津島仮装盆踊④弁慶、前野但馬守、伊東夫兵衛

「辨慶に成り候衆、勝れて器量たる仁躰なり。

一、前野但馬守、辮慶

一、伊東夫兵衛、辮慶

一、市橋伝左衛門、辮慶

一、飯尾近江守、辮慶」

  (『信長公記』)


「器量」という言葉は当時、「その役、職位を成す才能、技能を持っている」という意味合いで使われていました。

ちょっと分かりにくいのですが、信秀や信長公の若衆岩室氏を表した「器用の御仁」の「器用」は人格的なものまで含み、「器量」は含まないという感じで何となく掴めるといいなと思います。

「仁躰」は人間そのもの、風体、身分などを示します。

当作では「極めて弁慶役にぴったりの方々であった」と訳しました。

訳し方が悪いのか、なんだか含みがある言い方ですね。


【前野但馬守】

前野但馬守長康(小太郎、勝右衛門(将右衛門))

享禄元年(1528)〜文禄4年(1595)


 元々前野氏は尾張守護土岐氏の家臣で、尾張守護が土岐氏から斯波氏に移った後も、領していた土地に残ったようです。

いつ尾張守護代織田伊勢守家に出仕したのかは定かではありませんが、前野長康の父親は、当主が信安の時代に重臣を務めていた前野小次郎宗康で、長康は彼の次男だそうです。


その前野氏は浮野合戦にも岩倉方として参陣しています。そしてその翌年の岩倉落城は一般的に永禄2年(1559)となっていますが、信長公の前野家宛の所領宛行状は永禄元年が初出です。

しかもその宛行状には、岩倉三宿老(前野、高田、山内)のうち、高田氏の名前も上がっています。

山内氏は落城の一年前にあった浮野合戦で討死していますから、それを受けて宿老たちが、落城前に逃げ出してしまったのでしょうか?


実は「永禄2年岩倉落城」説の元になっているのは、いい加減と名高い『甫庵信長記』です。


和田裕弘氏が尾張法蓮寺の過去帳を調べ、宿老である山内氏が「弘治三年七月討死」と書かれているのを発見されています。

ということは、岩倉落城は弘治4年、永禄元年(1558、3月改元)ということになり、元年の落城で織田弾正家に吸収され、前野氏に宛行状が出されたと考える方が自然です。

また「尾張守」叙位の御礼に上洛したのは、岩倉を包囲しつつではなく、下してからになり、自然な行動になります。


 長康の母親は、柏井荘吉田城主小坂氏娘で、次男の長康が前野家を継いだのは、兄が小坂氏の養子になったからだそうです。

この小坂氏は、もともと守護大名山名家の家臣であったと伝わります。

応仁の乱の直前、山名氏は一族で10ヶ国の守護を任されて、二度目の全盛期を迎えていました。ところが西軍の総大将として武を鳴らした山名宗全が文明5年(1473)に亡くなると、それに先立って嫡男が討死していたため、山名家は乱れ始め、衰退への道を歩み始めます。

そのような頃に小坂氏は、斯波武衛(斯波家嫡流当主)として在京していた斯波義敏、或いは義寛の下に向かいました。

この頃斯波氏の領国尾張では、織田伊勢守(後の岩倉織田氏)の家臣大和守敏定が、義敏と義寛を推戴して台頭していました。

小坂氏はこの大和守家の家臣になり尾張へと移住したとも、斯波氏の下向に伴い、尾張に入ったとも言われています。


ところが尾張旭村には、佐渡出身という小坂氏がそれ以前からおられ、建保6年(1218)土豪の小坂孫九郎という方が、治水に尽力を尽くしたという記事が、『東春日井郡誌』に載っています。

