疑惑の篠原長重(前田利家義兄)

 前田利家の正室まつ姫の兄、篠原長重は大変興味深い方です。

今回はこちらを見ていきましょう。

いつものように、エンタメとしてお読みくださいね。


篠原弥助長重

享禄2年(1529)〜慶長2年(1597)

篠原氏娘 まつ

天文16年7月9日(1547年7月25日) 〜元和3年7月16日(1617年8月17日)



まず軽く流して見ていきましょう。

尾張篠原氏は勝幡織田氏の譜代の家柄で、まつと長重の父の篠原主計が当主の折には、弓頭をしていたと言われています。

一般に篠原主計は「一計」と表記されますが、当時の文書では「主」の字が使われていますので、ここでは「主計」と書かせていただきます。


 主計の正室はご存じのように、荒子の前田蔵人利昌の正室長齢院の姉妹と言われている、竹野氏娘。前田利家の父とは相婿ということになり、利家たちは母方の従兄弟ということになります。


享禄2年(1529)に嫡男篠原長重が生まれますが、主計は天文18年(1549)に討死し、数えで21になっていた長重が跡を取ります。

それに伴い竹野氏娘は篠原家を出て、尾張守護斯波氏の家臣である高畠直吉に再嫁します。この高畠家は後に前田利家の家臣となり、明治を迎えています。

そしてその折、妹のおまつは前田家に預けられ、四男の利家に気に入られて、後に正室となったというのが定説です。


さて、跡を取った篠原長重ですが、私の狭い知識の範囲になりますが、記録に残る戦歴はありませんし、文書にも名前を見ることはありません。

彼が歴史の表面に現れるのは、利家の家臣になってからです。


利家の家臣となった長重は、利家の命令で「勘六一孝」という人物を養子にします。

勘六一孝は尾張青木氏、あるいは母の再婚先の高畠氏の息子にあたると伝わる方で、永禄4年(1561)生まれています。

彼の正室には、三方ヶ原で亡くなった、利家の実弟佐脇良之の娘(次女)が配されています。


その後、天正8年(1580)、利家が手を付けて妊娠をさせた侍女を、篠原長重が引き取り正室としました。生まれた子供は男女の双子で、女児の方を正室まつ姫の実子、七女(六女とも)千世姫として後に前田家が引き取り、双子の片割れである男児を長重の次男彦四郎長次としました。

双子の事情は噂としては当時から囁かれてはいましたが、明治になるまでは表には出てこなかったことだそうです。


篠原長重は利家のために縁の下の力持ちとして働いていた、控えめで口の堅い人物だったとされています。

というのか、荒子城主から加賀百万石へと躍進した前田家の暗部を知る、奥の執事といった方のようです。


長重はまるで前田家の繁栄に身を潜めるように、静かに慶長2年(1597)亡くなりました。


彼の二人の養子は父である長重を深く敬愛していたらしく、主筋の落し胤の長次に本家を譲った篠原一孝もまた、利家に「若いながら堅口な頑固者」と評され、出羽篠原家を繁栄させています。篠原本家を継いだ長次も「出羽篠原家は兄の家」として目上への扱いを子孫に置文しています。


この長次、千世姫ともに正室おまつにとって、多少なりともわだかまりのある出生だったでしょうが、おまつはこの二人をとても大事にし、篠原長次を引き立てるように村井長次(利家の最初の家臣村井長頼の嫡男、前田家の宿老)にお願いをしている文書が残されています。


