飯尾近江守定宗① 飯尾氏

【飯尾近江守】


 飯尾近江守定宗に関して、はっきりとした史料は残っておらず、周囲から推し測る形になります。


 尾張飯尾氏は「斯波氏の一族で、尾張の国衆である」といい、尾張飯尾氏自体は「織田流飯尾氏」と伝わります。

手持ちの資料では、確かに定宗の実家は織田大和守家ですが、斯波氏の支流、庶流に飯尾姓の方はおられません。

「飯尾氏」というのは、どのような形で斯波氏に関係し、「一族である」とされたのでしょうか。


まず『飯尾氏』とはどのような方々だったのかを確認し、次に飯尾定宗について史料に残っているエピソードをみていきます。


 飯尾氏は渡来人である波能志はのしの子孫で、錦宿禰から三善朝臣になり、そこから鎌倉時代に分かれました。


 この三善氏というのは非常に興味深い氏族で、家格という面では大したことはないのですが、吏僚として驚くほど優秀な方々を、数百年に渡り数多く輩出しています。

勿論才能の遺伝というのもあるのかも知れませんが、それ以上に教育というものが徹底していたのかもしれないと思わずにはいられません。


支流の飯尾氏でも、室町時代には8代将軍足利義政に近侍した祐筆方の飯尾彦六左衛門常房が、『飯尾流』という書道の一派を起こし、享徳3年(1454)の序のある国語辞書『撮壌集』を記した飯尾備中守為種(永祥)、室町幕府の最高意志決定機関の御前御沙汰の構成員になった飯尾大和守元連(宗勝)らは、延徳2年(1490)よりの評定の記録である『伺事記録』を残しました。


 そんな才人を数多く排出した三善氏は、奈良時代から算術を研究する大学寮の算博士を務めたり、非常に重要な経理系の役人に任じられたりしていました。


その後、平安末期のことです。

吏僚三善康信の母の姉が、源義朝の嫡男頼朝の乳母になりました。

頼朝の乳母で名前がわかっているのが、かの有名な比企尼、摩々尼ままのあま、寒河尼、山内尼の4人です。

このうち摩々尼は頼朝が生まれた時に乳付けをしたと書かれています。

ということは、摩々尼は頼朝の身内の女性で、頼朝と似た時期に健康な女児を産んだ方になり、彼女は後見であったことが分かります。

彼女は、頼朝の父義朝の乳母摩々局の娘であるともされています。

また寒河尼は宇都宮系八田氏娘で、本姓は藤原氏。

山内尼は山内氏に嫁いで「山内尼」と呼ばれており、彼女自身の父親は不詳なので、もしかするとこの方が三善家の方かもしれません。

また当時乳母の1人は母方から立てますが、三善氏娘が熱田大宮司家から立てられた乳母であると言われています。

 

ついでに比企尼の三女の子孫が伊東夫兵衛になります。


 三善氏はその後、配流になった頼朝を支え、頼朝が鎌倉に開幕すると、元歴元年(1184)吏僚として、大江氏と共に幕府の中核で行政機構を整備し、裁判系の役職「門柱所」の執事となります。

初代門柱所の任を受けた三善康信の次男行倫の次男が矢野姓を名乗り、矢野外記大夫倫重となります。

外記大夫を継いだのは、彼の次男倫長で、倫長の長男倫忠が、文治3年(1187)阿波国麻殖郡飯尾村を所領としたことから「飯尾」大和守を名乗り(『吾妻鏡』)、ここに三善流飯尾家が生まれました。

この他にも三善康信の長男三善泰俊から近江国蒲生郡町野を所領とした町野氏、四男康連から備後国世羅郡太田を領した太田氏が出ています。

その他、鎌倉時代の三善系統では布施氏、富部氏、中原氏なども分かれて、吏僚として活躍をしています。


また飯尾氏自体も、飯尾大和守家の祖になった倫忠のひ孫の貞行が飯尾美濃守家を起こし、その次男の系統が三河吉良氏家臣飯尾長連と言われています。


 さて源氏三代から北条氏へと政権が移ると、源氏に縁の深かった三善氏の系統の家々は政治の中核から押し出され、京の都の六波羅探題(鎌倉当時は六波羅守護)の評定衆、引付衆へと移動させられて行きます。しかし鎌倉に居なかったことは、鎌倉幕府の倒壊から、京に都を置いた建武の新政、室町幕府への流れを考えると非常に幸運なことでした。


 元弘3年(1333)六波羅守護所は、後醍醐天皇方に寝返った足利尊氏によって攻められ滅亡し、生き残った吏僚たちのほとんどは、そのまま新たな六波羅の組織の役人として働くか、足利尊氏に吸収されるかしました。


三善流の各家の奉公人たちの中には建武新政の折にも吏僚として名を残した家もあり(布施、雑賀、冨部)、更に室町幕府が成立すると、建武の新政で取り残されていた六波羅の吏僚たちは、奉行人として登用されました。


室町幕府における奉行人は、ご存知のように鎌倉時代まで遡れる文筆の家柄の方がなり、設立後は新たに増えることはなく、まさに選ばれし民という感じで、その多くは三善氏であったと言います。


おおよそ奉行人は60名ほどおられたそうですが、その中で将軍が採決(御前御沙汰)する案件(評定)を取り扱う御前沙汰衆(恩賞方衆とも)と、そうではない御前未沙汰衆に分かれていました。そして御前沙汰衆は15人前後。

彼らは将軍は勿論のこと、管領や有力な守護職、公家や寺社の高名な僧侶などと直接やりとりをし、更に時代が降るにつれて、特定の相手と密接な繋がりができていきました。

またその御前沙汰衆の中でも、ほんの数人が発給書(奉行人奉書)を出す御前奉行になっていました。彼らはエリート中のエリートで、その密接な繋がりのある部署に応じて、別奉行と呼ばれる役を果たすようになっていきます。


