信長公の妹、市姫の嫁入り②出来事の流れ

 さて今回は、浅井長政と市姫の婚姻に至る関係者の動きを、ザックリになりますが、おさらいしてみましょう。


 弘治2年(1556)4月、「長良川の戦い」で斎藤道三が討ち死し、斉藤義龍と信長公は敵対します。


◇◇永禄元年(1558)◇◇


信長公は岩倉城を落城させました。(定説では永禄2年ですが、尾張法蓮寺の過去帳により、元年である説が正しいかと思われます。詳細は拙作「前野但馬守」をご覧ください。)

https://kakuyomu.jp/works/1177354054890230802/episodes/16817139558682941774


6月9日、京の都では「北白川の戦い」が起きます。

父の代から細川氏と争い、また三好氏とも色々あった将軍足利義輝は、畿内の覇者であり、天下人とも言われる三好長慶と戦いますが、形勢は良くありませんでした。

しかしこの頃はまだ「足利将軍」の権威の名残があり、三好氏が天下人として振る舞うことに反発がありました。

そこを見た義輝方の六角義賢が、和睦を仲介し、それにより義輝は久しぶりに入洛することができました。

これ以降、義輝は三好長慶を重用し、共闘関係になります。


また六角氏は弘治3年(1557年)に、義賢(出家して承禎)から義治に家督を譲られていますが、実権は永禄11年(1568)の永禄崩れまで、義賢が握っていたと言います。


◇◇永禄2年(1559)◇◇


浅井長政がこの年の正月15歳になり、六角義賢から偏諱を頂き、浅井賢政として元服、そして六角氏家臣平井定武の娘を正室に迎えました。

しかし長政は六角氏に対し、異心を抱いており、それを義賢は察知していたと言います。


そしてこちらも、昨今六角氏に不満を抱いていた六角氏家臣肥田城主高野瀬秀隆が、長政と気脈を通じたことを知った義賢は、4月3日肥田城を囲み水攻めを行います。しかし堤が増水に耐えられず決壊して失敗します。


前後しますが、2月信長公は上洛して、尾張守叙位への御礼をしています。その折に、義龍が暗殺を試みているのが『信長公記』に遺されています。


また治部大輔に任官された義龍も、4月には上洛し、足利義輝に謁見し、偏諱を賜ります。(斉藤義龍の元の名前は高政)



◇◇永禄3年(1560)◇◇


5月19日、信長公は桶狭間に今川義元を下します。


『桶狭間合戦討死者書上』という文書があり、織田軍の戦死者990人余りのうち、272人が六角氏(近江佐々木氏方)からの援軍だったとされています。

これは桶狭間の折に、今川義元との対面(首級改め)をした長福寺に伝わるもので、江戸時代のものであるとされています。

これと共に、今川家臣渡邉玄蕃が、六角氏の武将を討ち取って奪ったあぶみが寄進されています。


六角氏が手合(援軍)を出したということは、織田家と同盟を結んでいたことになります。

この時期に、六角氏と織田氏が同盟を結んでいた可能性があるか、ないかというと、六角氏と織田氏だけの関係を見ると、ありうることではあります。


 永禄元年、信長公は上下尾張を手に入れます。(犬山織田氏信清がまだ敵対していた)

そしてその少し前に、禁裏より使者を迎え、尾張守の叙位の知らせを受けました。

使者を迎えた信長公は「まだ尾張半国しか治めてないのに……」と感激して、尾張統一の思いを強くしたと伝わります。(『信長公記』)


つまり桶狭間前に既に、禁裏や幕府関係者の中に、信長公のことを、仲介してくれる有力者がいたことになります。


また信長公、尾張守叙位の話とその後の尾張統一は、他の国の領主たちに情報としてすぐ回ったことでしょう。


そうした時に、天文22年(1553)に京極高延を追い落とし、元主家京極氏を下剋上した浅井氏を傘下におさめていた六角氏が、不穏な様子を見せる浅井長政に対抗するためにも、また三好長慶への対抗としても、勢力拡大を目して同盟相手として尾張織田家に興味を示すことは、あることではないでしょうか。


