美意識高い系うつけ、独眼竜政宗

 独眼竜政宗といえば、「伊達男おシャレさん」の語源になった、意識高い系の大名です。数々の大胆、且つ、華やかな逸話に彩られた、その婆娑羅ばさらな生涯は、ロックで、現代人の心を惹きつけて止みません。


政宗は、陸奥國守護大名、伊達家当主、輝宗の嫡男として生まれました。


 お父さんの輝宗が、信長公の10歳年下なので、その息子の政宗公は、信長公、秀吉、家康という乱世の英雄たちよりも、一世代下になります。

 

 伊達家は由緒正しい奥州探題家であり、家格としては、戦国三英傑より高く、血筋としては、軍神上杉謙信公よりも貴種になります。

つまり、武田、今川の家格が下がり、北条家が風前の灯となっていた当時、力は無くとも別格である、喜連川家などの関東足利家はさておき、絶滅危惧種になりつつあった、名実共に武門エリートな家柄でした。


彼が家督を相続した時、世の中は、信長公が本能寺に没して二年目、秀吉と家康とが、長久手において覇権を争った年であり、その後、秀吉が天下を平定する流れにありました。


伊達政宗とは、乱世の終わりに誕生した、最後の戦国守護大名らしい、大名といえるでしょう。


 さて、政宗公は、幼い頃から容色も優れ、聡明で、只事ならぬ才覚の片鱗を見せていたといいます。

政宗公が生まれた頃は、信長公が天下統一に邁進する時代であり、世の中は、乱世のクライマックスを迎えていました。このような時代に、優れた嫡男に恵まれた伊達家では、大きな期待を胸に、この鳳凰の雛を、いかに無事に育てるべきか、心を砕いたことでしょう。


ところが


その嫡男、梵天丸氏、政宗公は、5才の頃に、重篤な疱瘡ほうそうを病み、生死の境を彷徨った挙げ句に、片目を失います。



なんという悲劇でしょうか。


その病み上がりの政宗少年の姿に、家臣は皆、息を呑み、思わず目を逸らしてしまう状態だったそうで。

そうなると、政宗少年自身も気にするようになり、人と会うことを拒否し、部屋に籠るようになったと書かれています。


分かります、分かります。

さぞやお辛いこと、だったでしょう。


しかし、疱瘡、別の呼び方では天然痘は、1980年に絶滅宣言が出るまで、頻繁に流行する恐ろしい病の一つでした。

現代の日本に於いては、疱瘡を患った後に残る、痘痕あばたを見る事はありませんが、当時ではさほど珍しいものではなかったはずです。


そんな当時にあっても、人目をひくほど酷いものだったのでしょうか?


痘痕の種類は、オランダ東インド会社の医師、ケンペルが1690年代当時、日本における分類の仕方をメモしたものが、残されています。(「Collectanea Japonica」)

和訳も発行されており、非常に詳しく、的確なので、史料としておススメです。


それを見ると、酷い痘痕は、紅葉のような痣に、タコの吸盤のような痕が残ると書いてあります。


紅い痣ができ、そこに吸盤のような痕……というのは、なかなか衝撃的かもしれません。

ところが、政宗公の伝記を読むと、更に事態は酷いものでした。


曰く……


疱瘡の毒で眼球が損傷され、更には眼球が溶けて、まぶたの外へぶらさがっていた……


何ということでしょう!!


目玉が溶けて、瞼の間から溶け出して、どろりと垂れ下がって来ていた!

これは、なんとも痛ましい……というのか、おどろおどろしい……

そんな姿では、普通の神経では、たまりませんね。


それは、引きこもります、仕方がありません。何しろ、戦国のお洒落さん、伊達男の伊達政宗です。

もう戦国意識高い系です。

きっと現代であれば、ショーウィンドウやら、トイレの鏡で、服装チェックをするタイプでしょう。


 何しろ、政宗公は、元々、聡明な性質の上に、由緒ある守護大名家の嫡男として、伝統的な様々な芸術、文化に触れて、育ちました。

彼の芸術的な才能は、多岐に渡り、その歌を詠む才は、信玄公を越えて戦国一。

料理をすること、スイーツ男子、信長公を越えて戦国一。

絵画を描き、能を嗜み、優れた美的センスを見せつけたダテルネッサンス、美意識高い系です!


政宗の馬印は、勝色と呼ばれる紺色の旗で、そのシンプルさは、派手派手しい馬印、旗印が翻る戦さ場において、反対にクールに目立っていたのではと思わせられます。

そんなセンスの良い少年の顔に、そんな悲劇が……

こりゃあ、いけません。


更にです。あまりの醜さに、母親の義姫は政宗公を拒否し、年子の実弟、竺丸を溺愛したと言われています。


もうね、皆んな、そう。

いつも、そう。

武田信玄も、織田信長公も、三代将軍家光も、いつも嫡男には、お母さんが下の子を可愛がる説が浮上します。

この定番感、半端ない!


