逃亡先は家康公
織田家における家康というのは、どんな立ち位置だったのでしょうか。
ご存知のように、家康は竹千代と呼ばれた六歳の時、天文十六年(1547)から二年間、熱田は東加藤家の羽城にしばし証人として滞在しました。
あるいは、のちに抹香投げつけ事件で、歴史にその名を留める、当時の那古野城城下に建つ織田家菩提寺万松寺だったとも言います。
信長公は数えで十四。元服を済ませ初陣を飾った頃です。
万松寺なら我が居城の内ですから、歩いてもいけますし、熱田の湾を一望する羽城なら馬で30分ほどで着きます。何しろ小姓の加藤弥三郎の実家ですから、気軽にお邪魔できそうな感じです。
竹千代主従は、そこに総勢八十名余で滞在をしていました。扱いは非常によく、信秀の命により竹千代主従を軽視したり、手荒にするものは容赦無く罰せられたそうです。
何しろ家格が大名家から転落して、国衆レベルだった竹千代たちにとって、祖父の代から敵である織田家の厚情には、感ずるものが有ったのではないでしょうか。
一応ここで書いておきますが、この時期、信長公はまだ「うつけ」ではなく、非常に折り目正しく、真面目な嫡男坊をされておられたようです。
小説で、柿を齧ったり、瓢箪から水を飲みながら、茶筅髷の信長公(たまには元服がまだで、吉法師だったりする)が登場しますが、これは確実にありませんので、「創作きたな」と頷いていただければ、非常に嬉しく思います。
また竹千代が一人ぼっちでというところも、証人の身分とはいえ、恐れ多くも武家の嫡男が一人になる事はありません。
御伽小姓が少なくとも七人、馬廻が二人は随行し、更に織田家の世話をする人々もいましたから、常に竹千代の周りには彼らが扈従して、松平家のご嫡男君はトイレですら一人になる事はあり得ません。
さて、織田家に差し出されていた証人は、戦国の世の習いで沢山いて世話をされていたと思われます。
竹千代は単なるその中の一人でしかなかったので、信長公がどれほど本人に興味を持ったかは定かではありません。
しかし、竹千代の祖父の清康は「街道一の弓取り」の二つ名が相応しい、勇猛で尚且つ智謀に優れた武将で、分裂混迷をする松平家を一つに(力尽くで)纏め、東三河の覇者となった優秀な人物でした。そういう意味で信長公たちが興味を持った可能性は、非常に高いと思います。
ここで見ておきたいのは、信長公の周りの家臣たちは、竹千代の家臣たちと交流があったということです。
のちに清須同盟の立役者になる石川与一郎数正も、小姓として滞在をしています。
彼らに対しても、信長公やその命を受けた小姓たちが清康の話を聞きに出向いた可能性がありますね。
さて、信長公に父、信秀がつけた宿老(家老)は、林秀貞、傅役、台所方(経理)をも兼任する平手政秀、それから
この青山余三左衛門は公記では与三左衛門になっていますが、本人の書状は「余」なので、ここの項では余三左衛門と表記します。
青山余三左衛門秀勝は、残念なことに天文十三年(1544)、稲葉山城を攻めた加納口の戦いで討死したと言われています。
この頃、信長公は元服前なので宿老職はおらず、もしかしたら近習として有名だったのかもしれませんね。享年ははっきりしませんが、信秀と似たり寄ったりの年だったという説もあります。
子供は幼名が虎(虎丸、虎千代など)という小助秀昌などがいます。
もう一人の内藤勝介の諱は「泰正」と伝わりますが、正式な文書にはなく、定かではありません。
内藤勝介は、その地位に関わらず、恐ろしく存在感のない家臣です。では、本当に影の薄い方だったのかというと左にあらず。
山口教継が今川方に寝返った赤塚の戦い(天文21年、1552)では先手衆(先鋒、先陣)として出陣し、また桶狭間、その直後の6月2日の西美濃安八郡侵攻などにも参戦し、足利義昭への迎えの使者として派遣されています。浅井氏の小谷攻めにも顔を出していますが、ふっと気がつくとその後名前を見いだすことができないので、この辺りで亡くなられたのでしょうか。
子供は三人おり、嫡男は小三郎、次男が主計、娘は祖父江長定に嫁いで、その息子の嫁は森三左衛門可成の妹です。
さて、時は永禄六年(1563)のことです。
下尾張三奉行、弾正忠、藤左衛門、因幡守家のうち、織田因幡守家の家臣、桜木隼人助という武将がおりました。
そして古渡の松原と言う場所がありました。
古渡城は既に廃城となって15年近い歳月が経っていますが、この古渡ではなく、もう少し北側の、信秀公の時代には、海部郡方面に渡る渡し舟が出ていた入江を、信長公が埋めて松を植え、千本松原と呼ばれていた辺りのことのようです。
そこで桜木さんと、先の宿老のご嫡男小助と小三郎連合軍がぶつかり、小競り合いが発生しました。
どうも小助と小三郎は、若衆念者のご関係で、そこによいではないか、よいではないかと桜木氏が割って入り、なにやら良からぬことを致されて、俺の若衆になにをするということで、かねてより揉めており、この日連合軍88名が、桜木氏30名を襲撃し、遂に青山小助氏の家臣が、若の恨みぃ!と弓で見事ブッスリ射殺してしまいました。この時の死者42名といいますから、かなりの死闘が繰り広げられたことでしょう。
