飯尾近江守定宗②-1

飯尾近江守定宗

不詳〜永禄3年5月19日(1560年6月12日、桶狭間)


 初代下尾張守護代織田敏定の三男敏宗は、守護代になった兄たちではなく斯波氏に仕え、尾張奥田を領したと伝わります。

この敏宗の息子が定宗になるそうです。

定宗の息子が尚清で、彼は享禄元年(1528)に生まれています。


この尚清を元に、ざっくりとになりますが、彼らの年代を確認しましょう。


敏宗の年代をまず見ていきます。

敏宗の父親の敏定が享徳元年(1452)〜明応4年(1495)ですから、少なくとも明応5年には生まれているでしょう。

彼は天文13年(1544)に安祥城の戦いに出陣しています。

となると明応5年に生まれたとしたら、この年数えで51歳。文明18年(1486)よりも前になると通常の兵役が終わり、追加の兵役で出陣したとしても文明13年(1481)が限界です。

そうなると婚姻遠慮の歳になってしまいます。(天文14年に再婚したと伝わる。後述)

再婚などの話が真実であれば、文明18年前後から明応5年あたりが彼の出生時期になるでしょう。


主君である斯波氏は、斯波義敏(大野斯波氏)が文明17年(1485)に義寛に家督を譲っていますから、斯波義寛、更に息子の義達に仕えていることになります。

敏宗の敏は斯波氏の偏諱ではなく、父親からの通字扱いだったのかもしれませんね。


時代は応仁の乱から明応の政変が起こり、将軍家が権威を失い、幕府が瓦解を始める時代です。


京にいた本家本元?の飯尾近江守家も、近江守任連が永享7年(1435)生ですから、斯波義寛や大和守敏定たちとは顔を合わせていたでしょうが、敏宗とはどうでしょうか。

その息子の近江守貞運の奉行人在任期間は、応仁の乱が一段落した文明17年(1485)から明応5年(1496)、永正5年(1508)から享禄2年(1529)になります。

こちらとは、顔を合わせたことがあるかもしれませんね。


貞運が明応5年で一旦任を解かれているのは、政元による明応の政変の影響で、この間の彼の動向として、明応8年(1499)「摂津国中島江口関代官飯尾貞運が、関所を江口から幣島に移した」というものがあり、どうやら中央から外されていたようです。

摂津は政元の領地ですし、江口あたりは彼の若衆薬師寺元一が守護代ですから、監視下に入っていたのかもしれませんね。


 敏宗の息子の飯尾定宗は、尚清の年齢を考えると、信秀(永正8年(1511)生)より少し歳上という感じでしょうか。

主君である斯波氏は義達(文明18年(1486)頃〜永禄12年(1569)頃)になります。


また丁度飯尾近江守家の堯連が大和守家を継ぐ時期にもなり、実は「飯尾近江守」というのは、斯波氏家臣の飯尾氏ではなく、本家本元の飯尾氏と関係があったのかもしれません。

これについては後述致します。


定宗の息子の尚清は、柴田勝家や佐久間信盛(大永8年/享禄元年(1528)生)、森可成(大永3年(1523))、滝川一益(大永5年(1525))と同年代という感じです。



 尾張の状況を見ていきましょう。

 文明15年(1483)、後の守護職斯波義寛が、父親の代理として尾張に下向し、2年後に12代武衛に就きました。


そして美濃で船田合戦が起き、明応4年(1495)7月、手合いに出陣した下尾張守護代である父、敏定とその長兄寛定が亡くなり、次兄寛村が守護代に就任し、文亀3年(1503)頃、寛定の嫡男達定が跡目を取りました。


 さてこの頃の敏宗です。

通常家督を継ぐ嫡男以外の息子達は、連枝として殿(当主)になる嫡男を支えます。

しかし敏宗は兄の家臣ではなく、斯波氏に出仕しているのは、元伊勢守家の家臣だった織田大和守家が、伊勢守家に手切を入れて斯波氏に出仕した折の証人だったのでしょうか。

年齢を考えると、次兄が最初の証人で、父と長兄が相次いで亡くなり、次兄が跡目をとった折に交代で出仕したのかもしれませんね。


 かたや斯波氏は義寛が隠居して、嫡男の義達が跡目を継ぎました。

義達の尾張守護職は永正8年より12年8月(1511〜1515)で、今川氏に大敗して3歳の嫡男義統に禅譲します。しかし義達は幕府の役をするなど、以前に比べると比較にはなりませんが、争う大名家の仲介役をしたりしており、室町殿の別家としての政治的な影響力を完全に失ったわけではなく、また義統が天文23年(1554)に、大和守家の謀反で亡くなった後も、孫の義銀を補佐していた姿が残されています。


