小姓出奔の謎について

伊東長久のお兄さん、伊東武兵衛

長谷川橋介、山口飛騨守、加藤弥三郎、それから佐脇良之の逃亡の理由について、もう一枚、不思議なカードが手元にあることに気がつきました。


それは、伊東清蔵長久のお兄さん、伊東夫兵衛(武兵衛)についてです。


伊東清蔵と武兵衛兄弟は、元は北条氏の領地、相模に住んでいましたが、いつの頃か父親の伊東若狭守たちと一緒に、尾張前田に引っ越してきたそうです。

そして兄弟二人は、信長公に召し出され、馬廻、もしくは小姓として活躍をします。


兄の武兵衛は天文期に行われた信長公主催の津島は道家邸での仮装盆踊り大会で、信長公の連枝である飯尾宗定(信長公の父信秀公の従兄弟とされる)と武蔵坊弁慶の仮装をして楽しく踊っています。


更に母衣衆が制定された時には、清蔵は小姓、あるいは小姓上がりの多い赤母衣衆、武兵衛は馬廻衆からの抜擢が多い黒母衣衆に選ばれました。


 さて、ここからが問題の部分です。


ところが武兵衛は「坂井迫盛」という人物を斬殺して織田家を出奔し、こともあろうか今川家に逃げ落ち、義元の息子の氏真に仕えたと言います。

そして時は、永禄12年(1569)1月21日。

掛川城を襲った徳川家康の軍と、今川氏真の軍は天王山でぶつかります。

槍大将(槍奉行の下で一隊を率いる将・当時の呼び方で槍頭)として出陣した伊東武兵衛は、徳川家臣、椋原次右衛門に討ち取られました。


 ということで、疑問が盛りだくさんです。


さて、前回までのことを振り返ります。

小姓加藤弥三郎の実家の家史「加藤家史」に、永禄6年(1563)加藤をはじめ長谷川、山口、佐脇といった小姓たちが、公の古くからの重臣、「坂井通盛さかいみちもり」を斬って家康の元へ出奔し、元亀3年(1573)1月の三方ヶ原の戦いで全員討死したとあります。

この「坂井通盛」は該当者がおらず、「赤川景弘」ではないかとされています。


しかし加藤弥三郎小姓たちは、永禄13年(1570)伊勢志摩侵攻に従軍している記録が残されています。


そうなると永禄6年(1563)に出奔した後、すぐに帰ってきて小姓に返り咲いた後、永禄13年にまた出奔したことになります。


これがあり得るとしたら、なかなか衝撃的なことですから、様々な記録に残っていそうです。


『信長公記』は信長公の死後まとめたものですが、何度も手が入り、『熱田加藤家史』は、代々加藤家に伝わっていたものを、大正時代に編纂しまとめたものです。


彼らが三方ヶ原で亡くなったのは事実でしょうが、幾ら何でも弥三郎たちの出奔した年を間違えるだろうかというと、大変微妙な話です。


と言うことで、何かを示唆するために、わざわざ年を違えたのではないかと考えられると前回書きました。


すると永禄6年(1563)には小姓たちの出奔がありましたね。


下尾張三奉行、織田因幡守家の家臣、桜木隼人助という武将がおり、古渡の松原で、男色の関係にあった信長公の宿老の嫡男たち、青山小助と内藤小三郎連合軍がぶつかり、小助の家臣が桜木氏を射殺するという事件が起き、青山と内藤は家康の元へ出奔しました。


しかしそもそも因幡守家は、もう少し早い時期に、絶えていたはずでは……


 そして、武兵衛が斬ったのは「坂井迫盛」。

読みは「みちもり」ではないかと思われます。


そしてこちらも「赤川景弘」ではないかという注釈がついています。


例えば、信長公の弟信勝は騙し討ちの様な形で殺されましたが、信勝を斬った人というのは名前を伏せられ、「青貝」という仮名の人物にされています。


同じように、「坂井通盛」という名前の「古参の重臣」は、学者さんが探しても該当する方がおらず、「赤川景弘」ではないかとされています。


しかしこの赤川氏が亡くなったのは、永禄13年(1570)〜元亀3年(1573)ごろですから、少なくとも武兵衛が斬ったのは赤川氏ではありません。



なんだろう、この三つ巴感……



 では少し整理をし、まず今回は武兵衛のことを考察をしてみましょう。


長久のところと重複します。


伊東ファミリーが引っ越してきた尾張前田というのは、尾張前田氏の本拠地とされる場所です。


尾張前田氏は、利家の荒子前田氏と海東の前田城を本拠とする前田氏の二流で、前田城の前田氏が伊東ファミリーが引っ越してきた土地の領主です。


前田城の前田氏は譜代の家臣で、なかなかの大身でした。

前田与十郎種利の嫡男である種定の正室には、織田信貞の末弟であり、信長公の後見である織田玄蕃亮秀敏の娘を迎えており、娘は那古野に移住した後に家臣となった佐久間一族の信盛に嫁いでいます。


