信長公の妹、市姫の嫁入り①
信長公の妹市姫は、天文16年(1547年)頃に生まれ、天正11年4月24日(1583年6月14日)、再嫁先の越前北ノ庄城で亡くなりました。
正室土田御前の腹であるとも言いますが、はっきりとしたことは分かっていません。
名前も「市」だったのか、どうなのか分かっていませんが、ここでは市姫と致します。
今回は浅井長政との婚姻の経緯と時期について見ていきます。
いつものように、一つのエンタメとしてご覧ください。
永禄2年(1559)浅井長政は、六角氏に手切を入れ、正室であった六角氏重臣平井定武の娘と偏諱を返しました。
その後長政は織田氏娘、市姫と婚姻関係を結び、同盟を終結させたと言われています。
そしてこの同盟は当初信長公の方から、斉藤家との抗争を有利に運ぶ為、不破光治を使者として提案し、浅井長政は一旦お断りしますが、その後改めて自分の方から同盟を申し出たとされています。
というのも『織田信長家臣人名辞典』に依りますと(手元の史料にない)、推定永禄10年(1567)9月15日付の浅井長政の書状で、「氏家卜全や安藤守就を通して信長公に願い出ていた、信長公のご縁の方との婚姻を実現して欲しい」というものがあるそうです。(この手紙の宛先が「津島盆踊」の市橋伝左衛門です)
何故永禄10年と推定されているかというと、ご存知のように氏家や安藤という方々は斉藤家の重臣で、弘治2年(1556)の道三の死後、斉藤家と織田家は敵対していましたので、「氏家卜全や安藤守就を通して信長公に願い出ていた」となる為には、織田家に転仕した後でなければおかしくなるからです。
斉藤家滅亡は永禄10年(1567)8月15日(『信長公記』)から9月頃(織田信長安堵状より)になり、この時の稲葉山城攻めの前に、彼らは織田家に内応し、落城後、斉藤家を後にしています。
また浅井家と織田家の同盟終結の時期も諸説あり、永禄4年(1561)5月頃というものが一番早く、また婚姻の時期は永禄10年9月、そして永禄11年正月から3月、また同年4月というものがあります。
確かに永禄4年頃の浅井長政は、六角氏と結んだ美濃斉藤家の侵攻に悩まされており、一旦断ったものの、斉藤家と争っている織田家と結ぶことを思い直してもおかしくありません。
しかし、もし永禄4年に同盟を結んでいたとすれば、使者の不破光治は斉藤家の家臣で、永禄10年まで織田家にはおられませんから、おかしなことになります。
少なくとも使者は、不破光治ではないということになりますし、推定永禄10年の長政の書状の内容がわからなくなります。
それはそれとして、さらに疑問点が2つ、浮かんできます。
1つは同盟終結にあたり結ばれる婚姻は、通常その時に決まります。
勿論すぐに輿入れするという訳ではありせんが、婚約を整えて内外に知らしめることになります。
そうなると「織田家の娘を嫁に欲しい」という、永禄10年と言われる書状はここでもおかしなことになります。
もしかすると、永禄4年の同盟の折に浅井長政に嫁いだ織田氏娘(含養女)がおり、その方が亡くなったので、新たな正室を、永禄10年に家臣となった安藤たちに手紙を書いたのかもしれません。
あるいは織田家では、信秀が晩年に乱造した娘(天文21〜22年(1552〜53)生)を浅井長政と婚約させていましたが、永禄10年より少し前、輿入れ直前にその娘が亡くなり、養女ではなく「信長公の実の妹」にこだわった長政が市姫を指名してきたという話かもしれません。
これは市姫の年齢(永禄10年で21歳)もあり、彼女の最初の旦那さんも亡くなり、再嫁したと考えられ、わりと自然ではあります。
また元々は浅井、織田家の同盟は、婚姻を伴わないものだったのかもしれません。
しかし永禄10年頃に突如浅井長政が、より強い絆を求めて、安藤たちに申し入れをしてきたとも考えられます。
それはそれでそうかもね?なのですが、そうなると2番目の疑問が出てきます。
これは、永禄4年の同盟に限らずなのですが……
永禄10年と言われる書状に「安藤、氏家」に申し入れてきたとありますが、彼らはその年の8月半ば、或いは9月までは斉藤家の家臣で、斉藤家は浅井、織田ともに敵対していた家なんで……すぐにそんな話を持ち込まれる、というのは、どうなんでしょうか。
また、そもそもです。
同盟を結ぶ場合、お互いの取次を通じて決め事をするということは、それ以前に同盟を結んでいれば、取次をしていた人たちがいた訳で、それならば何故その方に申し入れず、まだ転仕してまもない、それ以前浅井、織田両家にとって敵対していた家の安藤たちに言っていたのでしょうか。
確かに斉藤義龍の正室は浅井氏娘ですから、道三が当主の頃の対浅井家の取次は彼らだったのかも知れず、織田家の家臣団の中では格段の親しみ?があったのかもしれません。
或いは浅井家に輿入れし、亡くなった姫がいるならば、彼女に付き添っていた侍女や近習たちがいるわけですし、輿入れした姫がおらずとも、同盟関係があれば、わざわざ安藤たちに言う必要はないでしょうから、永禄10年以前に浅井家と織田家の間に同盟があったというのはどうなのでしょうか?
