抹香、なんで投げんねん
さて、信長公は何故、大好きな父親の葬儀、法要で抹香を投げたのかについてです。
「信長御焼香に御出で 其の時の信長公の御仕立 長つかの大刀 わきざしを三五なわにてまかせられ 髪はちゃせんに巻き立て 袴もめし候はて 仏前に御出てありて 抹香をくはつと御つかみ候て 仏前に投げ懸け 御帰り
御舎弟勘十郎は折目高なる肩衣 袴めし候て あるべき如きの御沙汰なり
三郎信長公を 例のうつけよと
其の中に筑紫の客僧一人 あれこそ国は持つ人よと 申したる由なり」
これを現代語に訳してみましょう。
「信長公が焼香にお出かけなされた。その時の信長公のお支度は、長大な古風な大太刀と、もう一振りの刀をみご縄で巻かれ、髪は茶筅にされて、長袴も履かれず、仏前にお出ましになり、抹香をクァッとお掴みになられ、仏前に投げかけ お帰りになられた。
弟であられる勘十郎(信勝)は 格式の高い肩衣、長袴をお履きになっていて、まるで作法通りのようなご用意だった。
三郎信長公を『あの馬鹿者よ』と様々に噂をした。
その中に福岡の客僧が一人、『あれこそ一国の主人である人だ』とおっしゃられたそうだ」
ここでの注目点は、「あるべき如きの御沙汰なり」、現代語訳で「まるで作法通りのようなご準備だった」という部分です。
素直に「あるべき御沙汰なり」じゃダメなんですか?
なんで「如き」?
まず、ここはシーンは信秀の葬儀だとされています。
しかし、この文の前にある部分を普通に訳しますと、信秀の追善供養の話になります。
「当寺の東堂桃厳と名付けて 銭施行をひかされ 国中の僧衆集まりて
織田弾正忠家菩提寺、萬松寺の住職で、信秀の叔父にあたる大雲禅師が萬松寺の東堂を、信秀の戒名にちなんで「桃厳寺」と名付けて、僧侶に銭を布施する銭施供養を執り行いました。そこに国中の僧侶が沢山来て、非常に盛大な追福になったようです。
よく「信秀の葬儀には300人の僧侶が来た」と書かれていますが、これはこの後の「
これを訳しますと。
「その頃、大雲禅師の下で修行をしていた門下の修行僧(会下僧)が、関東上下(伊勢、美濃、尾張、越前とそれよりも東の地域)に沢山おられた。僧衆は300人ほどおられた。」
になります。
大雲禅師の会下僧と、それ以外の僧侶300人がいたということです。
しかし「折節」なので、法要のためにそれだけの人が集まったという話ではなく、「その頃」萬松寺には会下僧とそれ以外の客僧が300人常駐していて、その人達も法要に参加したという話にも……読めます。
当時の文章というのは、非常に目的的で現在の書き方とは違うので、時系列や主語が混乱しがちです。
「信長公記」は信長公の一代記であり、抹香投げシーンのタイトルは「信秀の病死について」(備後守病死のこと)です。
つまり信秀が病死することで信長公の身に起こったことを、4つ(法要、信勝の家臣を整えたこと、平手政秀の自刃に至る原因、政秀の死)まとめてあり、このシーンでは「信秀の法要関係で信長公に関わり、起こったこと」が主題になっています。
つまり『信長公記』というのは、当時起きたことを日記的に時間系列で記録したものではなく、牛一の記憶や聞いたことのうち信長公に起きた出来事を天道的「因果の法則」に基づいて、関連性を持ってまとめたものです。
ですからよく『信長公記』は「時系列が間違ってる」「記憶違いをしている」と言われています。たしかに実際、他の史料とは、メンバーが違うとかもあるんですが、それ以外で現代的な感覚で見ると違うだけの箇所もあるのではないかと思います。
これは『信長公記』に限らず、当時の文書を読むのでも、注意が必要な点じゃないかと、素人ながら思います。
さて、当時は死の穢れというのは、恐れられていました。その中でも、特に「心残りを残した死」「悲惨な死」というのは、大変な災いを引き起こすと考えられていました。平将門、菅原道真などが良い例ですね。