 以上が、記録に残る篠原長重の人生です。


ということで、ここから少し掘り下げて見てみましょう。


まず疑問なのが、おまつが前田家に預けられている点です。

家が滅亡したわけでもないのに、子供が父の家を出て、母の姉妹や実家に子供が預けられるというのは、珍しい気がします。

基本的に子供は家に付きますから、例え母が家を出たとしても、家にいる侍女や跡目の息子の嫁によって育てられるのが普通です。


父篠原主計が亡くなった時、長重は21歳で、普通であれば婚姻しています。

通常であれば、彼女がおまつを育てたでしょう。

もしかしたら妊娠中だったとか、育てられない訳がその当時はあったのかもしれません。

と、してもです。

結果としてですが、長重には実子はいないわけです。

長重に万一のことがあれば、篠原家の血流は絶えてしまいます。

となると、とりあえず妹姫というのは、篠原家にとって大変大事な「駒」のはずなのです。

それを安易に前田家に預け、そのまんまというのは、当時的には非常に不可解な行動です。


おまつが篠原家を出ているというのは、篠原家では幼児を養育できる環境になかったということになります。


つまり篠原家には、「女手」がなかった。

そしてそれを当主である篠原主計や主君である織田家が、容認していたということになります。

それは一体どういうことなんですかね?

というのが疑問な訳です。


 更に篠原長重が養子を取ったのは、前田利家の家臣になってからと伝わります。それまでは養子すら取っていません。もう篠原家の存続は、風前の灯火だった訳ですね。本当に武家としてどうなんだという感じです。


そして篠原家なんて断絶しても良いやみたいな態度を取っていながら、長重、一体どういう心境の変化があって、養子をとることになったのでしょうか。


まず前田利家の家臣になったのは、いつ頃か見ていきましょう。


小姓から馬廻(初陣時歩兵)50貫文の頃はちょっと難しいでしょうから、永禄元年(1558)の浮野合戦で150貫文(赤母衣衆筆頭、騎馬)に加増され与力が付けられた折に、縁戚関係にある篠原長重も与力に選ばれたのかもしれません。

その後、利家は信長公の勘気を蒙り出仕停止になったと『信長公記』に書かれています。(事情は書かれていません)

そして、森部合戦で「首取足立」を討ち取った利家は無事に帰参がかない、450貫文の身上で「武将」という立場になり、その後永禄12年(1569)に2450貫文の荒子城の城主になります。


「貫」で収入を表記される場合はその領地からの税収、「石」の方はおおよその領地の全収穫量が示されます。

しかし収穫量は毎年違いますし、税収は領主によって違ったり、その年によって緩和されたり、戦とかがあって多めに徴収されたりとかいう曖昧な部分もあって、非常に適当なんですけれども、とりあえずは1貫文=2石で計算をする場合が多いので、これに当てはめてみましょう。

帰参時には900石ということは、本人は騎馬兵、おおよそ吏僚系の仕事もできる近習が2人か3人、小姓も3〜4人付いて、歩兵や足軽が10人ばかし、その他自宅には家臣の妻女が出仕してくれて侍女になり、下男や下女もいますし、なんなら側室も入れられる(でも無理)くらいの身上です。


そして主君から付けられていた与力を、加増と共に自分の家臣にするというのはあることです。

そこには、与力と本人との間の相性の良さ、信頼関係があります。

まだ主従関係に自由性があった戦国時代では、主君の直臣から陪臣になると一時的に家格は下がりますが、与力先の殿から声がかかることは出世が見込まれる場合も多いでしょうし、「見出された」という満足感もあり、与力先の殿への献身に繋がったでしょう。


そう考えると、荒子城を相続したとしても、前からいる家臣たちもいるわけですし、彼らを放り出すわけにはいかないでしょうから、篠原長重は帰参時に家臣化したのではないかという気がします。

荒子時代には長重は知行700石を受けて、利家とまつの最も身近に伺候していたと伝わります。荒子が約5000石ばかりでその中で、利家自らの新規の家臣としての石高ですから、これは利家が裁量できる範囲では結構な比率だったのではないかなと思います。

