飯尾近江守定宗②−2

 年代が前後しますが、ここで敏宗、定宗、尚清の正室についてみていきます。


定宗の父親の敏宗は、三河安祥城攻めの翌年、京極氏常観の娘を娶っています。


常観がどなたかは分かりませんが、京極というからには、かの侍所の長官、四職(室町幕府の宿老級の守護職。赤松氏、一色氏、京極氏、山名氏)の家柄です。ま、応仁の乱で家格はとんでもなくだだ下がりなんですけども。

しかし天文14年という頃に、大名家とはまだ言い難い弾正家で、それが采配できるとは、信秀、大したものです。


定宗の正室は、室町幕府管領の細川京兆家の当主細川晴元の娘。こちらもなかなかすごいですね。


定宗の嫡男は、享禄元年(1528)生の尚清。

定宗の娘の一人が、柴田勝家(大永2年〜享禄3年(1522〜1530)生)の正室に入ったとされています。それから天文9年(1540)に、次男の彦三郎重宗が生まれています。

少し歳が離れていますね。

重宗は信忠に出仕しましたが、本能寺の変の折には随行しておらず、主君の討死を受けて出家しています。


嫡男尚清には、信秀が最晩年乱造した娘の一人が嫁いでいます。



定宗は弘治2年(1556)守山城攻めに、信長公方より息子の尚清(讃岐守)とともに出陣している姿が、『信長公記』に遺されています。

飯尾氏は元は斯波氏家臣ですので、父親とは別に、斯波義統が殺害された後に、信長公のもとへ親子ともども入ったのでしょうか?


尚清の嫡男は、本能寺で信忠と共に二条城で討死する近習の敏成。この敏成の正室は亡き異母兄秀俊の忘形見で、池田恒興の養女七条姫になります。

この信秀の娘を頂き、秀俊の娘で乳兄弟の養女を貰っていることで、織田流飯尾氏は、この当時重臣の立場に立っていることがわかります。


 ところでよく尚清の母と書かれている細川氏娘は、養女ではなく、晴元の実の娘であるとされています。

細川晴元は永正11年(1514)生、飯尾定宗の嫡男(正室腹)尚清は、享禄元年(1528)生。尚清と祖父になる晴元の年齢差は14年です。

晴元に子供が出来始めるのは、早くとも永正20年(1523)以降で、その姫が子供を産み始めるのは、天文年間(1532〜)になります。

ということは彼女は定宗の継室になり、更に尚清は彼女の子供ではありません。次男の重宗は彼女の息子かもしれませんね。

もしそうであれば細川氏娘という権力者の娘が産んだ息子ではなく、前正室の産んだ息子が跡を取っているのは、定宗の養子入りとは、尾張にいる飯尾氏娘との婚姻だった可能性もあります。


また信秀が亡くなった天文21年(1552)3月頃、尚清は22歳。武家の嫡男としては、既に婚姻していてもおかしくありません。

実際弟の永政の息子は、弘治3年(1557)に生まれていますから、尚清も天文14年(1545)頃には婚姻していたでしょう。


奇遇なことにこの年、祖父である敏宗が京極氏娘を娶っています。

この頃、先述の通り敏宗は若くても51歳。実際のところ、おそらく60前後だったのではないかと思われます。

となると、もはやそろそろ婚姻遠慮の年齢ではないかと思われます。

その上、断絶を目前に控えた家の当主とすれば、本当に嫁取りなんてするものでしょうか?しかも相手は家中の娘ではなく、京極氏娘です。

もしかして尚清の最初の正室が、誤って伝わったのかなぁという気もします。


斯波義統が殺害されたのは、天文23年7月12日(1554年8月10日)ですから、この頃尚清は27。

そして信秀の最晩年に乱造した姫たちは、天文21年(1552)前後に生まれていますので、実際の婚姻は桶狭間の後くらいになります。

ということは、采配は信長公ということで、信秀娘は継室として入ったことになります。

となると、前正室が京極氏娘であってもおかしくはありません。


父親の飯尾定宗は、桶狭間で見事討死していますから、その後継の尚清に妹を娶せ連枝格に押し上げ、更には既に生まれていた敏成に、乳兄弟の養女として亡き兄の娘を娶せ、次代(信忠)の重臣になるように手を打ったと考えられます。


 しかし、何故京極氏娘や細川晴元の娘を、彼らは頂くことになったのでしょうか?