信秀の死の有様は、一代を築いた名将として非常に気の毒なものがありました。成り上がる過程で恨まれたことがあったでしょう。
そういうものを含めて念入りに法要を行い、これからの弾正忠家に災いが降りかからないように、大雲禅師が功徳のある法要を執り行った、ということが、最初のところに書かれています。
その銭施法要から「信長御焼香に御出で」(信長公が焼香にお出かけになられたこと)の間に、信長公は林、平手といった家老衆を連れて参列し、信勝が柴田勝家、佐久間次右衛門以下家臣を伴ってきたことが書かれています。
さてその後行を変えて「信長御焼香に御出で」と書かれていますが、ここから時と場が変わっている可能性があります。
「信長御焼香に御出で」から、しばらく読み進めると「仏前に御出で」と、わざわざ抹香投げに至るシーンが別にあります。
この短く切り詰めた文章の中で、わざわざ繰り返すのも不可解だと思いませんか。
そうなると最初の「御焼香に御出で」は、別の法要に行かれた時という意味でとったほうが自然な気がします。
ではどこに、何の御焼香に行かれたのでしょうか。
ここで問題の、最初の「あるべき如きの御沙汰なり」(まるで作法通りのようなご手配だった)に触れていきます。
「あるべき如きの御沙汰なり」
それはあたかもそのようなご用意だったであり、「そのもの」ではないということです。
つまりここの部分の現代語訳でありがちな、「信勝の召物は、格式に則った素晴らしいものだった」「威儀を正したものだった」ではなく、「格式に則ったかのような」「威儀を正したかのような」ご用意だったになります。
何故「かのようなもの」なのでしょうか?
それは、その法要自体が「あるべきものではなかった」ということではないかという疑問が出てきます。
沙汰というのは、協議、処置、報告、評判、手配、支度、準備という意味で、語源は「淘汰」で、水で洗い流し、米や砂金を取り出すことを言い、事の善悪、理非を判定すること、それに則して処置、指図をすることを含んで意味するようになった言葉です。
ですから「あるべき如きの御沙汰」は、言外に「正しいものではない」「正式なものではない」ことを表しているとも読み取れます。
しかし信秀の「正式なものではない」法要が、あたかも正式なものとして開催されることは可能なのでしょうか。
まず、場所になります。
皆様は、桃厳寺が二つあることをご存知ですか。
一つは那古野城下にある萬松寺、東堂です。
もう一つは、末盛城下に信勝が建立したものです。この寺がいつ建立、開山されたものか定かになってはいません。しかし既にある寺を「桃厳寺」として開山することは可能です。
萬松寺の東堂も後で桃厳寺と名前を改めています。ですからその法要の前に、これは桃厳寺であると開山させ、法要に使用することができます。
更に信秀の居城は末盛城です。その城下に建つ「桃厳寺」で法要を執り行うことは、一般的に考えられることです。
寧ろ、織田弾正忠家のように、次から次へ築城して引っ越す家の方が珍しいので、那古野城にある萬松寺ではなく、信秀の居城の萬松寺で正式な法要が執り行われるというのは、大した違和感はなかったでしょう。
次に取次です。
家と家、人と人は「取次」と呼ばれる役目の人を介在して、やりとりをします。これは同じ家中でもそうです。
信秀が亡くなった当時、信勝の身分は末盛城の城将で、未だ家臣団は整えられていませんでした。
銭施の時の記述も、信長公は「家老衆」ですが、信勝が伴ったのは「家臣」です。
この一連の法要の後、信勝は当主である信長公より末盛城と家臣団『柴田勝家、佐久間次右衛門を始め、お歴々』を譲られています。
ということで、この問題の法要の時に信勝は信秀の家臣団を与力として借りている状況でした。つまり信秀の取次を信長公の承諾を得ず、そのまま使える状態が続いていた可能性があります。この祐筆が信勝派、林派であれば、協力することはやぶさかではなかったでしょう。