前野長康の兄は「小坂孫九郎」なので、もしかすると山名氏家臣は仮冒で、こちらが斯波氏家臣小坂氏なのかもしれません。


 長康が享禄元年(1528)生ですから、小坂氏と伊勢守家(岩倉織田氏)の前野氏の婚姻は、永正末期から大永年間(1521〜1528)の半ばあたりでしょう。

応仁の乱からの流れで、武衛支流斯波氏二家と、伊勢守と大和守織田氏は、それぞれセットになって、東西に分かれて争い続けました。

大野氏系斯波武衛と、斯波武衛家(斯波嫡流)の重臣織田伊勢守家の手打ちが行われた後、斯波武衛を継いだ義達は、今度は自分の父を推戴してくれた大和守家と険悪になっていき、永正10年(1513)遂に大和守達定による謀反が起こります。

その後、弟とされる達勝が大和守になるにあたり、斯波義達は三奉行を設立しましたが、これはどちらかというと監視的な意味合いがあったのではないかと思われます。

また斯波氏は、大和守家と険悪になるに従い、織田弾正家や伊勢守家と仲を深めていきます。

伊勢守家連枝木之下織田氏の娘と自分の家臣岡田時常の婚姻を進め、伊勢守には近臣織田信安を、信安には織田弾正家の娘を、そして後見に弾正信貞を配します。

そのあたりの流れで、彼らの婚姻が結ばれたのかもしれません。


前野長康の兄を小坂氏に入れたのは、信長公と言われています。

この小坂孫九郎雄吉(宗吉、雄は信雄の偏諱)は、弘治2年(1556)の稲生合戦で信長側として、元斯波氏家臣佐々氏と共に奮戦し、さらに永禄5年(1562)の於久地城攻めでも前線の詰城を任されたと『武功夜話』に伝わります。

しかし『信長公記』には記載はないですし、前野氏の転仕が浮野合戦以降であるなら、少なくともそれ以前に他所の家の家老職の息子を、勝手に養子に向かわせるのは不可能でしょう。

もし天文23年(1554)大和守家が斯波義統を襲い、嫡男岩龍丸らが那古野城へ逃げ落ちた事件の前に、既に小坂氏と前野氏の養子縁組がなされていれば別です。

つまり『武功夜話』に描かれる信長公の指示か、稲生合戦に出陣し交名に記載されたこと、少なくともどちらかが勘違いということになります。


落城後の永禄元年の宛行状は、次男の前野長康宛ですから、これは落城以前に尾張守であった斯波氏の命で、小坂氏に雄吉を養子に出したと考える方がスッキリするでしょう。

まあ稲生合戦に上がっている交名に、宗吉(雄吉)はいないんですけども。


ともあれ、その後雄吉は信雄の傅役に抜擢されたと伝わります。

まぁ見ての通り『武功夜話』は膨らませてありますから、よくわかんないのですが……


しかし何しろ丁度、信雄に傅役をつける頃に北畠家への養子が決まっています。

となると人柄が優れているのは勿論、信雄は元公家である名家伊勢国司北畠家の10代様になる訳ですから、その補佐役として文化人としても、武においても相当優れ、押し込み養子先の北畠家の大殿や重臣たちとの折衝役としても「器用の仁」であり、織田家にとっても信頼できる人物でなければなりません。

信雄の家老には、最後の尾張守護職斯波義銀の弟、斯波義永(義冬、津川姓を名乗る。後に偏諱を受けて雄光。息子の代で斯波姓に復帰)が選ばれています。

斯波武衛家は足利将軍家の連枝筆頭の家柄で、「足利尾張守家」とも呼ばれ、つまり家臣ではなく、将軍家別家として、戦国時代でも「斯波」とは、呼ばれてなかったのではという説もあるほどです。

武衛は儀礼として、武家で席を譲らなければならない家は、将軍家以外ありませんでした。


家臣団の布陣を見ると、信雄の周囲はかなりの重圧だったはずです。


その上雄吉は、成人男性の平均身長が158㎝ほどの戦国時代に於いて(誤認されていますが、江戸時代が155㎝)、180㎝越えと言われる前田利家ばりの大変な大男だったと伝わりますし、むしろ彼の方が、2m越えと言われている弁慶の「仁躰」にピッタリです。


しかし長康が選ばれています。


 また岩倉織田氏の家老である、前野氏、山内氏、高田氏の織田弾正家における立場が大変微妙だったのは、ただ単に敵対していただけではなく、家督相続争いのおりに信勝を支持していたせいだと言われています。