また滋賀県の彦根城の少し東南あたりにある多賀大社(祭主は車戸氏)に伝わる系図によると、飯尾氏の養子となった定宗と尚清の二人が社司を務めておられるのかも不思議な点です。


 多賀大社というのは『古事記』や記紀にも名前の見ることのできる由緒正しい神社で、珍しいところでは八咫烏に関連して、烏に供物を捧げる先喰行事という神事が行なわれています。

戦国当時、多賀大社は伊勢、熊野三山と共に、三社参詣で信仰を集めていました。


何故斯波武衛家の一族の家柄と伝わる、弾正忠家の家臣になった「飯尾氏」に養子に入った定宗、尚清親子が、ここの杜家になっているのでしょうか。


 京極氏娘、細川氏娘との婚姻を絡めて、ここを見ていきましょう。


多賀大社の多賀氏は鎌倉時代、自分の領地を北条氏に寄進をし家を守り、南北朝時代に入ると佐々木道誉につきました。


その後、道誉の子孫京極氏に仕え、出雲守家と豊後守家に分かれます。

応仁の乱からの家督争い「京極騒乱」で、多賀氏も衰退に入り、出雲守家は断絶。豊後守家は【高島】へと移り、後に信長公の寵臣堀久太郎秀政の弟が多賀氏の養子に入っています。

また多賀氏の分家が、応仁の乱の辺りに東美濃へ向かった土田氏になり、多賀氏と信長公は親戚関係になります。


 室町幕府の有力守護職、赤松氏、斯波氏、細川氏、京極氏などは、「伴衆」と呼ばれる近習を従えており、『蔭涼軒日録』の中に斯波氏の伴衆として飯尾氏が書かれていたという話を、前回致しました。


そして京極氏の伴衆は、京極政経の時代に「多賀新左衛門尉、藤堂備前守、今井蔵人」の3名であったことが、同書に書いてあります。

この近江守護代多賀新左衛門尉は実名を高忠といい、京極高清と高延の争いでは、主人であった政経と共に高清に付いていました。

つまり多賀大社の多賀新左衛門は、京極高清と共に行動していたことが分かります。


 大永3年(1523年)頃、応仁の乱からの家督相続争いをし続け、ズルズルと家格を落としていた京極家より、高清とその次男の高吉が、京極家当主となった高延に追い落とされて、尾張に落ちてきます。


なんと言っても、斯波氏は室町幕府に於いて別格の立場にあり、足利尾張守家と呼ばれ、室町中期までは斯波ではなく、足利姓で呼ばれていました。その権威は落ち目といえども、逃げ込むには安心感があったかもしれませんね。


また気になるのが、信秀の父信貞の母が、京極持清娘と言われているところです。

京極持清は応永14年(1407)に生まれ、文明2年8月4日(1470年8月30日)に亡くなっています。

彼は幕府と六角氏の対立を背景に近江守護を任じられ、京極家としては最後の栄光を担った人物です。

丁度応仁の乱が起きる時代で、彼が亡くなることで、上記の家督相続争いの発端である京極争乱が起きています。


信貞の父が嫁取りをする時期は、斯波武衛は在京し、足利別家として威勢を張っている頃です。

やはり弾正忠家は、伊勢守家の代官として尾張にいた大和守家の家臣ではなく、在京して武衛家二番宿老伊勢守家の連枝の重臣「織田弾正」の気がしますね。

足利別家の斯波武衛家の家臣、織田伊勢守家は、甲斐氏と共に将軍御成を受ける直臣扱いの、高い家格を誇る家でしたから、その家の連枝ならば、守護職といえども半国支配と言われている京極家と釣り合わなくないかもしれません。


京極家の記録には残っていないのですが、もし本当に信貞の母が京極持清の娘(養女を含む)なら、持清の嫡男が京極政経、政経の息子が高清ですから、そこを頼ってというのはよく分かります。