当時の取次は上から指示されてなるものではなく、家臣の個人的な繋がりの延長にありました。ですからこれは当主が変わったからといって、交代するものではなかったのです。
向こうからすると弾正忠家の介在する人が、普通に「来てください」と言ってくるわけです。
しかしそれにしても現当主は信長公ですから、そうは言っても、おかしくないかなと思います。
しかし前回見ました通り、当時、織田弾正忠家を牛耳っていたのは、林秀貞です。清須の下尾張守護代織田大和守家が、坂井大膳に牛耳られていたように、当主の力が弱かった場合、その家を筆頭家老が乗っ取るというのは、結構あることでした。
当時の弾正忠家のドロドロした内情は、私たちの想像以上のものがあったのではないかと思われます。
更に名乗りです。
当時は官位を名乗りますが、これには自称も含まれています。信勝の名乗りをこの時自称で「弾正忠信勝」にしていたとしたらどうでしょうか。
この名乗りを正式な文書で使っているのは2年後になりますが、この時に使った可能性はあるかもしれません。
では「織田弾正忠」この名前が書かれている書状を貰った人は、誰が出したと思うでしょうか。
武家の当主の文書は、取次と当主の文書が揃って、初めて正式なものであると認識されました。
反対に、この二つが揃えられれば、如何ともしがたい面があります。
その上この頃信長公が発給した書状も、信勝が発給したそれも、同じ祐筆が書いていたことが確認されています。これは林が弾正忠家の家臣団を牛耳っていた一つの証左になるのかもしれませんね。
これに辟易したのか、信長公は上総介を名乗るようになっています。
これは、弾正忠名義のものは自分のそれではないという意思表明かもしれません。
幸いなのが、林もまた、天道信者で、そこまでの無茶はできず、既成事実を重ねて行くしかなかった点です。
この信勝が施主として行った法要説が、成り立つ場合、宛行状などを見ても、これは信秀の一周忌の出来事であると推測できます。
実はこの一周忌法要説が成立した場合、信長公とその周囲の行動が色々説明がつくようになります。(後項でおいおい説明をします)
しかし、そもそも、正式だ、正式ではないとは、どういうことをいうのでしょうか。
一家の主人の葬儀、法要は、「跡取り」が主催するのが普通でした。
つまり、当主である信長公が施主として開催する法要が、本来、弾正忠家のものとして正式なものになります。
ですから、これは信勝が、当主である兄に対して、
信長公からすると、弾正忠家当主である信長公主催の法要より前に、あたかもこちらが正式なものであるかのように、大々的に開催された場合、本来の正式な法要に、ものすごいケチがつけられたことになりますし、既成事実として、ことが動く可能性もあります。
では、本来の当主である信長公は、当時の常識から推して、どのように行動すべきでしょうか。
それがまず、「長つかの大刀 わきざしを三五なわにてまかせられ」です。
長つかの大刀とは、大太刀か、鎌倉期に作られた、大太刀に長い柄をつけた、長巻という武具の可能性もあります。
これは全長2メートルに及ぶ、長い柄のついた刀のことで、信長公の周りを固める
槍といい、信長公は、長いの大好き!です。
それに普通の刀を差し、これらを「縄」で巻いて登場をしています。
これは、悪しきものの他、故人がとり憑かないようにした、魔除けであると前回説明をさせて頂きました。
信秀や何かに取り憑かれて、刀を抜く可能性があった。
つまり、信勝の執り行った法要が、信秀の怒りに触れるものだという意味かもしれないし、天道的道理に反した行いなので、災いが及ぶものだということかもしれません。
縄を巻いて、魔除けをしなければならないものであるというアピールを、参列者にしたということです。
「髪はちゃせんに巻き立て 袴を履かず」
当時の武家の正装は、直垂あるいは大紋に、侍烏帽子です。
葬儀の場合は、白、鈍色(灰色)の直垂のそれになるようです。
