信長公の妹、市姫の嫁入り③

 前回は浅井長政、市姫の嫁入りに関わった方々の動向を見ていきました。


ではそこから、市姫の輿入れの時期を考えてみましょう。

ポイントは以下の書状です。


・12月17日付幕臣和田惟政披露状写(宛先は三雲対馬守と新左衛門尉父子、六角氏重臣)に六角氏が、浅井長政と信長公の「縁辺」との婚姻に関して尽力してる旨が書かれている。


・信長公が長政に宛てた5月(年不詳)の書状の使者が、沢田兵部少輔(六角氏家臣)である。



 織田氏、六角氏、斉藤氏、そして浅井氏が同じ陣営に居たと考えられるのは、永禄8年(1565)11、12月頃から、永禄9年(1566)8月29日頃、或いは7月頃までになり、先の書状は永禄8年12月17日、後のものは永禄9年5月のものではないかということになります。


そして浅井長政の9月15日付の書状は、斉藤家、織田家、浅井家、六角家が同じ陣営にいる時期に、9月はありませんので、斉藤、六角家が離脱した後のものでしょう。



 そこを押さえた上で、一連の流れを、もう一度確認しましょう。


永禄8年11月、織田信長公を義昭のお味方に引き入れる時に、斉藤家との停戦と共に、もしかすれば浅井長政との縁組を足利義昭が命じ、12月に信長公が受け入れたのかもしれません。


この時の文書に「雖入眼成就したといえども」とあるので信長公は承諾はしたものの、乗り気ではなかったのかもしれませんし、或いは、実は六角氏としては、本音の部分では乗り気ではなかったとも考えられます。


というのも六角氏の家中は、求心力が衰えていましたから、浅井長政に負けることは、ますます面目が潰れ、家の危機に繋がることになります。


これで織田家と長政が同盟を結べば、今後何かあった場合、武篇で名高い織田家が何かと出てくる訳です。


また浅井家と織田家というのは、同じ下剋上で成り上がった戦国大名という立場ではありましたが、尾張守を叙位されている信長公と、正式な叙位はない長政では、信長公からは長政に対して直接書状を出せますが、長政からは近習宛に出さねばならない程の家格差がありました。


長政に縁戚関係として信長公がつく事で、多少なりとも浅井家の家格は上昇しますし、お金持ちの信長公からお金を引き出したい朝廷としては、恩をうる為に妹婿に叙位の話を持ちかけるかもしれません。


義昭の命なので動いてはいますが、人間心としても、六角大名家としても、面白くなさはあるんじゃないかなぁと思います。


しかしその反面このような働きは、浅井長政や家臣に、将軍家の重臣という立場や、地位の違いというのを見せつけ、長政に格上の織田家との縁組に尽力して恩を売るという側面もあった事でしょう。


六角氏からすれば、「観音寺騒動」で求心力が低下し、義昭を自領に迎え入れて恩を売り、近臣として、できれば寵臣として権威を回復したいという思いがあったのではないでしょうか。



 という事で同盟や婚姻に関する正式な文書や誓紙を取り交わしは後日改め年を越し、そうこうするうち永禄9年5月に布施公雄が、六角氏に対し反旗を翻します。

またまた、面目が潰れる思いがしたことでしょう。


六角氏は池田定輔に命じて、布施山城を包囲し攻撃させます。

すると布施氏は、浅井長政に手合を求めます。


浅井長政が動くのは、7月25日になり、やや時間があきます。

この期間というのは、長政にとっては、義昭と六角氏の出方を見ていたのかもしれません。


この布施氏がいつ長政に手合を求めたのか、はっきりとした日時は分かりません。


そしていつ六角氏が、長政の動きに気がついたか、ですが、当時の戦闘準備というのは、領民に徴収をかけたりで、わりと外から見てわかるものだったらしく、当然のことながら、六角氏は長政を監視していたでしょうから、戦支度を始めれば分かったと考えられます。


六角氏としては、「浅井が戦支度をしています。もしや我が家の内紛に手を出すつもりやもしれません」といえば、義昭が「六角氏の家中の事ゆえ、浅井氏の手出しは無用」とか、長政に釘を刺してくれると思ったかもしれません。


