生駒氏娘と信長公②

 日本最古の医学書に『醫心方』、また、室町時代に編纂された育児書『世鏡抄』というものがあります。また、天正2年(1574)に名医曲直瀬道三が著した『啓迪集』を読みますと、当時の常識が分かります。


 当時、子供というのは、無垢で無個性な存在で、胎内で受けた影響、また乳をやる乳母によって、性質が定まってくる、という考え方があったようです。


そういう常識下では子供、特に次代様を産む可能性のある女性というのは、当時的にどんな女性だったのかというと、姿は太からず、細からず、中肉中背で健康的なのは勿論、心根が清らかで、情緒の安定した芯のしっかりした女性ということになります。

更にはすでに子供を産んだことがあり、その子が元気であればいうことがありませんでした。武家の当主の室には、子供を産むかどうか分からない処女よりも、経産婦が好まれましたということです。


つまり、信長公が生駒氏娘を望んだ二つ目の理由は、既に子供を産んだ実績があり、その子が健康に育っているということにより、弾正忠家の健康な跡取や姫を産むことができると判断できたからです。

信長公が「マザコン」だったかどうかはさておき、次代を任せる子を得てない武家の当主では、責務優先ですから、個人的な好みを言える立場ではないでしょう。


 さて、この生駒家の織田家における立場というのは、とても興味深いものがあります。

まず、信長公が通い始めた生駒氏娘ですが、この時、彼女は側室ではありません。


側室というのは殿の子供を産む使命を持っていますから、身籠った子供の血統の正当性を証明するために、殿の家臣たちに披露目をして城の奥に入ります。


生駒氏娘が家臣に披露されて奥に入ったのは、小牧山に城を移した折であり、それまでは側室ではなく、野合の相手でしかありませんでした。勿論公の近習たちは生駒氏娘のことも、子供が産まれたこともリアルタイムで知っていたでしょうが、側室ではなかったことは確かです。


ではこんな失礼な扱いを、なぜ生駒氏は了承したのでしょうか。


 信長公正室鷺山殿に実子はいないとされていますが、それは不妊であったのか、それとも妊娠或いは出産はしたけれども亡くなってしまったのか、定かではありません。


というのも、何しろ当主を毒殺しようする一番家老が采配する那古野城での正室の出産に、暗い影がかかっていたかもしれないというのはありうる話です。

信長公に子供ができなければ、公は「当主に相応しくない」「不忠である」「神は公を選ばれてない」と評判もガタ落ちですし、どう転んでも信勝が跡を取るか、信勝の息子が養子になるでしょう。


現代では、妊娠中に故意に流産をさせるとか、生まれたばかりの赤ちゃんを殺すなど、考えられないことですが、この当時、胎内にいる、或いは生まれたばかりの子供は「あの世のもの」であり、生まれてから時を経るにしたがい、この世のものになっていくと考えられていました。

その為、あまりに安易に子殺しをすると宣教師たちが恐ろしげに記録に残しています。


 殿の正室は本城の重臣の邸宅を産屋とする慣習がありましたし、その後も一ヶ月近く正室は物忌をし、正室の乳母や侍女たちはそちらのケアに手が取られますし、昼夜に渡り子供の世話をする侍女の中に、反信長の人物がいてもおかしくありません。


更には五徳姫と似た時期に後の蒲生氏郷室が生まれていますが(諸説あり)、慣習から見てもっと早い時期、天文22年頃(1553)には側室は入れているはずです。

しかし後に多くの子供を持つ信長公の正室に続いて、側室にも子供が生まれていないところを見ると、そこでも何かあったと考えた方が現実的です。


武家の当主にこのような長期間、子供ができない。更に妊娠しても流れてしまう、あるいは生まれても亡くなってしまうのは不吉以外の何物でもありません。

信長公の面目は、丸潰れでしょう。


では是が非でも、跡取が必要な信長公はどうしたか。


つまり、生駒氏娘が城に入れなかったのは、そういうことでは無かったのか。

独自の勢力を持ち、組織力のある小折城では、流石の林でも手のものを入れるのは不可能だったでしょう。これが生駒氏娘を選んだ三つ目の理由になります。


そういう事態であれば、生駒氏も娘を城の奥に入れないことに対して、納得するのではないでしょうか。


そのような中、蒲生氏郷室が生まれたのは、弘治4年、永禄元年(1558)前後頃には信忠が生まれていると噂になり、林の手から逃れて生まれ、女児のために見逃されたのかもしれません。

また永禄元年(1558)三男信孝を産む坂氏娘が清須城内の重臣宅ではなく、こちらも重要拠点である熱田杜家岡本邸を産屋にしたのは、同じ理由かもしれません。

また拙作「織田三七郎信孝の母、坂氏娘の素性の考察」で見ましたように、この岡本家は大宮司千秋家の末っ子を預かったという、大変信用の厚い家でした。それを考えると、坂氏娘は熱田の何処かに入り、公を迎えていたのかもしれません。