那古野城を吉法師に譲るに当たって、家臣団を整えた折、筆頭宿老の林秀貞の与力としてつけられました。


ところが信長公の家督相続後、袂を分かって林派として行動しています。


のちに林が城代を務めた那古野に、下之一色城を築いてそちらに入りました。

林が復帰すると、共に信長公の元へ戻りましたが、直臣ではなくなったようで、後には前田利家の系統の家臣化しています。



 伊東兄弟の相模伊東氏というのは、非常に有名な家系です。

あの曽我兄弟に討たれる工藤祐経が先祖におられます。

この嫡流は日向の方へ行ってしまいますが、相模に残った弟が伊東姓を名乗って、伊東家は平氏、源頼朝、足利尊氏に従いつつ乱世を乗り越えていきます。

斯波氏と今川家の争い、北条早雲と今川家の争いでは今川方につき、最後に享栄、享徳の乱の山内上杉と扇谷上杉の戦いで、山内上杉について敗れ、敵方の支援をしていた北条早雲に属し、相模の伊東を取り戻し、その後北条氏の被官として功名を立てていきます。


この相模伊東氏の傍流に、伊東長久ファミリーが当たると思われます。


 さて、伊東ファミリーがいつ頃、尾張に来たか考えてみます。

前田領に何かしらの縁で来た伊東家の皆様ですが、そこから主家である弾正忠家の御曹司信長公にスカウトされていますので、まだ前田氏と信長公の関係がよかった頃の話かと考えられます。


そうなると、林が敵対する天文19年(1550)頃か天文21年(1552)までに前田領にやってきて、信長公に見出され、出仕したということになります。


津島の盆踊りは天文年間であると明記されており、太田牛一の操作、記憶違いが無ければ、後の記述からすでに居城を清須に移した後の話になります。

ところが、信長公の清須入城は天文24年(1555)で、この年の10月には「弘治」に改元されています。ということは津島の盆踊りはこの年の8月の話ということになります。


母衣衆の制定時期ははっきりしていませんが、永禄2年(1559)に出仕停止、永禄4年5月中旬に帰参する前田利家の名前が赤母衣衆の筆頭にあること、永禄4年6月に討死する岩室長門守の名前が載っていることから、永禄2年以前のものではないかと考えられます。


となると少なくとも永禄2年までは、武兵衛は信長公の近臣であり、お気に入りの家臣の一人だったことは間違いありません。


そうなると武兵衛が今川に転仕するとしたら、流石に義元の討たれた今川家に移ろうとするチャレンジャーは少ないと思われますので、桶狭間の直前、永禄3年(1560)5月の初めの頃までになるのではないでしょうか。



 街道一の弓取りと名高い義元率いる今川軍と、尾張一国をようよう治めたばかりの信長公では、動員できる兵の人数も違い、知多侵攻、尾張侵攻と畳み掛けられれば、母衣衆として取り立てられている兄弟は、その地位ゆえに二人とも討死する確率が高くなります。


となると考えられるのは、当時よくある兄弟で分かれて、家名を残すという考え方です。


今川と織田は、永禄元年から2年前後に手切れを行うまで、しばしの間、和平を結んでいます。


和平を結んだ家では、取次が立てられて、交流がなされます。

指南は今川家と何かしらの縁を持った宿老、連枝ですが、指南の下には実務を担当する部下が付きます。

その部下が元は今川家と関わりのあった伊東家の武兵衛だったと考えられないでしょうか。


そうすれば、織田の切り崩しを画策をしていた今川家の調略を受け、移ったと考えられます。


戦さに破れて大将の家が滅びても、生き残れば家臣の家は勝者に吸収されます。

しかし家格のダウンは免れません。

織田に弟が残り、今川に兄が行くことで、伊東家をより有利に残せる可能性があります。


幸い弟の長久は、信長公に気に入られていましたから、兄の出奔で小姓を外されたとしても、馬廻で生き残れると踏んでいたのかもしれません。

また信長公の寵愛深い長久の為に、記録を残された方は、長久の兄は「赤川氏」を斬って出奔したことにしたのかもしれませんね。


武兵衛は、信長公と共に踊ったあの仮装盆踊り大会を、駿河の地で懐かしく思い出すことがあったでしょうか。


とても切ない気持ちがしますね。




















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