信勝が肩衣姿(裃の原型)なので、ここからも葬儀ではないことがわかります。肩衣は、当時では礼装にあたるそうです。
いい例が思いつきませんが、葬式などで遺族の女性は、和服で参列するのが、常識である地方であると「着物、着てはらへんかったよ」と言ったりしますが、これは裸だったということにはなりませんよね。
そういう感じだと捉えると良いのかなと思います。
帽子もかぶらず、普段着で来て、それから、抹香をクワッと投げつけて、即、帰られます。
この立ったままというのは現在、「うつけだ」と言われていますが、当時の風習では、もし信勝派が勝手に法要を執り行っていたと考えるならありうる話なんです。
というのも死の穢のある部屋で座ると触穢になるので、立ったままというのは反対に客として来た、というより勝手にきたことが、当時であれば強調されている一文になっているのではないかと考えています。
触穢になるとあとで精進潔斎の日々を送らないといけないので、大変厄介なんですね。施主であれば最早座らずにはいけませんし、正式にお呼ばれした客ならこれも如何ともしがたい訳です。
この行動で信長公は、信勝に恥をかかせたことになります。
「三郎信長公を 例のうつけよと
其の中に筑紫の客僧一人 あれこそ国は持つ人よと 申したる由なり」
これをストレートに訳すると「うつけだ」と信長公自身を悪く言っている話になりますね。
ところが、これね、前回と合わせて、その場に自分を置いてみると、違う世界が見えてきます。
「
信勝サイドのネガキャンを信じている人、信勝派から見ると、「あの!うつけが!」とお怒りでしょうが、その怒りの根本になっているのは、うつけの信長公ではなく、せっかく画策した法要を台無しにされたところに怒りがあります。
もし正式な場だと思ってきた人からすると、肩衣姿の信勝を見て、「信長氏、本日は肩衣か」と思ったかもしれませんね。
何しろ当時は、あまりお互いの顔を知りません。
殿の顔をはっきり知っているのは、近臣と殿の小者くらいでしょう。
施主の座に座っていれば、「ああ」と思ったでしょうし、もし見知っている人であっても、2人は同母ですので、大人しく座っている分には、雰囲気が似ていたかもしれません。
ところが、突如長い2メートルの長巻に縄を巻いた普段着の男がやって来て、仏前に進み出て、クワッと抹香を投げつけます。
「え?あの人、なんなの?」
話題騒然、間違いなしです。
必ず浅はかな誰か、もしくは信長公の仕込んだ家臣が「あれこそ信長公でござる」というでしょう。
その囁きは、燎原の火の如く、会場に広がっていくはずです。
「え!あれが例のうつけくん?じゃあ、この肩衣氏は誰?」ということになり、「うっわ!当主が施主じゃないとかないわ〜」となりますし、更には「信秀さんに祟られるかもしれんし、こんな天道的道理に背く法要に参加して、謀反に加担したとか判断されたら、我が身がやばいわ。帰りに神社とお寺によって、お布施して祈願してもらわなあかんわ」となりますし、「弾正忠家、なんなの?信勝、ヤバ。うつけの真相見たり。信長気の毒に一票」という流れができて来ます。
もしかしたら、兄弟、姉妹、親戚、重臣たちには「信長公は、横着を申されて、出てこられません」などと言い訳をしていたかもしれません。
つまり、抹香を投げたのは、「不正を明らかにする為だった」というわけです。
さて、信勝、林から、不仲を天下に知らしめられた信長公は、この法要以降攻めに転じます。
と言っても、信長公が死ぬか、再起不能の怪我、病を得ない限り、天の正義は、なんだかんだと言っても当主である信長公にありますから、天道に則った当主としての振る舞いをキープして、相手のネガキャンを排除しつつ、後は、いかに相手の非を鳴らし、逆転の機会を待つかという感じです。
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