しかし、時はまだまだ戦国期、乱世でございます。

大名家の嫡男、しかも、幼い頃から、芸術方面だけではなく、智略などにおいても、ずば抜けた資質に、一同、感服していたというエピソードの持ち主の天才政宗少年です。


気持ちは分かりますが、時代が許しません。


母にまで疎まれる、あまりに醜い、我が姿を哀しみ、人目を避けて、政宗少年が部屋の中に引きこもり、グズグズとしておりますと

「若!大概になさいませ!」

傅役の爺が、踏み込みました。


どこでも爺は強いですね。

この爺は、お爺さんではなくて、政宗少年より十歳年上のお兄さんです。


このお兄さんの爺は、もともと、お父さんの輝宗の小姓で、政宗少年が9歳の時に、傅役に任命されたとありますから、御歳19歳の初々しい爺です。

ヒキニートの嫡男を更生させる役を申しつけられたと言いますから、余程、信頼できる素晴らしい方だったのでしょう。

お名前は、片倉小十郎景綱といい、その業績は、つと有名ですね。

20ほど歳上の異父姉が喜多さんと言って、政宗少年の教育係の乳母で、こちらも、つと有名ですね。


さて、政宗少年、5歳ほどで疱瘡を患って、9歳の時に傅役の爺が付いたということは、少なくとも、4、5年ほど引きこもってたことになります。


幼少期の4、5年は長いですね。政宗少年の心の傷の深さを、窺い知ることができます。また、まさに元服直前であり、嫡男問題で、お父さんと家中の皆様が、憂う気持ちもよくわかります。


さてさて、こうして、引きこもっていたお部屋の方へ、小十郎爺が踏み込みました。


曰く

「男が、そんな外見を、クヨクヨと思い煩うものではございませぬ!

大名の真価は、戦さ場で決まるものにて御座候!」

「爺には、ジロジロと気味悪げに、盗み見される、予の気持ちがわからぬ!」

なまじ美意識が高く、賢いだけに、政宗少年の心はズタズタです。


背を向ける政宗少年に、お兄さん爺はツカツカツカと歩み寄り

「さすれば!」

と、爺は小刀を抜くや否や、政宗少年の垂れた目玉を切り取って、辺り一面、血塗れ事件とか、どえらいエピソードが遺っています。


うえっっ


そんな恐ろしげなことがあれば、そりゃあ、あなた、益々引きこもるだろうよ!って思いますよ。

皆さま、どうですか?


ところがどっこい、でございます。

政宗公のご遺骨の調査をされた、医師の方の報告書によると、政宗公の右目については、眼球は存在し、異常のあった形跡はなく、また骨に損傷もなくこちらも正常で、恐らくは、まぶたの上に疱瘡ができたのではないか。

もし、開くことが出来れば、見ることが可能だっただろうとのことです。

つまり、疱瘡の特徴である豆状の腫れ物が、丁度上下の瞼の境に出来、それが残り、瞼を癒着させた為に、開くことが出来なくなったということですね。


まって、まって、目玉溶けてないんかい?!


そういえば、寡聞にして、政宗公の逸話の中で、痣があったという話を聞いたことがありません。これは、痣まではできなかったのでは?


そりゃ、疱瘡とかね、大変な病ではありますが、なんのこっちゃい?という肩透かし感があるのは私だけでしょうか?


話盛りの助


 ところで、独眼竜政宗公、ご遺骨からの復顔を、ご覧になられた事は御座いますか?

まだと言われる方は、ネットで公開されていますので、是非ともご覧になってください。


面長で鼻筋が通り、凛々しい中にも、教養に溢れた雅さの漂う、美オヤジです。

そりゃ、若い頃はさぞかし……です。


少々、オリラジの中◯氏のような、顔デカ感がありますが、当時のイケメンといえば、顔デカらしいので、まさしくパーフェクト・ヒューマン。

育ちの良いロックなイケメンといえば、DAIG◯氏が思い浮かびますが、何処と無く面立ちも似ているような気が致します。


 ということは、で御座います。


賢い政宗少年、梵天丸氏は美少年で、とても美意識の高かったらしい、という話は先程致しました。そして疱瘡にかかり、目の上に痘痕が出来てしまった……

それがショックで、引きこもってしまったということですね。


これが同じ美少年でも、体育会系男子、前田利家になりますと、前髪が取れた頃の戦で、目の下に矢がブッ刺さって、傷になり、ひょっとしたら、この時、失明していた可能性も指摘されていますが、気にしてたという話はのこっておりません。

