信長公の笑えないうつけ時代
『深読み信長公記』の方で、書かせて頂いた超簡易、別バージョンです。
せっかくの三連休なので、ガッと書いて、即出してみました。
普段、数週間に渡って、チマチマ書いていくタイプなので、グダグダで恥ずかしくて消すかもです。へへ
いやだ、普段と変わりがないじゃん?って、これこそ笑えない。
信長公のうつけ時代は、現代では有名ですが、何故、当時ではこれが取り上げられていないのか……という話です。
瓢箪を腰にぶら下げた、あ〜んなに奇妙奇天烈な、うつけ姿の信長公。
日常が信仰生活な時代の、父親の葬式(と、一般的には言われている)で、抹香を投げちゃう信長公。
なのに、当時、全く話題になっていないのは、おかしくないですか。
葬式には、何千という単位で人が来たはず。
尾張の覇者の弾正忠家のご嫡男様ですよ?
そりゃ、SNSは発達するどころか、皆無ですけども、連雀商人や僧侶という、話題を運ぶ人々もいれば、大名、武将というのは、コミュ力ないとやっていけない商売です。
それとも、そんな噂話は手紙ではしない?
でも、関東から上方へ向かう僧侶が、甲斐の関所で呼び止められ、「坊主、お屋形様にご挨拶申し上げよ」なんて声をかけられ、信玄公の前に引き出され、「何、尾張の者とな?さすれば上総介(信長公)の、知っていること、全て話せ」と迫られ、出家の身なのに、幸若舞まで舞わされたりする、情報貴重時代にですよ?
当時では、かなりの話題になってもおかしくない。
何故なんだ。
実は、信長公記のうつけ時代、これを当時の信長公の置かれた状態、風習と合せて考えると、笑えないものだったからかもしれません。
現代の信長公の有り様を決定した、「信長公記」の「上総介殿形儀の事」の項を読んでみましょう。うつけは2パートに分かれているので、一つにまとめます。
「明衣の袖を外し 半袴 ひうち袋 色々
「町を御通りの時 人目をも
其の比は 世間公道なる折節にて候間 大うつ気とより外に申さず候」
さて、この「明衣」というのが曲者です。
確かに「ゆかたびら」とも読み、ゆかたびらは、現在の浴衣の元になるものです。
ここが「袖を取った浴衣姿の信長公」の元になっています。
明衣は、元は帝がお風呂に入る時に、世話をする人が着ていた白い装束のことを言います。しかし時代が下ると、お風呂に纏わる着物は、前を打ち合わせたものになり、「
ところが、帝を清める仕事をする人が纏う、装束としての明衣自体は、「あかはとり、あけのころも」などと読んで、例えば伊勢神宮を建て替えるなど、特別な時に着る祭事の装束のことを指します。
形は、ザッと大まかに言えば、前合わせの着物ではなく、平安時代の狩衣とか、前合わせの着物の上に羽織っている襟がスクエアなやつです。
信長公記を読むと、漢字の「湯帷子」と平仮名の「ゆかたびら」は同意語として使われています。
しかし、漢字の「明衣」がもう一度出てくるのは、石山合戦の手合い(援軍)に、羽織って出陣されたシーンで、魔除けとしての意味合いが強く、いわゆる単衣の着物をヒラリと羽織って〜という感じではありません。そもそも、何のために、浴衣をかぶって行くのじゃ。お主は義経か。
さて、この装束としての明衣の下には、普通、
つまり、普段着の着物の上に、袖をとった、神事用の装束を羽織っていたということではないのか?と思います。柿を食べるような頃に、ノースリーブでいるのは、小学生男子くらいでしょう。
茶筅髷は珍しくなく、室町期より、元結の色は正装の場合、公家は紫、武家は朱色、庶民は白、また巻く数も決まっていたそうです。
つまり、頭は正装ってことでしょうか。
また萌黄色というのは、古来より「若武者の色」で、「人間五十年、下天のうちをくらぶればぁ〜」の敦盛も、萌黄威の出で立ちでした。
そして
つまり、明衣、燧袋というのは、当時では現実的な力を持つと考えられていた、様々な悪しきものから身を守るためでしょう。
そうなると、肩を抱き合いながら歩くとは、これは射殺防止でしょう。
この項ではありませんが、みんな大好き抹香投げに関しても、刀、二振りを魔除けの注連縄で巻いて持参しています。
何やら、雲行きが……穏やかではない。
その抹香投げのステージは、一般に葬式と言われていますが、おそらくは一周忌法要で、しかも正式なものではなく、信長公に恥をかかす為の酷いものだったと考察しています(詳細は拙作「深読み信長公記」「備後守病死のこと」で)
食べ物系の栗、柿、餅、瓜というのは、当時の感覚ではお菓子です。
お菓子好きな信長公のイメージ通りですね!