ところがそういう沙汰を、義昭は下したようには見えません。

結局お味方同士が戦うことになる訳ですし、なんでここに釘を刺して置かなかったのか、ちょっと謎ですよね。

ここにピンを刺して、先を見ていきましょう。


 7月25日に出陣した浅井長政ですが、29日蒲生野での戦では劣勢に追い込まれ、北へと敗走します。

8月13日、佐和山周辺で再び戦となりますが、ここでも多くの兵を失い、長政は全軍撤退させ、小谷へ逃げ戻りました。


この後9月9日に、再び浅井長政と六角氏は戦をしているのですが、その前の8月3日、矢島御所で三好三人衆の三好長逸に内通する者がおり、三好軍が坂本に布陣、御所側が撃退し、さらに8月29日、斉藤龍興と六角氏が義昭に反旗を翻し、更に肝心の足利義昭もいなくなってしまいました。


長政が兵を動かした段階で問題ですし、誰も居なくなりましたから、織田家との同盟の話は白紙になったと考えられます。


 さてこうして白紙になった浅井家と織田家の結びつきですが、もし信長公が積極的に進めたいと思っているなら、また或いは既に婚約が整っていたなら、両家が敵対していない限り、彼らが居なくなったとしても、立ち消えにはならないのではないかと思われます。


もしかすると定説である「信長公の方から申し出た」は、違う可能性もなきにしもあらずですし、もしかすれば浅井長政に対しては、まだお味方になるよう交渉中、つまり婚約は整ってなかった。


そうなると長政の書状は永禄10年ではなく、永禄9年のものではないかと考えられます。


前々回見たように安藤たちが転仕した、永禄10年8月15日から1ヶ月後に出したというのは、動きとしてかなり不自然です。

しかも転仕したばかりの安藤たちに、新たな主人の実妹との婚姻をせかしたというのは、なんだかちょっと微妙です。


この永禄9年は8月の後には閏月(3年に1度、季節とのずれを修正するために、任意の月の間に閏月として1ヶ月分、30日を足す)が挟まります。


長政は斉藤家、六角氏の謀反から1ヶ月半様子見していましたが、誰からも使者は来ず、このままでは織田家との同盟、婚姻が立ち消えてしまうと考え、信長公近習である市橋氏に書状を送ったというのは、あり得る話です。


 つまり六角、斉藤家の叛意を受け、義昭も近江から脱出し、白紙になった婚姻を仕切り直して進めるよう、市橋伝左衛門に宛てて書状を出し、それを受けた信長公が改めて受け、翌永禄10年9月に市姫が輿入れするというのは、大名同士の同盟に伴う婚姻としては、一番自然な流れです。


となると、永禄8年から9年にかけて、浅井長政に対し、六角氏との和睦を交渉していたのは、斉藤龍興ということになります。


斉藤龍興は早い時期から義昭を支援しており、母が近江の方(浅井氏娘)ですので、浅井長政とは一応、親戚関係にありました。


ということで、交渉役として斉藤龍興がなるというのはわかりますし、その重臣安藤守就や氏家卜全が出てくるのは頷けますし、後に長政が元斉藤家臣の市橋伝左衛門に、書状を送ったというのもそういうご縁からなんじゃないかと推測できます。


 その他に浅井長政の関係者としては、義昭の兄義輝に仕えていた京極高吉という方がおられ、義輝の死後、義昭に近侍していました。


浅井長政の祖父、父は形式的にではありますが、元主家である京極氏を立てていましたが、長政は蔑ろに扱ったと言います。


それを受けて京極高吉は、永禄3年に六角氏と結んで、浅井長政に挑んだそうです。残念ながら負けを期して、長政の姉を頂くことになりましたので、こちらの方が縁といえば深いのですが……


浅井長政との関係は当然のことながら、あまり良くなく、そうなると交渉役としてはなかなか難しいものがあったのではないかと想像できます。


 しかしですね、高吉の正室京極マリアさん(長政の姉)は天文11年(1542)生で、京極高吉は永正元年(1504)生なんですよ。永禄3年(1560)の折、マリアさんは数19歳、高吉は数57歳ですよ?

そこから高次、高知、松の丸殿、氏家行広室、朽木宣綱室と子作りするんですな。

高知は元亀3年(1572)生ですから、高吉数69歳です。

高吉すごいですねー(棒)

マリアさんが、キリシタンになったのって……


 さて、話は戻りますが、「安藤守就や氏家卜全を通じ願い出ていた」ですから、織田家との婚姻を求めていたのは、他ならぬ浅井長政ということになります。


つまり他にもあったかもなのですが、織田家との同盟、婚姻を、チーム義昭に入る条件としたのではないかと思われます。

となると、「願い出ていた」で、「約していた」ではありませんから、実は承諾はされたけど、まだ婚約も整っていない状態だったので、もしかすると手合を求められた折に、そのことを申し立てたのかとしれませんね。


まだ条件をクリアしてないから、正式にお仲間ではない。

自分は2ヶ月待ったけど、その間に婚約の儀を整えて、手立てをしなかったのは、そちらの落ち度である。


そうなると義昭としては、六角氏がノロノロしてるからでしょう?