また永禄10年、織田家から不破光治を使者にし、長政に申し入れてきたとした場合を考えてみると、これもまたおかしなことになります。
永禄10年8月15日、稲葉山城が落城し、不破光治が織田家に吸収されました。
すると信長公は即座に浅井家へ、不破氏を遣わします。
それを長政が断ります。
長政は断ったものの、やはり思い直して安藤に書状を送ります。ところがなんの動きもないので、次に氏家に送ります。
それでも動きがないので、9月15日、信長公の近習の市橋氏に書状を出しました。
まず、当初の使者である不破光治に書状を出すのが普通ではないでしょうか?
永禄10年のほんの1ヶ月の間に、えらいバタバタして、長政の身に、何かあったのでしょうか?
しかし安藤も氏家も忙しいですけども、美濃を手に入れた信長公も、その重臣たちも、戦の褒賞を采配し、新しい土地の経営にも忙しくされてると思うんですけども。
長政、攻めの一手です。
よくよく考えてみれば、この時期の遣り取りというのはとても大変です。
まず長政は、稲葉山城の結果を手に入れて、安藤たちが転仕したことを知る必要があります。
そこから書状をしたため、小谷城から岐阜城、8月中なら稲葉山城まで、使者を遣わせます。
使者の足では、片道大体半日か1日くらいです。
城下についたら、城郭の門の開いてる時間帯にお邪魔して、該当の人物のお屋敷に行かねばなりません。
ところが8月に城郭内に入ったとしても、稲葉山城合戦では城下の井口まで攻め入って焼き討ちし、本城を裸城にしてしまったそうですから、焼け野原に屋敷とかを建築中です。
となると、もしかすると小牧山城へ向かったのかもしれませんね。
稲葉山城から小牧山城まで、二時間半ほど、小谷から全行程1日程度の距離になります。
小牧山城に着いたら、そこのどこに安藤氏や氏家氏がいるのか分かりません。
そこで門番に「すみません、浅井のものなんですけども、転仕された安藤さんに用事があって……」と願い出て、そこから安藤氏に連絡が入り、身元の確認があり……となかなか手間がかかります。
また信長公が岐阜城に入城したという9月以降に行ったとしても、現代と違って、玄関に名前は出てませんし、新しい街並みですし、安藤たちは転仕したばかりですし、やはりどこが彼らの屋敷なのか分かりません。
やはり門番に聞くことになります。
受け取った安藤にしても、氏家にしても、信長公にまず話をするには、公の近習に「このような件でお話が」と願い出る必要があります。
それから日時の指定があり、「実は……」となります。
「浅井長政からこのような申し出があり……」と話をしたとしても、織田家側としても、一応、お引越しや新たな領地の沙汰で忙しい重臣たちを集めて評定にかけ……という手筈があるわけです。
信長公は独裁政治で、パッパと一人で決めたイメージがありますが、江戸時代とは違い、家臣団の力の強い戦国時代では、こうした家のことに関しては、評定にかけるというのは、大切なセレモニーでもありました。
順番はわかりませんが、こんな時期に安藤に出して、氏家に出して、或いは連名で出したのかもしれませんが、動きがない!返事がない!と、長くて1ヶ月、短ければ1、2週間の間に大騒ぎをしている訳です。
短気なんでしょうか、それとも空気読めないタイプだったんでしょうか?
よっぽど切羽詰まってたんでしょうか?
その割には後でアッサリ裏切るんですから、浅井長政って図々しい。
通常、同盟を結ぶためには、何度も、何度も取次や使者を走らせて、誓紙の下書きや、条件などをチェックし、やり取りをします。
更に結婚を伴うものであれば、婚約の印の贈り物のやり取りもありますし、送り出す側は付き添う家臣の選定や、彼らはもちろんのこと、花嫁の準備だってあります。お迎えする側は部屋をリフォームしたり、新しく建てたりしなければなりません。
もし婚姻が永禄10年9月なら、15日の手紙から本当にあっという間です。
比喩にもならないくらい、あっという間です。15日に手紙を出して、翌16日に届いて、それから評定にかけて、返事をしたため……
早くても、18、19日くらいになるでしょうか。
そこから9月の末日の30日まで、12日とか11日です。
確かに同じ家中で結婚話が持ち上がると、2週間くらいで結婚をしますが、同盟を結ぶにあたり、大名同士でなされる婚姻は通常一年くらいはかかります。
そう考えると、永禄4年頃というのはどうなんだろうかと思いますし、婚姻は永禄10年9月というのは、大名同士の同盟や婚姻としては、相当不自然な気がします。
ところで年不詳なのですが、12月17日付幕臣和田惟政披露状写(宛先は三雲対馬守と新左衛門尉父子、六角氏重臣)に、六角氏が浅井長政と信長公の妹の婚姻に尽力していることが書かれています。
更に信長公が長政に宛てた5月(年不詳)の書状の使者は沢田兵部少輔で、こちらも六角氏の家臣になり、この婚姻の仲介は、六角義賢がしていることが分かります。
あれ?
浅井長政の正室は、永禄3年(1560)8月中旬まで六角氏家臣の娘で、その後長政は六角氏に手切を入れて敵対していたのでは?
尾張守を叙位されて一国の国守となり、街道一の弓取り今川義元を下し、斉藤家とことを構え、美濃をも併吞しようとしていた勢いのある信長公と、浅井長政が結べば、浅井家の勢力は増します。
六角氏としては、織田信長公には浅井家と結ぶより、自分と結んでもらった方が何かと助かるのでは?
これはもう全体的に、なんだかおかしいぞ?と思いませんか?
次回はこの頃の、流れをザッと見ていきます。
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