多賀氏の分家の娘が弾正忠家の正室(土田御前)になっていますし、織田弾正家とは大変なご縁がありますね。

もしかすれば、信勝の正室高島局は高島へ移住した多賀氏の関係者かもしれませんし、京極氏から斡旋された摂津の和田氏の系統の方なのかもしれません。


京極氏娘と敏宗(或いは尚清の最初の正室)の婚姻、多賀氏の多賀大社と飯尾定宗の縁も、経緯はさて置き、とりあえずここで繋がります。


また細川晴元とも、京極氏の縁で繋がります。


 飯尾定宗の正室の父親細川晴元は、ご存知のように室町幕府三管領家(斯波、細川、畠山の三家の嫡流にのみ任ぜられる)の当主の1人ではあります。


相婿は斯波氏の怨敵元家臣の戦国大名家の朝倉義景、本願寺顕如、勝興寺第9代住職顕栄です。

勝興寺とは本願寺八世蓮如上人が越中に開山した、浄土真宗本願寺派の寺院です。代々蓮如の子孫が住職を務め、越中一向一揆の拠点となりました。武田家、朝倉家とも縁が深い由緒正しい寺ですね。

更に顕如の正室になった養女の如春尼の姉は、甲斐守護大名家武田信玄の正室になった三条の方になります。

流石にそうそうたる顔ぶれですね。


飯尾氏、ちょっと見劣りしそうな気もします。



 12代将軍義晴と細川晴元は、非常に難しい関係にありました。


晴元は義晴を支援しつつも、政権の実権問題で対立しては戦になり、度々義晴は嫡男の後の義輝(菊童丸)を連れて都落ちして近江坂本や朽木に逃れていました。


また将軍と対立を繰り返す細川晴元は、政権の安定が万全とは言えず、両細川の乱で争った高国の息子氏綱を推す勢力もあり、管領の地位にもつけてなかったとも言われています。


天文3年頃(1534)、浅井長政の祖父浅井亮政の仲介で、小谷城で高延と高清たちは和解をしました。

その京極高延は、細川晴元を以前から支援していました。

ここで晴元と、高清を預かっていた尾張がつながります。


晴元は長い間堺や摂津に本拠地を置き、ようよう入洛したのは天文5年(1536)9月のことでした。


入洛までの間に、斯波氏をお味方につけるために婚姻が進められたのかもしれません。

流石に京にも入れない細川晴元の娘と、住む場所を御所とも呼ばれたりする将軍家別家の斯波氏のソレはあり得なく、婿殿は飯尾氏になったのでしょうし、細川晴元は阿波細川家出身ですから、本家の阿波に領地を持つ飯尾氏との間を取りもち、尾張飯尾氏を継いでいた定宗を斯波氏の猶子(相続権のない養子)として、本家本元の飯尾近江守家を継がせて、細川晴元の娘を継室に入れたのかもしれません。


またこの頃、信秀は朝廷に多額の献金をして、織田弾正忠家の名も知られてきています。


天文12年(1543)、細川高国の養子である氏綱が和泉国で挙兵します。これは年内に鎮圧します。

天文14年(1545)になると山城国で高国派の細川元治、元全、国慶が。更に丹波国の内藤国貞らが挙兵します。

これは三好長慶と政長らが鎮圧しました。


この年に京極氏娘と敏宗、或いは尚清の婚姻が行われました。


天文15年(1546)8月、再び氏綱が畠山政国や遊佐長教と共に挙兵をし、摂津国の殆どを奪取しました。9月になると上野国慶が京に攻め上り、晴元は丹波国へ逃亡しました。


そして義輝が数えで11歳となるこの天文15年の12月、近江坂本の日吉大社の祠官樹下成保の邸で元服し、将軍宣下を受けました。

ちなみに、この時の御元服奉行が、飯尾近江守貞運の息子の飯尾弾正忠(大和守)堯連です。


その後高吉は京に向かい、13代将軍足利義輝の側近になります、


そして天文18年(1549)、三好長慶との間に江口合戦が起き、細川晴元は足利義晴、義輝を連れて敗走し、天文19年(1550)足利義晴が死去します。義輝を擁立した晴元は、近畿などを転々としつつ復権を目指していましたが、細川家の政権は終焉を迎えました。


こうして見ると、応仁の乱を契機に、大きく国が動く中、それぞれが生き筋を求めて、努力をしている姿が浮き彫りになってきますね。

その過程で、尾張に生まれた定宗たちが思いがけない縁を結んでいたのかもしれません。

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