 話は戻り、主君が義寛から義達へと変わり、敏宗の甥になる達定が大和守となりました。

ところが義達と達定の相性が悪く、結局達定は永正10年(1513)謀反を起こして自刃に追い込まれます。

そして達定の弟の達勝が、大和守に任じられます。

しかし、その実権は達勝にはなく、重臣坂井大膳が握っていました。


 実家が裏切らない保証として、主家に出仕する証人の近習たちにとって、これはとんでもない事態です。

彼らは取次と同じ立場で、実家と主家の間を取りもち、主君に実家のアピールをする役割を持っています。

ですから敏宗は、実家と主家が険悪になっていくと、非常に立場が悪くなります。

そして仲が宜しくないどころか、謀反を起こしたとなると、実家は断絶、証人の敏宗は首を刎ねられても仕方がありません。


さて彼の立場はどうなったでしょうか?

『信長公記』を見てみると、斯波氏家臣織田敏宗は、斯波義統が大和守家に殺害され、弾正忠家に身を寄せる前の天文13年(1544)の三河安祥城攻めに、信秀方として出陣しています。


つまり斯波義達は大和守家の謀反を受けて敏宗を、達勝を大和守家当主にした折に設立した三奉行の一家織田弾正忠信貞に出したのでしょう。

斯波氏自体も権威が落ちており、伊勢守家も血統が絶え存続の危機に瀕しており、そのような中、もう一方の守護代大和守家は潰すのは混乱の元と考えて、敏宗家の断絶で手を打ったとも考えられます。


どの時点でかは定かではありませんが、敏宗の長男定宗は「飯尾氏」に養子に出ていますし、次男の永政(永継)は早世し、その息子も織田敏宗家を継いでおらず、家は断絶しています。


足を止めて、みていきましょう。

定宗の弟の永政の息子は、弘治3年(1557)に生まれています。

その息子が数えで2歳の時に、永政が亡くなってしまいます。するとその子は永政の妻の父である藤懸善右衛門に引き取られ、藤懸三蔵永勝を名乗っています。

ちなみに永政の残りの子供たちは、何故か織田長益の子供たちが誤って転記されていることがありますので要注意です。

永政は側室を入れるほどの身代では無かったでしょうし、嫡男が満で1歳前後では、上に娘がいても、下に子供が生まれている可能性は低いと思われます。


普通子供は家に付きますし、祖父である敏宗が生きていたにも関わらず、母方が引き取っていることからしても、永政もまた、藤懸氏に婿入りしたとも考えられます。


この藤懸氏というのは、あまり聞かない名前ですが、頼朝の文書に「尾張国葉栗」の「藤懸荘」に対して長講堂領荘園の課役が注進されているものがあります。藤懸氏はこちらの出身の方かもしれません。

忠臣で寵臣の葉栗郡蓮台荘の森可成のご近所です。

那古野時代には、森可成と共に既に出仕していたのでしょうか。近くには祝氏がいたかもしれない穴太部神社もありますね。


場所から考えると、もし織田弾正忠家が伊勢守家の元家臣なら、その時代に出仕しており、敏宗が弾正忠家に転仕して、永政との縁組が決まったのかもしれません。


或いは藤懸氏は伊勢守家の家臣で、永政は信時の小姓として犬山へ向かい、そこで藤懸氏との縁組があり、その後藤懸氏と共に那古野へ戻ってきたのかもしれません。


永政の息子、永勝が、小小姓(見習い)として信長公に出仕したと伝わりますので、岩倉落城がちょうど永禄元年(拙作「仮装盆踊④弁慶、前野但馬守、伊東夫兵衛」参照)、この戦で見事な討死した可能性が高いでしょう。


まぁとりあえず、こうして初代下尾張守護代敏定の三男の家は、一代でなくなってしまいました。


藤懸永勝はその後、市姫が浅井家に輿入れした折には随行し、小谷落城と共に織田家に戻ったとされています。

市姫の輿入れは永禄10年、または11年(1568)で、永勝は11、2歳のことでした。

永勝は一際気の利く優秀な質で、奥務めに最適と判断されたのでしょう。

また祖父の藤懸氏や父親の永政の忠誠心も、高く評価されていたと考えられます。


更には信長公の息子の秀勝が、秀吉の養子になった折にも傅役として随行しています。天正13年前後の秀吉の陣立書にも、秀勝の御側衆として、藤懸三蔵の名を見ることが出来ます。

この藤懸家は、大変信用のできる方だったのでしょう。彼はのちに家康に出仕して、明治を迎えています。


……盆踊りにはこちらの方々の方が向いていたのではないかという気もいたします。

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