また、もしこの同盟が永禄からではなく、遡り天文年間に既に結ばれていたならば、当時六角氏家臣であった和田惟政の養女と信勝の婚姻が成り立ち、その養女が、同じく六角氏家臣高島氏娘ならば、「高島局」と彼女が呼ばれた理由も分かりますし、後に和田惟政が織田家への交渉の使者となったのも理解できます。



 ところがこの永禄3年、その六角氏は織田家と相争っている斉藤義龍と同盟を結んだと言われています。


時期は桶狭間直後の、6月説と8月説があります。


元々は斉藤家と六角家は、対立していました。それが手を結ぶとなると、何かが契機になることになります。


斉藤家からすれば、敵である信長公の桶狭間の勝利後の危機感があるでしょうが、もし六角氏が勢力拡大中の織田家と同盟を結んでいたとなると、6月にしろ、8月にしろ、同盟を破棄して斉藤家と結ぶというのはあり得ない気がします。


もしかして、両方と結んだのでしょうか。


そうなると六角氏は、織田、斉藤家の争いに関して、手合は出さないということを条件にしなければならないでしょう。


すると織田方からすると、桶狭間後、斉藤家との争いが主眼になるわけで、六角氏との同盟は旨みが半減します。

それなら斉藤家のお隣の浅井長政と結んだ方が良いでしょう。


 六角氏は永禄3年、前年の肥田城の失敗を受けて、再び肥田城を取り囲み、それに対して浅井長政が救援に向かったことで、六角氏と僅か16歳の浅井長政の間に戦が勃発します。

これが8月中旬頃と言われている「野良田合戦」で、約半分ほどの兵力の長政に、敗れてしまいます。


これには六角氏の家中に、動揺が走りました。


更に浅井長政は、父親を竹生島に押し込め、偏諱と正室を六角氏に返して手切を入れました。


六角氏からすると、浅井家と織田家が同盟を結ぶのは、困るのではないでしょうか。


しかし六角氏からすると斉藤家と結ぶことは、浅井長政を牽制することが可能になり、実際これ以降、手合を求められるという口実を得た義龍は、頻繁に浅井領に侵攻しています。



斉藤氏のことを視野に入れると、六角氏と織田氏の同盟は、ちょっとない話になります。


ところが『六角承禎条書写』という書状が残っており、これは六角義賢(承禎)が、善治(当時は義弼)の重臣に対して送った書状(形としては義賢は隠居で、善治が六角氏当主なので、書札礼により重臣に送る形式になる)になるのですが、この内容が斎藤家との同盟を結ぶことに対し、激怒し、破棄を迫るものになります。


この元々の書状は、永禄3年7月20日付けになります。


つまり野良田合戦の敗戦を受けて、六角氏の家が義賢派、義治派の二つに割れて、意見の統一ができない状況であったということになり、義賢と入魂の関係にある織田氏を切って、斉藤氏を選んだということになります。

もしかすると、ここには桶狭間での褒賞に不満があったのかもしれません。


また元々六角氏と越前朝倉氏、信秀時代の織田氏と朝倉家は親しくしていました。

ところが、六角氏は朝倉氏とも切れたのではないかと考えられます。


というのも、六角氏と斉藤氏が結んだことに対抗する為に、浅井長政は越前朝倉氏に誼を通じたとされているからです。


しかし、では長政がこの時期に、朝倉、織田の両家と結んだか、というと、それは前回の通り、永禄10年といわれる書状により、どうかなぁ?ということになり、ここでは朝倉氏のみと結んだだろうと思われます。


未来を知る私たちからすると、この辺りは何とも言えない因果ですね。


六角氏と織田氏の同盟に関しては、別に見直して行きたいと思います。


 そして信長公は永禄3年6月2日には西美濃安八郡へ侵攻し、8月23日に再び美濃侵攻をしました。


12月になると義龍は、近江の伊吹へ侵入します。


◇◇永禄4年(1561)◇◇


2月頃、斉藤義龍は左京太夫に任じられます。

この時に仲介したのが、幕府政所頭人、伊勢貞孝だそうです。

斉藤家の幕府ルートは、伊勢氏なのですね。


3月、六角氏は浅井方の佐和山城を落としました。

更に4月になると義龍は近江へ侵攻し、浅井長政と戦います。


そして5月11日に、義龍が急死し、正室と嫡男まで同じ時期に亡くなったと言います。この頃美濃に流行病の記録は無いのですが、天の御意思でピンポイントに奇病が発生したか、細作や家臣団の意思が働いたかしたのでしょう。