いやだ怖い。
こんな不祥事を起こしては、信長公の怒りを買うことは避けられません。
二人は、というのか、この二人とその主従は馬を東に向けて、三河は岡崎城、家康の懐に逃げ込んでしまいました。
和田裕弘氏はこの不祥事が原因で、内藤勝介は、宿老としての活躍の場が少なくなったのではないかとしています。
また、これで宿老として上から物を申せる者がいなくなり、権力連立型の当時として稀有なことに、信長公はワンマン的に権力を掌握することが可能になったと書かれています。
そして時は更に経ち、これは定かな年は伝わっていませんが、永禄12年(1569)を過ぎた辺りのことです。
あの永禄3年の暁降ち、信長公の背中を追いかけて熱田へひた走った五人の小姓のうち、既に討死をしていた岩室氏を除いたメンバー、加藤弥三郎、佐脇藤八郎、長谷川橋介、山口飛騨守が不祥事を起こし、信長公の怒りをかってトンズラ致し、三河は岡崎城へ逃げ込みました。
このトンズラした理由は定かではありません。
加藤弥三郎の実家加藤家に残る「加藤家史」では「重臣、坂井道盛を斬って」と書かれてはいますが、これは「永禄6年(1563)」とされています。
しかし、永禄12年に伊勢、北畠氏と争った大河内城の戦いでは、
またこの「重臣坂井道盛」に該当する人物はおらず、かなり探すと信長公が酒席で「たはぶれて通盛と呼ぶ」という文章がほかの文書にあり、さらには息子が坂井下総守成利であったことから、赤川三郎右衛門尉景広ではないかとされています。
しかし、なにやら手が混み過ぎていて、ここに「察して!」「ね!」みたいな意図がありそうです。例えば、上記の二人の逐電の年であることが気になるポイントです。
しかし、どうして家康なのか。
実は、一応この同盟者のところへ行くというのは、信長公に恭順の姿勢を見せる一つの方法でした。
前例というのが、この方です。
前田利家は桶狭間(1560)の前年、浮野の戦い(3月)以降、十阿弥を斬って出仕停止になりました。この時既に「槍の又左」の二つ名を欲しいままにしていた利家です。二つ名を持っているのは、本当に一握りのスーパースター級の武者だけです。望めば、他所の大名が喜んで雇い入れてくれたでしょう。
ただ、他所に出仕すれば帰参は叶いません。
しかし、体育系で信長公こそが自分の主人と認めていた利家ですが、まだ13歳の幼妻に産まれたばかりの娘、そして小姓の村井少年がいます。
無職の利家には、彼らを養う責任と義務がありました。
ここで佐々成政たちが必死で支援したのは、何とか帰参できるようにというのもありますが、敵に回られたのでは困るという事情もあったと思います。
成政の実家の比良城の城下に身を寄せ、加藤家を始め同僚や上司たちからの支援を受けながら、二年間を凌いで、陣借りしつつ永禄4年(1561)5月、斎藤義龍の死の知らせを聞いて出陣した森部の戦いで、「首取り足立」の首を狩って復帰を果たしました。
この逸話を、上記の方々が知っていたのは間違いがないことです。
もしかしたら、利家を囲んで歓迎パーティーが開かれたかもしれません。その場で色々苦労話を聞いたことでしょう。そこから、家臣団に話が広まっていったことと推測できます。
しかし、当時利家は何と言っても小身で、彼らは大身の身の上です。妻子と小姓の四人暮らしとは格段に随行人数が多いものです。
例えば、四人の小姓が逐電しましたと言っても、馬を走らせれば、口取りの小者が居るわけで……彼らに付随している小姓の小姓に近習にと、例えば突発的に逃げたとしても、四六時中周りを家臣たちが固めておられるわけで。
私たちが考えているような身軽で出歩いている、遠山の金さんは、戦国期にはいないわけです。
城下町の町屋というのは、江戸時代のそれとは違い、大名がお仕着せで建てている、一区画、中央に共同の井戸のある空間を配した、一定の広さの長屋です。
そうなると、数十名も城下の町屋に身を潜めるというのは、相当難しいことになり、どちらかといえば、佐々成政の家老の家にとか、前田利家の重臣の家にとかいう話になれば、「匿ったな」と信長公から、厳しいご指摘を受けても仕方がないわけで。
いくら信長公の領地が拡大中とはいえ、なかなか身を潜める場所もないということになります。
ということで、他家へ逐電と相成ったわけです。
しかしながら、三河へ行く道の方へは、信秀の時代から同盟者だった水野氏がいるわけで。
長くなりましたので、ここで一気にはしょりますと、同年代で顔見知りの家康の方が、親しみと信頼感があり、信長公の信頼と評価が高く、連枝のような気持ちがあったのではと考察します。
昨今、話が長いですね。
小姓逐電の謎は深まる一方で、本腰を入れて読み解きたいものでございます。
ついでに、63年当時、まだ織田3奉行が存続していたというのが、よくわからなくて。
因幡守家は早くに断絶し、家系図が止まっているのですが、これもまた、なぞです。
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