としか言いようがないわけです。


また5月の信長公から長政宛の手紙というのは、長政にとって不本意なもので、義昭が惟政に対し、信長公に会うように指示した6月11日付の自筆書状というのは、そういうことだったのではないか。



まぁ、わからないんですけども、この辺りだと、話は繋がるかなぁと思いますし、義昭が命じて、12月に信長公が承諾して、半年ほど経っても形になってないというのは、少なくとも長政と義昭以外の人はあまり乗り気じゃなかったんじゃないかと考えさせられます。


この辺りに長政の立ち位置とか、当時の常識から考えられる評価とか、少し一考の余地がありそうですね。


 また信長がこの婚姻に関する費用を全額負担したという話の出典が分からない為、真偽は不明です。


もし本当であれば、折しも「天下之嘲弄」になってるところで、そういうのは家格に跳ね返ってくる時代ですから、大名としては体面がね、気になります。

そういう時に、「是非とも、尾張殿と縁組したい」と来たら、やはり有難いのではないかと思います。


さて、まとめます。


 義昭は出来るだけ多くの大名に、お味方になって欲しいと考えていました。

ですから御内書に返事をして来た大名たち以外に対して、個別に交渉をさせました。

特に京へ向けて大軍を動かすのに必要な道を押さえている大名家に傘下に入って貰うのは必須のことでした。


京から東、或いは朝倉氏などの大名を通すには、関ヶ原を押さえている斉藤、浅井、南下して六角氏になります。また湖西の高島七党(朽木氏など)も該当します。


朽木氏や斉藤氏、六角氏は既にお味方になっていますから、浅井長政と交渉する必要が出てきました。


斉藤龍興の派遣した安藤たちを迎えた浅井長政は、条件として尾張の織田家との同盟を提示し、信長公の血縁者を正室に迎えたい旨を申し立てました。

おそらく武辺で名高い織田家と強固に結びつくことで、当時争っていた六角氏、斉藤氏との争いを有利に進め、家格の上昇を見込んだのでしょう。


この頃浅井長政は、大名家といえども正式な叙位を受けておらず、叙位される為には、ツテと多額の献金が必要でした。もしかするとコレも条件に入れたかもしれませんね。


義昭は尾張に和田惟政、六角義賢を派遣します。

当初は斉藤家との停戦と上洛の支援だけだったかもしれませんが、その後浅井家との同盟も盛り込まれます。


承諾を得た六角氏は復命しますが、話は、なんだかんだとなかなか進みません。


これは将軍家に生まれたとはいえ、仏門に入れられて家臣団との繋がりがなく育った義昭の育ちや、寄せ集め集団の矢島御所の組織としての問題があったかもしれないなぁと考えられます。


そもそも浅井家の躍進を面白く思わない、交渉役の六角氏や斉藤氏の思惑もあったかもしれません。


何しろ義昭に将軍を宣下されるかはわかりませんし、されたとしても、室町殿の位だって、不動のものではありません。

そもそもこの頃は「自分が天下を動かす為の傀儡」という価値しか、室町殿にはありません。



龍興としては、浅井、織田に挟まれることには危機感もあったでしょうしね。


そうこうしてるうちに、六角氏家臣布施公雄が叛旗を翻し、浅井長政に手合を求めます。

もしかすると布施氏の謀反は、浅井長政の調略かもしれませんね。


浅井長政は自分の要求が通ってないことを申し立て、布施氏にお味方する旨を伝えます。

慌てた義昭は、和田惟政を尾張に向かわせますが、長政は六角氏に対して怒りを感じており、戦が始まりました。


このやりとりが原因となり、六角氏はかねてより入っていた三好三人衆の調略に応じることを決意します。

同じく斉藤龍興も、三好三人衆に付くことに承諾します。


そして上洛の兵を起こした信長公は、斉藤家の奇襲にあい、足利義昭は矢島御所を脱出します。


仲介者を失った浅井、織田家の縁組は、白紙となります。


9月9日に勝利をおさめた浅井長政は、9月15日に信長公の近習市橋伝左衛門に宛て、縁組を申し出ます。


この願い出に信長公が応じて、同盟並びに婚約が相整い、一年後の永禄10年9月吉日、市姫は小谷へと輿入れしました。


まぁ、これだと流れ的に自然かな、と思う素人の見解です。

読んでいただき、ありがとうございました。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る