高田氏は最初から前野氏のオマケみたいな感じに扱われて(永禄元年の宛行状)いましたし、当主が討死した山内氏は跡取りの一豊が幼かったこともあり、一時期行方不明です。本来、見事な討死であれば、主家が家の保証はしてくれるのですが、岩倉織田氏が弾正家に吸収されていますので、親戚筋にお預けになっていたという辺りでしょうか。


こう見ていくと、もしかすると小坂雄吉の縁で、前野氏はなんとか家を保ち転仕できたのかもしれませんね。

しかし結局この三家老は、永禄9年あたりには秀吉に組み込まれた形跡があります。

長康は早い時期から、秀吉の御身内衆と見られていた(今井宗久)ようですし、織田家では前のように重用される訳ではなく、人間関係的にも上手く行かず、犬山地方に地盤を持ってるように見える秀吉に付けられた後、家臣化したと考えられます。

最終的に長康は、豊臣秀次に付けられたのが運の尽きで、連座して切腹を申し付けられました。


そんな長康ですが、転仕してのすぐの一時は、信長公の盆踊のメンバーに選ばれるほど、近しい関係だったということですね。


長康は、馬の名手で「駒之助、駒右衛門」だとか、主家の当主である信長公から直々に、通称を頂いたそうですが、使った形跡はありませんね。


「信勝」のところで見た、津々木蔵人が馬の名手かもしれないというとこと重なり、気になるところです。



【伊東夫兵衛】


不詳〜永禄12年(1569)


伊東家は、工藤祐隆が家祖と言われています。伊豆の伊東を領して伊東姓を名乗り、その後伊東祐元が家族を連れて尾張前田へやってきたところ、信長公に召し出されて出仕したという説と、美濃出身で斉藤氏に仕えた後、信長公に転仕した説もあります。

実は斯波氏の家臣にも伊東氏がおり、もしかすると単にこの系統の方かもしれませんし、この方を頼ってきたのかもしれません。


天文21年8月16日(1552年9月4日)の対清須織田氏との戦、萱津の戦い辺りで、弟の伊東長久(長は信長公の偏諱)が出てきますので、転仕はこれより前ということになります。

この戦で、長久はどうしたことか、兜を忘れ、仕方なく編笠を被り戦います。

武士たるものが戦に兜を忘れるなんて、長久主従、とんでもない失態です。ところが、それを見た信長公は大いにウケて、長久に「編笠清蔵」と渾名を付けたそうです。

なんと可愛がってもらっていることでしょうか。むしろ長久の方が弁慶にピッタリでは?


永禄初期の母衣衆に兄弟揃って選ばれましたが、兄である夫兵衛は「坂井迫盛」(そういう家臣はいない)を斬って蓄電し、今川氏真に転仕して、永禄12年(1569)5月の今川大名家滅亡の掛川天王山合戦で討死しています。


母衣衆は殿の親衛隊で、将来が約束されたエリート職です。

その母衣をたなびかせて戦さ場を駆ける勇姿は武士の憧れであり、武運拙く首実験にかけられても、特別扱いをうける存在でした。尾張一国の主となった織田信長公のそれに選ばれていた上に、天下に名高い弓取りの今川義元が討たれた桶狭間前後に、わざわざ今川家に転仕するとは、えらい酔狂な行動です。

早い時期に調略が入っており、桶狭間前後に身バレを恐れたか、桶狭間直前今川軍が尾張を蹂躙する前に逃げたのかもしれません。


弟の長久は信長公に可愛がられつつ仕え、本能寺の変後は信雄、その後は秀吉に仕えて尾張岩倉に住しました。また息子の伊東長実は本能寺の後に秀吉に仕えて、黄母衣衆に選ばれました。

関ヶ原では家康に石田三成の挙兵を知らせた功で、備中一万石を安堵しました。


どちらの家も、兄弟の方が弁慶にふさわしい気も致しますね。


またここまでのメンバーの多くは、信忠、信孝ではなく、信雄に関係した方が多いですね。

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