津島仮装盆踊③祝弥三郎、浅井備中、平手内膳
「津島盆踊」は大変興味深い段です。
現在残っている資料からみると、これに参加したと書かれているメンバーでは、どの時期であれ行うことが不可能でしたね。
一般に太田牛一のミスとされています。
たしかに『信長公記』は色々おかしなところがあるのですが、太田牛一は適当に書いたのではなく、信長公の鎮魂のために、当時の風習を基に言葉を選び、順番を変えたりしながら、慎重に組み上げていると拙作では考えています。(拙作「信長公記とは何か」参照)
不可解な津島盆踊を読み解く上で、参加したメンバーのことを、もう一段調べていきたいと思います。
今回は祝弥三郎、浅井備中、平手内膳を見ていきます。
【
「祝弥三郎、鷺になられ侯。一段似相申し侯なり。」
『信長公記』に於ける初出はこの盆踊で、その後天正元年(1573)信長公を狙撃した、杉谷善住坊の尋問を行なっています。
『織田信長家臣人名辞典』によりますと、同じく天正元年10月下旬に伊達輝宗より贈物を受けていることから、伊達家の取次を担当していたのだろうと書かれています。
その後、天正6年(1579)6月の神吉城攻めには、軍監として派遣され、その10月に他の側近とともに知行を宛てがわれ、本能寺の変以後は信雄に、その後は秀吉に仕えて、文禄2年(1593)には名護屋で狂言を舞っている姿が『太閤記』に遺されているそうです。
大きな戦功を遺したようでもなく、しかし最後まで側近として職務を全うしているところを見ると、吏僚としての仕事能力の高い、信長公と相性の良い方だったのかもしれません。
この踊りのこと、また老年になっているだろう文禄2年に狂言を舞っているということから、そういった関係に秀でたところがある方か、踊りに関係した方面の出身だったのかもしれません。
「祝」というのは、大変珍しい名字ですね。まずこれを探っていきましょう。
藤木文雄氏が古代の氏族を調べておられ、その中に「
加茂氏(鴨)と同族で、
この賀茂神社の「鴨県主宇志」という方が「
そこから時は経って元長元年(824)、祝部(祝)春里は、鴨別雷神社の禰宜に任命されました。
この後、永承3年(1048)8月25日、祝部(祝)元信が神主成真を射殺した廉で処罰されている記事があります。
寿永3年(1184)の源頼朝の下文の賀茂別雷神社の社領、神領の中で、尾張に2つ名前が上がっています。
一つは「尾張国葉栗郡玉井庄」
尾張の葉栗に、寛治4(1090)賀茂別雷神社の御厨(神饌にあてられる魚介類などを貢納する所領)が置かれました。木曽川の流れが現在よりも北にあった為、葉栗は尾張国です。ですから森可成は美濃出身ではなく、尾張出身です。
面白いことに、この尾張賀茂神社は、『延喜式神名帳』によると元の名前を「
ここに祖を祀った穴太氏というのは尾張氏(海部氏)と同じく渡来人で、石組、石垣などの技術を持つ職能集団で、信長公の城の石垣を組んでいます。
近江坂本の近くに「穴太」という町が今も残っています。この地は渡来人が多く住んだ土地であり、記紀に名の残る景行帝、成務帝、仲哀帝の三代が、志賀高穴穂宮を営んだと言われています。仲哀帝は、成務帝の異母兄弟の日本武尊の子にあたり、草薙剣を託された尾張氏の娘のおられた尾張とも浅からぬ縁を感じるところです。
もう一つは、「尾張国愛知郡高畠庄」です。ここは神社の名も跡も既になく、ただ町名に「高畠」の名を残すのみです。(名古屋市中川区高畠)
場所としては、前田利家の荒子庄の隣になります。
この荒子の土地は、平手氏や伊東氏など関東圏から(と言われている)移住者が多い場所です。何か……当時あったのか、現在調べています。
さて祝氏は、こちらのどちらかに派遣されていた神官か神官の息子だったのかもしれません。
となると、幼少期より神に奉納する舞を習っていた可能性もあり、踊りが上手だったというのも頷けます。
また祝弥三郎が鷺の仮装をしたのも、鷺舞神事から来ている可能性があり、「一段似相申し侯なり。」というのは、そういうことかもしれません。
また信長公の家督相続後のゴタゴタまでに知り合っていれば、公が悪霊、怨霊祓いに着ていた明衣(「ゆかたびら」ではなく、神官が穢祓いに着ている浄衣で「あかはとり」「あかるたえ」「めいい」などと読みます。拙作『深読信長公記』参照)は、彼が用意したものの可能性もあります。
残念ながら年齢的なことはさっぱり分かりませんが、彼以外祝姓の人がいないこと、最終的に信長公の側近になっていることを考えると、スカウトされるかどうかして公に出仕した、信長公と同年代か、やや歳下の人であるかと思われます。
また彼の息子にしろ、娘にしろ、婚姻、戦功などの話も記録されていないことから、生涯独身だったか、武家ではなく神職関係へ血流は戻ったのかもしれません。
傍証として本能寺の変以後、尾張を相続した信雄に、そして「名護屋」で狂言を演じていることから、信雄についた後しばらくして、神職の方に足場に戻して尾張に居住していたのではないかと考えられます。
