氏を盟主にして、実質の支配者が織田信秀(元伊勢守家連枝で重臣。応仁の乱後、伊勢守家と斯波氏との和睦の折、恒例として、斯波氏に出仕。大和守謀反の後、与力として大和守重臣となる)。

そして木之下織田氏(伊勢守連枝、後に勝幡織田氏系犬山織田氏)、櫻井松平家、緒川水野家などが同盟を結び、新たな勢力として台頭していたのではないかと推論を立てています。




 次回は、こうした権力を持った織田氏と、六角氏の様子を見ていきます。

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