その時も、目の下に矢を突き立てたまま、矢を射た信長公の弟、信勝氏の小姓頭の所へ突進して、一番首をあげて、血の滴る首級をそのまま、信長公の馬前に持っていって(戦闘中です)、お褒めに預かり、そのまま戦場に復帰しようとして、皆に押し留められたという逸話が遺っています。

流石、槍の又左。放出アドレナリン、すごいですね。


そんな時代に、4、5年も引きこもってたということで、そりゃあ、これくらいのことがあったんだろうよぉーって感じで、話がデカくなっていったんでしょうか。


さて、荒療治を受けた政宗少年は、お兄さん爺の小十郎氏と馬が合ったようで、この後、メキメキ元気になりました。よかったです。


ところで、この小十郎氏とえらい気が合ったようですが、小十郎氏の嫡男の小十郎重長とも、気が合ったようで、メロメロになっていたそうです。


小十郎Jr氏は片えくぼの、どえらい美少年だったそうで、「片時も離すものかは!」ってな具合で、のめり込む、のめり込む。

何しろ小十郎Jr.、容色は花の如く、気配り上手で、閨上手の上に、戦上手。


戦国小姓コンテストがあれば、本選、二次選考二位通過だったことでしょう。


後に、色んな小姓や馬廻に手を出して、股を突いたり、爪を剥がしたり、言い訳の恋文を出したり忙しい政宗公ですが、生涯の本命は、このJr氏だったらしく、武将として有名になった30過ぎのJr氏に、本城の廊下で話しかけられ、興奮して抱きついてしまったり、吸い付いてしまったりしていた深ィィ話が、遺っています。

こえええ


そののめり込み具合は、戦術にまで、現れます。調略する時には、美少年を送りつけるハニトラ戦術。本人が美少年はちょっと……なら、その周辺の信頼篤い近習に、美少年を。

伊達家には、ハニトラ用の美少年を育成するシステムでも作ってた可能性を指摘したい。

ハッ!それがもしかして、慶長遣欧使節……


あ、さて。

ところで、政宗公6歳の時、臨済宗の僧侶、虎哉宗乙こさいそういつを師に迎えていますが、この方は、中国の隻眼の英雄、独眼竜(李克用)をもじった、黒揃えの伊達政宗軍団をスタイリッシュにプロデュースして、献身的に政宗を支えています。

政宗氏は、人に非常に恵まれていますね。


てっ、あれですよ。

もしかして、実は政宗氏、見えてたのではないか疑惑が浮上しますね。

大大的に、独眼竜黒軍団と売り出して、畏怖感をそそりつつ、見えてないのにすげぇ、神がかり的なイメージ戦略。

これはねー、私、かなり疑っています。

ハニトラ美少年養成システムも疑ってますが、それよりこっちがねー。

政宗氏、太閤殿下の戦に、遅参しての白装束事件とか、なんかこうねー?

やりそうじゃないですか?


片目が見えないというのは、遠近感がなくなります。遠近感が無くなれば、敵と戦うのは厳しいでしょうね。

更には見えない方に意識がいくため、常に死と隣り合わせの戦国期において、かなり、緊張を強いられます。肩凝りとか、身体にも影響を与えそうです。


政宗公は、マッサージが上手な小姓がいたのかも知れません。これも、アサシン美少年教育プログラムの一つ?


じゃなくて、隻眼なのに戦上手な主が率いる、黒ずくめの伊達軍団は、様々な噂をまとい、神がかったカリスマ性を醸し出したのではないでしょうか。


伊達政宗は絵も上手かったと言いました。

それは噂ではなくて、直筆と言われる絵画が残ってます。

その絵画を見ますと、木の枝の重なりに、相当の遠近感があります。見えない遠近感を描けたのは、なぜでしょうか。


絵画のパターンを読んで、描いたのかも知れませんね。わかりませんよね。

でもね、これは正直なところ、どうかと思うんですよ。


独眼竜である。隻眼の英雄である。

としたならば、これは天下に名前が鳴り響くでしょう。虎哉宗乙のプロディース力を感じませんか。

また、それを採用した政宗公は、エンターテーメント性のある、本当にユニークな方だった。

現代に転生していたら、山崎育三郎氏とミュージカルでもしていそうですね。


さて、今回も長くなりました。

ということで、遅れてきた英雄は、企画力に優れた芸術的な天才だった。

人生そのものが、素晴らしいうつけだった伊達政宗氏の話でした。ホンマやで(๑˙❥˙๑)


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