跡目は、14歳の龍興が取りました。


その急死の3日後の14日、早耳にも信長公が美濃に侵攻して「森部の戦い」を起こし、そのまま停陣して、同月23日に「軽海十四条の戦い」がありました。

この時信長公がお泊まりしたのが、のちに秀吉が築くので有名な、墨俣城です。


斎藤家と同盟を結んでいた武田信玄は、出陣準備をした(出陣よりも前に織田兵が撤収した為、結局兵は出してない)と伝えたという話が残っています。(織田、武田の同盟は永禄8年(1565))


6月中旬には、再び織田軍は安八郡神戸へ侵攻します。


同じく6月に細川晴元が三好長慶に幽閉され、「将軍地蔵山合戦」が起きます。

義賢は畠山高政と共に挙兵し、三好長慶の嫡男である義興と家老の松永久秀と対戦して勝利し、三好氏を京都より追い落としました。


六角氏が兵を動かすと、長政は好機と見て、7月1日今井定清を大将に太尾城を攻めさせます。ところが何の齟齬があったのか、援軍の磯野員昌と同士討ちをしてしまい、不戦敗となります。


この時期に龍興は、浅井長政と同盟を画策しますが、長政は織田家と同盟を結び、逆に美濃に侵攻するようになったとも言われていますが、前回のように真偽は不明です。



◇◇永禄5年(1562)◇◇


3月5日、「久米田合戦」が起こり、畠山高政が長慶の弟三好実休を敗死に追い込みました。

翌6日に六角義賢が洛中に入り、8日に徳政令を敷き、そのまま京に滞陣を続けました。

それに対して畠山高政は、陣を動かすよう促しますが、義賢は動かず、そのまま5月20日、畠山軍の陣取る教興寺を、体勢を立て直した三好軍が襲い、「教興寺合戦」が起きました。畠山軍は大将紀伊国亀山城主湯川直光を討ち取られ、崩れて大敗を喫し、畠山氏は居城を追われました。


すると六角義賢は、6月2日三好長慶と和睦して兵をひき、10日後には将軍義輝が入洛しました。この時に三好長慶の出陣はなく、この頃には病を得ていたのではないかとされています。

また政所を支配していた伊勢貞孝は坂本に撤退し、義輝は彼を更迭し、伊勢氏の握っていた莫大な権益を掌握し、地盤を固めました。


6月に信長公は、於久口城(犬山織田氏)を攻めました。


この年から小牧山城築城が始まり、次第に美濃や犬山織田氏に圧がかかり始めます。

というのも小牧山城が、当時尾張近辺には無かった石垣を巻いた城だった為、その攻めにくさに恐れを成したと考えられます。

犬山城の支城於久口城に居城を移していた織田信清は、小牧山城の概要が明らかになると、本城に逃げ帰ったと『信長公記』に書かれています。


8月伊勢貞孝が、六角氏、畠山氏と通じて京で挙兵しましたが、三好軍によって制圧され、伊勢貞孝が討たれました。



◇◇永禄6年(1563)◇◇


6月4日、信長公が東美濃に侵攻し、「新加納合戦」が起きます。しかし名軍師竹中半兵衛の策に翻弄された織田軍は敗退します。


7月に小牧山城に信長公が居城を移し、「火車輪城」と名付けたともされます。(『定光寺年代記』)


10月になると、六角家でお家騒動、「観音寺騒動」が勃発します。当主六角義治が、父義賢に信頼され、さらに何よりも家臣団に人望のあった重臣後藤賢豊を観音寺城内で惨殺しました。

これに対し不満を持っていた家臣団の怒りが爆発し、義治のみならず、義賢までもが城から追い落とされます。

蒲生家の居城である日野城に逃げ込んだ義賢たちですが、そこを反旗を翻した六角氏の家臣団と共に、浅井長政が襲います。

約1か月に渡る籠城戦の末、蒲生定秀と賢秀父子の仲介が入り、帰城しますが、六角氏の求心力は落ちました。



◇◇永禄7年(1564)◇◇


2月6日、竹中半兵衛と安藤守就が、稲葉山城を占拠し、龍興は鵜飼山城、さらに祐向山城に逃走しました。

半年後に重治と守就は龍興に稲葉山城を返還し、龍興は帰城しますが、権威は失われ、信長公が小牧山城に拠点を移すことで更に圧がかかったこともあり、市橋氏、丸毛氏、高木氏などが内応するようになっていきます。