その中にエリート中のエリートに、飯尾一族は入っていました。

更に別奉行としては、飯尾氏は「公人奉行」という、人事権を持った奉行人筆頭の役職にしばしば就任し、その上永享3年(1434)再開された、勘合貿易(日明貿易)に於いて「唐船奉行」の上首(トップ)に任じられ、『武家名目抄』に「唐船奉行」は「飯尾氏に限りてうけたまわりしとみえて他姓の人のつかさどりし事所見なし」と書かれているように、飯尾氏の各家が唐船奉行の奉行人上首部を独占していたようです。


この貿易は朝貢貿易とも言われていますが、多大な利益をもたらしましたので、幕府だけではなく、有力な守護職や大きな寺社はこぞって船を仕立て、また唐から人を招きました。

その調整や接待をしたのが、唐船奉行の飯尾氏ですから、彼らの権力は相当なものがあったと思われます。


しかし政治の中核にいるというのは、なかなか浮き沈みもあり、長禄3年(1459)には飯尾為数が将軍義政の怒りを買って失脚し、弟の之種が登用されます。

しかしその之種は、寛正6年(1466)には「肥前守」を叙位され、翌年には単なる奉行人の身でありながら将軍の「御成」を受けます。

将軍の御成には、迎える側は現代に直せば億単位のお金がかかりますから、飯尾氏の権勢の程がわかりますね。


この肥前守家と、祖となった大和守家(官途は備中守も名乗る)、そして加賀守家を合わせ、飯尾家主流三家と呼ばれます。

それからそれらの支流の下総守、美濃守、そして近江守とあります。


 飯尾近江守家は、大和守家の支流になります。

飯尾家嫡流大和守家の飯尾元行が出奔すると、従兄弟にあたる飯尾近江守貞運が唐船奉行のトップを受け継いだことが記録されています。

大和守嫡流は元行で断絶し、ここから近江守家が代わりの主流三家に入り、息子の堯連が大和守を継いでいます。


関係性としては、飯尾大和守貞連の息子が、先に挙げた『伺事記録』を記した飯尾大和守元連と飯尾近江守任連になり、任連の息子が近江守貞運になります。

任連は文明14年(1482)2月25日に48歳で病(中風)で頓死したと『長與宿調記』(大宮長興著)に書かれています。

任連の父親の貞連に、近江守の官途の使用は見られず、『細川家書礼抄』(上限康正元年(1455))で、21歳前後の任連が「近江守」を使っていることから、元服後任連に賜った官途であるのでしょう。彼は朽木文書に頻繁に名前が上がっており、近江での活動が見受けられます。


一時的にせよ、『飯尾近江守』を正式に名乗ったのは、飯尾氏の中でこの任連と貞運の二人だけになるのではないかと思われます。


 さて、では斯波氏と飯尾氏の関係について見ていきたいと思います。


将軍近くに侍る奉行人の上層部の方々は、時代が下るにつれ、有力な守護職の家臣として名前が見えるようになります。

飯尾氏では、元吉良氏家臣で今川氏に転仕した飯尾連龍が有名でしょう。


足利別家とも言われる斯波氏にも、当然のことながら飯尾氏の名前を見ることができます。

相国寺鹿苑院内の歴代蔭涼軒主の記した公用日記『蔭涼軒日録』には、有力守護職の伴衆の名前が記録されています。

第一次六角征伐から明応の政変に於いて出陣した斯波武衛義寛に随行した伴衆の方々は、上尾張守護代織田伊勢守家、下尾張守護代織田大和守家の当主とその支流、庶流。

信濃守護代嶋田氏。

加賀、信濃守護代、後に越前大野代官二ノ宮氏(義寛の叔父の下御屋形斯波義孝の伴衆であった可能性あり)

そして山本氏、飯尾氏と続きます。

山本氏は山本右京進広顕と言われる方で、義寛の尾張下向に随行し、尾張妙興寺文書や清須法嫡相論の折にも、奉行として名前が残っている近臣です。

飯尾氏は、飯尾彦右衛門と言われる方で、残念ながら実名はわかっていません。

その他、義寛が尾張に下向した後の正月に賀使を務める姿が残され、また細川政元から義寛方の取次として文書が発給されていることから、義寛の下向後も在京していた斯波武衛家の重要な近習であると思われます。


ちなみに細川京兆家にも『飯尾彦左衛門』という近習が存在して、段銭奉行を務めています。


 つまり斯波氏でも、有能な三善氏の血をひき、幕府の奉行衆として上層部にいる飯尾一族のどなたかを転仕させて、娘や養女を娶せるというのは考えられます。

そういう意味で連枝、一族だったということだったのかもしれません。


斯波武衛家に出仕した飯尾氏が、こののちにどうなったのかは分からないのですが、武衛家の吏僚として長く在京し、13代斯波武衛義達の時代を迎えたあたりで、家の断絶の危機があり、織田大和守家の定宗を養子として迎えたと考えられます。


斯波氏に出仕した飯尾氏と、「飯尾近江守」の関係はわかりませんが、面白いことに、飯尾近江守の息子で、『大和守』家を継いだ堯連は天文年初期に『弾正忠』を名乗っています。

そこからの連想で、斯波義達が飯尾氏に入れた定宗に『飯尾近江守』と名乗らせたのかも知れません。


また飯尾近江守を名乗らせた、定宗とその嫡男尚清の2人が、近江多賀大社の神職として多賀大社の記録に残っているのも非常に面白いところです。

そういうのもありの、近江守かも知れませんね。


次回は、飯尾近江守定宗を見ていきます。


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