基本的に、彼は個人的に信長公に心酔して出仕した、親しい御側衆の1人であったように思われます。
【浅井備中】
浅井備中とは、熱田大宮司千秋季忠の奥様、浅井たあ姫のお父さんにあたる浅井四郎左衛門と言われています。
元は尾張の尾張氏一族で、戦国当時は千秋家を支えている熱田衆です。
熱田浅井家は、宮大工をしていた中瀬浅井家と、医師をしていた須賀浅井家に分かれていたと言います。
千秋家の系図によるとたあ姫のお父さんの通称は四郎左衛門で、医師だったそうなので、後者がご実家になるのではないかと思われますが、四郎左衛門の通称は須賀家ではなく、宮大工の中瀬家のものであるとする史料(「張州府誌」)もあります。
しかしもし浅井備中=浅井四郎左衛門=医師であれば、大宮司の正室の父親とはいえ、加藤家のように国衆レベルの勢力を持つわけではない浅井備中が、当主の側近くに侍って名前が残っている理由がわかります。
この頃医師というのは、非常に貴重な職種ですので、熱田が織田家に従属した後、召抱えられたと考えられます。もしかすると病気になった信秀を診ていた医師のうちの一人かもしれませんね。
そうすると毒殺や射殺に危険に晒されていた信長公としては、御側衆として親しく侍らせていたでしょう。
年齢的には三男の千秋季忠が公と同じ歳で、その奥様のお父様ですので、信長公の父親である信秀と同年代くらいになるでしょうか。
浅井備中は、千秋季忠の父親である大宮司季光とともに加納口の戦いに出陣し、また弘治2年(1556)の勝幡織田氏の家督争い稲生合戦には信長側として戦い、天正3年(1575)長篠合戦の年ですね、この年に亡くなっています。
この戦で討死されたのか、それとも病気で亡くなったのかは書かれていません。
年齢的に見て、この頃老年でしょうが、医師ならば従軍していてもおかしくはありません。
【平手内膳】
信長公の傅役平手政秀の家系図や伝承は混乱して、はっきりしません。
南朝方だった、世良田氏だった、上野国から尾張へ移ってきた、知多の豪族だった、恒興の池田家とも関係があるなど、さまざまに書かれています。
同時代の記録では、『山科卿日記』の天文2年(1533)飛鳥井卿と山科卿が勝幡城を訪れた場面が有名です。
政秀の見事な拝領屋敷に関する記述があることから、この時期には既に、織田家の重要な家臣として働いていたことが分かります。
更にその『山科卿日記』には、その年の8月に「平手助次郎勝秀が飛鳥井雅綱の弟子になった」と書かれています。また政秀の次男(数7歳)が接待に罷り出たとも書かれています。
『信長公記』では、政秀の男児として「五郎右衛門、監物、甚左衛門」の3人がいたと書かれています。
監物が山科卿たちの接待に出てきた次男ならば、大永7年(1527)生で、政秀は延徳4年(1492)生ですから、数で36歳の時の息子になり、となると末っ子の甚左衛門は更に歳下になります。
彼らは側室の子でしょうか。
平手家では嫡男は通称を五郎左衛門、官途は監物、中務丞が使われているので、長男が五郎左衛門ではなく五郎右衛門を名乗り、次男が監物を名乗っているのが気になります。
更に甚左衛門を名乗ってるのは汎秀で、彼は三方ヶ原で亡くなったとされています。
ところが三方ヶ原の墓碑銘は監物時秀となっています(『信長公記』佐久間信盛への折檻状では「平手を捨て殺し」で名前はない)
三方ヶ原で亡くなったのは、三男ではなく次男の嫡男であるという説もあり、平手三兄弟のうち嫡男は次男の五郎左衛門(監物)久秀で、その息子が五郎左衛門(監物)時秀だとすれば、政秀の三男が甚左衛門汎秀ということになります。
長男五郎右衛門は離縁された元正室の息子、あるいは養子というのがスッキリする気がします。
しかし五郎右衛門=助次郎勝秀=内膳なのか、というと『信長公記』に平手政秀の自刃の理由が、五郎右衛門が馬を献上するのを断ったというのがあり、すんなりと頷けないものがあります。
政秀には養子にした、歳の離れた同腹の弟、政利。それから政利と同じ年に生まれた養子にしていない側室腹の弟、秀定がいるとされています。
そうなると五郎右衛門=政利。
秀定=助次郎勝秀=内膳かもしれません。
天文2年当時、二人は26歳ほどです。
平手家がいつ織田家に出仕したかは定かではありませんが、当時嫡男だった養子の政利は家に置き、
また平手政秀が信長公の傅役になった時、政秀の家臣である秀定が結果として、信長公の近くにいることになり、気に入られたとも考えられます。
深読すれば、この内膳という官位は、饗膳の食事を
食事といえば、那古野での毒殺計画。そして大膳といえば下尾張守護代大和守家を牛耳って破滅に導いた、坂井大膳(=林秀貞)
そう考えると「平手内膳」と太田牛一が名付けた近習が、果たした役割が分かるような気がします。
信長公の御側衆として侍った、譜代の平手政秀の身内の青年がいたのではないか、それが平手政秀の甥の助次郎勝秀=内膳かもしれません。
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