こうして無事に、信長公は男児3人を得た訳です。


 とりあえず男児3人を得て、肩の荷が降りてしまったのか、永禄6年(1563)まで小折城へ足が絶えており、小牧山城を築城し、正式に側室として引き取るために文を遣わせたところ、産後の肥立ちがよくなく伏せっている旨を伝えられて、仰天したというエピソードが残されています。

相思相愛とか、最愛の……とか言われるわりには、忙しい時期とはいえ、いくらなんでも6年間というのは、間が空きすぎな気がします。


雌伏時代を支えてくれた生駒氏への申し訳なさと、生駒氏娘への罪悪感からか、生駒氏娘のために本来は身分的に乗れない輿を用意して迎えにやり、家臣への披露の折にはフラッフラの生駒氏娘の手を自ら取って、丁寧に紹介をしたそうです。

残念なことに生駒氏娘は、その後永禄9年(1566)に亡くなったそうです。


 近年、史料に生駒氏娘が信忠を産んだという記述がなく、次男信雄のみ書かれていることから、信忠、五徳姫の生母は別ではないかと言われています。

五徳姫に関しては、女児は省かれがちなのと岡崎から帰ってきた後、小折城のちかくに屋敷を構えていることから、生駒氏娘の腹の可能性が高いと思われます。


信忠が、生駒氏娘の子でない可能性はあるかと思います。

その場合、生駒氏と同じように他に堅固な城を持ち、家臣団が一致団結している義侠心溢れる一族の家の娘でしょう。林の圧力を跳ね除け、できれば稲生合戦までの林、前田与十郎、大脇、柴田らと家臣ともども通婚関係、縁戚関係がない独自勢力で、信長公に忠誠を誓える武将家となると、勝幡時代からの重臣か、清須移城前後に加わった家で、限られてはいますが、そういった逸話を持っている家は存じ上げず、今のところ特定は難しいです。


個人的には、生駒氏娘の腹ではなければ、津島で生まれた可能性を考えています。

これはまた稿を改めます。


禁裏から守護大名家まで付き合いの深い熱田西加藤家の全朔もあり得るかと思ったのですが、もしかすれば坂氏を預かったのは、彼かも知れませんね。


また信長公の子供を産んだ逸話を持つのは塙直政の妹ですが、その割には直政の死後の扱いは冷たいように感じます。

もしかすれば信長公の息子を産んだものの、直政の出陣中、家族の隙を突かれたか、あるいは病で亡くなったのかもしれませんね。


 さてこれに関連して、オマケを披露したく思います。これも更なるエンタメとして読んでいただければと思います。


 何故犬山に於いて信時が謀反を起こされたのか、何故家臣は相続権をもたない信康の息子の信清についたのか……不思議な思いがします。

もしかすれば原因の一つに、彼には清須織田氏の血が流れており、岩倉織田氏家臣たちの反感を抑えることが出来なかったということも考えられます。

また生駒氏と信時は、旧木之下織田氏の中では新入りになりますが、生駒氏への元勝幡織田氏の扱いが良すぎると思われていたなどあったかもしれません。そうなるとやり手の信貞が亡くなり、信秀の影響力が低下してくると、俄に不満が表面化してきた可能性があります。


ちょっと無情な話ですね。

そうなると、易々と生駒氏が転仕した理由もわかりますし、もう一方への疑問が解けてきます。


何故、六郎三郎室の生駒氏妹姫は、姉のように再嫁させられていないのでしょうか。

また生駒氏妹姫は、いつのことか分からないのですが、小牧山近所の外山村に住したと書かれています。何故家を出て、わざわざそんなとこへ行ったのでしょうか。

姉妹の仲が良かったからでしょうか?


しかし本当に仲の良い姉妹なら、どうせ再嫁しないのであれば、姉亡き後、侍女として出仕して、信雄たちの面倒を見たらどうでしょうか。

五徳姫が岡崎から帰ってきた後に、近くに住んで寄り添って差し上げたらどうでしょうか。

或いは姉の菩提寺で、姉の菩提を弔い続けてもいいのでは。


それを考えると。とても不思議な気持ちになります。


条件が当てはまるとはいえ、信時の室の実家に信長公が通ったのは、それだけだったのでしょうか。

もしかして、信時が再び城主として立ち、落ち着いた頃に再び嫁す約束があったのかもしれません。それ込みの転仕、野合だったとしたら。

深い恋愛感情があったのは、信時(秀俊)と生駒氏妹姫の間だったかもしれません。


外山村というのは、現在の小牧市外山、おおよそ外山神社のある辺りのようです。

北へ向かえばかつての居城犬山城まで向かう稲置街道が通っています。南に向かえば、同じくらいの距離に信時が生命を落とした守山城が建っています。


犬山を向こうに見る小牧山、そして振り返れば守山の見える土地で、彼女は何を思いながら、信時と姉亡き後の人生を過ごしていたのでしょうか。







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