4月11日 信長公は上洛し、三千疋献金したとされています。


5月9日、三好長慶は実弟安宅冬康を飯盛山城へ呼び出し、自刃させます。安宅冬康は大変人徳のある武将で、淡路水軍の大将を勤めていました。三好兄弟と長慶の嫡男が相次いで亡くなる中、最後まで長慶を誠実に支え続けた人物で、三好長慶が病の為、冷静な判断が下さなくなっていたのではないかとされています。


7月4日、三好長慶が飯盛山城で亡くなり、跡目を甥の義継が取りました。彼が16歳だったために、松永久秀と三好三人衆(三好長逸(筆頭)、三好宗渭(政勝、政生)、岩成友通(石成が元の姓であるという説がある。長慶の元奉行人)が後見として付きました。



◇◇永禄8年(1565)◇◇


5月19日、「永禄の変」が起きます。三好三人衆を伴い上洛した三好義継は、白昼堂々と兵を率いて二条御所に討ち入り、足利義輝を殺害しました。

また義輝の弟、後の足利義昭は、松永久秀らによって、興福寺に幽閉されます。

7月28日夜、義昭は細川藤孝らの手により奈良を脱出し、和田惟政の居城に入り、各地の大名たちに御内書(将軍の意思を直接通達する書状)を発給しました。


8月28日、織田家に降った美濃加治田城主佐藤忠能が、美濃堂洞城主岸信周を討ち取る「堂洞合戦」が起きます。更に9月、長良川合戦の折、織田家に転仕した斎藤義龍の弟斎藤利治が関城主長井道利を下しました。(関合戦)


11月13日、斉藤龍興は、足利義昭の近習である一色藤長にあて、代始の儀礼(家督相続の折の儀式)に為に、太刀一腰と馬一疋を贈りました。


11月16日、三好三人衆は飯盛山城に押し入り、義継の近習たちを殺害し、河内高屋城へと義継の身柄を移させ、松永久秀と断交し、畿内は内乱に巻き込まれます。


11月21日、義昭は六角義賢の所領矢島に移座し、矢島御所としました。


この頃和田惟政は、義昭の命で上洛の協力を要請する為に尾張に滞在しており、この移座を知らず激怒し、義昭の謝罪の書状が遺されています。


12月になると、信長公は斉藤龍興との講和に応じ、義昭上洛に協力する旨の書状を、細川藤孝に送りました。


義昭は敵対していた斎藤氏と織田氏、六角氏と浅井氏、武田氏と上杉氏と後北条氏らに講和を命じ、彼らの協力で上洛を目指すものであったとされています。

この時、織田家と斉藤家の停戦を信長公に呑ませており、永禄9年8月22日に出兵、美濃、南近江、北伊勢を進軍して上洛する予定だったそうです。

その後、細川藤孝の異母兄の三淵藤英の、信長公が8月28日に城を立つ旨の書状が遺されています。


◇◇永禄9年(1566)◇◇


畿内は、足利義昭を推す畠山高政と合流した松永久秀と、足利義栄と三好義継を頂く三好三人衆の対立で荒れに荒れました。


2月17日、三好三人衆方の安宅氏が、松永久秀の摂津の本拠地滝山城を包囲し、戦いの火蓋が切られました。


松永久秀方の筒井城(前年11月18日に落城し久秀方)に織田軍も入り、篭城している記録が残されています。


同じく2月17日、義昭は還俗し、義秋と名乗り、4月21日、朝廷から次期将軍が就任する従五位下左馬頭の叙位、任官を受けました。


5月、六角氏家臣布施公雄が反旗を翻し、布施山城に籠城し、浅井長政に手合を求めます。


6月11日付の、和田惟政に対し、自分の使者として織田信長公に会うように指示した足利義昭の自筆書状(年不詳)が残されています。


6月24日、三好三人衆は、三好長慶の死と義継を後継として世間に公表し、久秀討伐を宣言しました。


浅井長政は布施氏の求めに応じ、兵を起こし、7月25日小幡に本陣を敷きます。

7月29日より蒲生野合戦が起こり、9月まで浅井、六角氏は戦い、浅井軍の勝利で終わります。


その中、8月3日、矢島御所で三好三人衆の三好長逸に内通する者がおり、三好軍が坂本に布陣、御所側が撃退します。


8月29日、上洛の兵を起こした織田軍は、反旗を翻した斉藤軍の奇襲に遭います。この時の織田軍の敗戦ぶりは、「前代未聞のもの」と斉藤龍興らは大いに嘲笑し、「天下之嘲弄」(天下の笑いもの)と評しました。