でもね、信長公、「暗殺の計画」「殺そうとしていたが」という文字が、「信長公記」には書かれていること、また多くの殿が、家臣たちに暗殺されていることを考えると、那古野城厨房や奥女中に、信勝派の黒い手が忍び寄っていたと思えるのです。
当時の調理人は譜代の武家であり、奥女中は中堅以上の武家の娘です。
そして信長排斥派の首謀者、林秀貞が、那古野城の家臣団を取り纏める、筆頭家老です。
そうなると、安全な水を瓢箪に入れ(瓢箪の記述は、城周りの話では出てきません。のちに道三からお呼ばれして、美濃まで遠征する時に出てきます)、信長派の人たちが用意した、そうした食べ物を食べて、お腹を満たしていたということではないでしょうか。
「
牛一は、この言葉で、上記のうつけの二つの文をつなげています。
「みっともない!」
通りで飲み食いしてる件のことでしょうか。
しかし、立ち食い文化というのは、室町時代には出来ているらしく、京との関わりが深い尾張であれば、さほどのことは無かったのではないか、という感じもします。
もしかして、この言葉は、弾正忠家の当主、あるいは御曹司である信長公ではなく、こうしなければ生きていけなくさせていた、当時の家臣たちに向けているのでしょうか。
太田牛一は、以下の一文でこの「上総介殿行儀の事」を締めくくっています。
「其の比は 世間公道なる折節にて候間 大うつ気とより外に申さず候」
これをそのまま訳しますと
「その頃は、世間の道理の時のことだったので、大馬鹿者とより他、言えないのだ」
う〜ん、意味が分かりにくいですね。
中世では「〜候間」で、前を形式名詞化して、原因、理由を表す接続助詞のような使い方をします。
では、この「世間公道」というのは、「世間の道理」という以外の意味が、あるのかもしれません。
この「世間公道」は、杜牧(或いは許渾)の漢詩の「送隠者」の一文に出てきます。
「無媒逕路草蕭々
自古雲林遠市朝
公道世間惟白髪
貴人頭上不會饒」
「世の中に公平な道理があるとするならば、白髪くらいしかないのだ。
貴人の頭ですら、一度として見逃されたことがない」
若ハゲはどうするのじゃ!!とは思うのですが、それはさておきでございます。
つまり信長公は「隠者」であり、「理不尽な目に遭っている」間のことだったので、事情を知らない人から見れば、大馬鹿者だと他、言いようがないだろうということになります。
大変やな。
しかし、こんな目に遭って、必死にたわけをしているのに……誰も記録してくれてない……
……もしや、筆頭家老に背かれ、同腹の弟に裏切られ、命を脅かされた時代を、必死で潜り抜けた信長公に、同情しない大名、武将は、当時にはいなくて……残しとくのは忍びない?
いや、そうではなく、結構、皆、これくらいのことは日常茶飯事だった?
「アルアルすぎで、書いとくほどの事でもないわ」みたいな?
「オレの方が、もっとたわけしてた」
それとも、余りにもキテレツすぎて、本当の事とは思えなかったからかもしれませんし、実は牛一が盛った話なのかもしれません。
しかし、この時期が、信長公的には、本能寺の変の遠因になったのではないか、と思うと切ない麒麟屋でした。
さて皆様はどう思われますか?
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