やはり村井長頼同様「雌伏時代から支えていた忠臣」で、荒子城主になる前には既に、家臣だったのではないかと思われます。


考えてみれば、浪人時代に支えてくれた熱田の岡部家、森可成、柴田勝家、あるいは羽柴秀吉なんて言っても、彼らも家臣がいて家族がいる訳です。

ところが篠原長重は家臣はいても、家族はいません。

となると、結構経済的な面でも、お世話になっていたんじゃないかという気もしますね。


で、荒子城主となって長重を重臣とするにあたり、「700石もあげるんだから、家臣も増えるし、後のことを考えて養子を取りなさいよ」と話を勧めたという感じなんじゃないかと思われます。

長重としても重臣になる訳ですから、勝手気ままというわけにはいきません。

「又左衛門様の言う通りにします」ってことになったのかもしれませんね。

この時長重は数えで41歳。結構なお歳です。


しかし非常に献身的な上に、口が堅くて小煩くない家臣。

利家にとって、とっても理想的なんじゃないでしょうか。


じゃあなんでそんなに長重は、従兄弟に献身的なんでしょうか。


気になるキーワードとしましては、女っ気のない長重と美丈夫と名高い利家。


勿論、男色関係っていうのもあるのかもしれないんですけども、長重の人生を見ると、男っ気もないわけで。

自分の養子たちに尊敬されてたり、おまつや利家に感謝されていたりして、そういう恋愛系のちょっとドロドロした部分というのはなくて、むしろ潔さが際立っています。


もしかしたら長重は、アセクシャル(他者に対して恋愛、性的欲求を抱けない)だったのではないかと考えられます。

お父さんが亡くなるまでの間に、色々彼らも頑張ったと思うんです。でも嫁取りをしても、小姓を勧めても全く手をつけなかったとしたら?

手をつけた小姓とかいれば、最終的には彼を跡取り養子にするという手もあったんじゃないかと思うんです。

でもその気配もない。


周囲が嫁取れとか養子取れ……まぁハッキリ言えば、寝屋に女性や男性を送り込んだと思いますし、「致せよ」とか説得したとしたと思うんですよ。

でも彼は「無口な頑固者」だったとも伝わりますから、ひたすらムッと黙り込んでしまったんじゃないかと思うんです。そうなると、もうどうにもこうにもならなかったのかもしれないですね。

もう周りの方たちはお手上げで、持て余していたと考えられますし、なんとなく下女や侍女たちには「おかしな人だよ」なんて敬遠されるようになって、若い下男たちも「これじゃあ将来性ないじゃん」と転仕したりして、もう古くからの家臣だけがひっそりと残っていたかもしれません。


まぁわかりませんけどね。


じゃあなんで利家には、そんなに熱を入れてたのか。


利家というのは長重にとって、一種の「推し」だったのではないか?と思うのです。


会えるアイドル前田利家。


長重は出世とかにも興味が持てないし、何となく不毛な人生だったのですが、美少年で伊達者の、鮮やかな色彩をまとった利家を見てハマってしまった。

それで課金したりして応援して、自分だけの「利家情報」をゲットして、それまでつまんなかった分だけ、個人的には楽しい人生を送ってたんじゃないかなと思ったりします。


そしてそういうのは、当時よくわからないことですし、とんでもない「忠臣」みたいな評価になって、なんとなくいい感じで長重は居場所ができてしまった。


 信長公没後の天正12年(1584)佐々成政と前田利家の戦いである末森城合戦の際に、末森城落城の危機を聞き、利家は急ぎ出陣し、56歳になっていた長重は居城金沢城の留守居を任されました。

金沢と能登の分断を目論んでいた佐々成政の作戦を読んだ利家は、金沢城襲撃を心配し、家臣を走らせました。それに対して利家の思考を読んで情報収集を怠らなかった長重が、的確な報告をあげて利家を喜ばせたという逸話が残っています。


なんだか、1人でこっそり嬉しそうに笑ってる長重が浮かんで、微笑ましい気がしませんか?



世が変わっても、生きている人はそんなに変わりません。色んな個性の人がそれぞれ幸せに、そして仲良く暮らしていたと思いたいものです。

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