(お互い国境まで出陣したものの、木曽川の氾濫により、織田軍に被害の出た河野島合戦が該当する。ただし閏8月と伝わる)


また同日、六角義賢も三好三人衆と義栄方に付くことを明らかにしました。


これらは同時期に起こっている為、上洛を阻止する為に、三好三人衆が調略しかけた結果であり、策略であるとされています。


美濃、南近江が三好方についた為、信長公は兵を引きました。


六角氏が叛意を翻し、三好三人衆が矢島御所を襲う風聞が流れ、義昭は4、5人の供を従えたのみで御所を抜け出し、若狭国へ移りましたが、その後9月8日、朝倉からの使者を受けて、越前へ移座しました。


畿内の情勢は圧倒的に三人衆側が優勢であり、更に三好らは阿波から足利義栄を呼び寄せ、9月23日に越水城へ入城させます。


10月4日、義栄は御内書を下し、将軍格であることを示しました。


12月、足利義栄は、朝廷より左馬頭を任官されます。



◇◇永禄10年(1567)◇◇


1月5日、義栄は消息宣下(朝廷の意思決定の通達)を受け、正式に将軍就任を認められたとされています。しかし将軍代替の吉例とされている石清水八幡宮の社務職の交代を強行しようとした義栄を、5月11日に朝廷は制止しています。(結局強行した)

正式な将軍宣下は、朝廷の献金の催促に義栄が応えられなかったこともあり、この年には行われませんでした。(永禄11年2月8日宣下)


2月16日、三好三人衆に蔑ろに扱われ、かねてより脱出を試みていた三好義継が、ついに松永久秀の元に出奔しました。

これを契機に態勢を立て直した松永久秀は、4月7日に信貴山城へ、12日には多聞山城に入城しました。


それを見た三好三人衆は、4月18日に出陣し、両軍は東大寺に陣を敷いて南都での市街戦を繰り広げます。

これが4月18日から10月11日まで続く、「東大寺大仏殿合戦」或いは「多聞山城合戦」と呼ばれる戦さで、10月10日、三好三人衆が本陣を敷いた大仏殿は焼失し、大仏の首も落ちてしまい、松永軍が勝利をおさめました。この大仏殿焼失は、松永久秀による焼き討ちとも言われますが、三好三人衆が本陣撤収のおりに火を掛けた可能性や、偶発的なものである可能性もあり、定かではありません。


またこの4月六角義治が、弟の六角義定に家督を譲りました。六角氏の弱体化を見通した為と言われています。


その中、8月1日、西美濃三人衆の内応を受けて織田軍は美濃に向け出陣。稲葉山城下に火をつけ裸城にし、城を包囲します。同月15日、斉藤軍は降伏、龍興は舟で長良川を下り、伊勢の長島へと逃げ落ちました。

また城を包囲中に、西美濃三人衆が挨拶に罷り出てきて、信長公を驚かせたという逸話が遺っています。



ここで一区切りになりますが、その後の流れを軽く書いておきます。


永禄11年(1568)7月になると、痺れを切らした義昭の迎えに、和田惟政に村井貞勝、不破光治、島田秀満などを付けて越前国に派遣し、義昭は同月13日に一乗谷を出座、25日に岐阜城下の立政寺にて信長公と会見を果たしました。

9月7日、信長公は足利義昭を奉戴し、上洛を開始し、浅井長政も加わり、六角氏を攻撃。六角氏の勢力は、南近江の甲賀郡に撤退しました。


この永禄11年9月か10月に、義栄が急死し、義昭は第15代征夷大将軍となります。



次回はこの流れの中で、浅井長政と市姫の婚姻が、どのように実現したのか考えていきます。

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