備忘録)加藤弥三郎らの出奔理由


 前回、「逃亡先は家康公」を書いていて、これは歴史の表に出せないが、真相をほのめかしていることかもしれないなと思いました。忘れないうちにまとめときます。


まず、重複しますが、理由を書かせていただきます。


信長公の初期の小姓で名前が残っているのは、桶狭間の戦いで夜も明けぬうち清須城を駆け出した公の追いかけた五人の小姓衆です。

岩室長門守、加藤弥三郎、佐脇良之、長谷川橋介、山口飛騨守。このうち岩室氏は、翌年の於久地城攻めで討死しますが、残りの四人はその後も公に付き従い、各地を転戦していきます。

しかし、桶狭間から10年後の伊勢侵攻の後、突如信長公の怒りを買い、徳川家へ落ち延び、三方ヶ原の戦いで全員討死したとされています。


加藤弥三郎の実家の「加藤家史」に、その出奔した年が記されていますが、1563年という明らかに違う年が書かれ、理由は公の古くからの重臣、坂井通盛さかいみちもりを斬ったと書かれています。

通盛氏は常々、小姓たちのことを信長公に讒言しており、特に弥三郎とは仲が悪く、この日ついに小競り合いになったそうです。

さて、この坂井通盛氏ですが、歴史学者さんが探しても、そういう名前の人物はいないそうです。


ただ、該当するのではないかという方はおられます。

「寛永諸家系図伝」の「坂井下総成利」の父親の項(名前の記載はない)に「はじめは赤川三郎右衛門と号す。生國尾張 信長に仕ふ。信長たはふれて通盛とよぶ。是によりて人みな赤川通盛といふ」と書かれています。

そして、赤川姓の方で影広という武将がいまして、昔から織田家に仕えていて、重臣である。

しかも、殺されたとされる時期から名前を見かけない。

故に、通盛はこの人ではないか。

という次第です。


そして彼の息子の成利は、坂井右近政尚と義兄弟の約を交わしたことから、信長公から姓を改めるように言われ、坂井に改めたとあります。


しかし、あくまでもこれは成利が改姓しただけで、赤川景広本人は死ぬまで赤川姓で、坂井通盛とは呼ばれてはいないわけです。

つまりここに何かあると思いませんか。


次にこの「たはふれに通盛と呼ぶ」の通盛とは、どなたのことでしょうか。

平家物語を愛読されていた信長公なので、「平通盛」ではないかと思いました。歴史に詳しい方ならピンと来られたかもしれませんが、私はさほど詳しくはないので、一か八かの気持ちで探してみますと、平清盛の甥に平通盛という方がいました。


では、通盛はどのようなエピソードをお持ちの方だったのでしょうか。


通盛は、平清盛の甥で本名を平公盛といい、越前三位と呼ばれていたようです。

越前は平氏の重要な収入源で、そこの国司に通盛は任命されていました。ところがそれを後白河法皇が取り上げ、通盛を解雇するところから治承三年の政変が起こり、さらに反平氏の蜂起が始まります。

そしてまさに尾張と美濃の境目の墨俣川(長良川)で、源氏を撃破します。

う〜ん、これでしょうか。

それとも木曽義仲を追討軍の大将軍の一人として、勝利を収めたことでしょうか。


赤川氏が殺されたのは、永禄13年(1570)〜元亀3年(1573)ごろです。


もしかして、墨俣を舞台に戦った軽海の戦い、あるいは森部の戦いとも呼ばれるこの戦で(永禄4年 1561)赤川氏の戦歴は……な、無い。

まぁ、残ってないだけで何かすごかったのかもしれませんが、こういうのは「たはふれ」というより「賞賛して」になるような気がします。


また平家物語にはこんな通盛のエピソードが載っていました。

決戦を前にして、通盛は沖合に避難している平氏の船団から妻を呼び寄せて、最後の名残を惜しんで、弟から「女々しい」とたしなめられています。


戯れてならば、こちらの方がふさわしい気がします。


そして加藤家の家史に書かれている年にあった事件といえば、永禄六年(1563)にその信長公の宿老のご子息たちが男色トラブルで、桜木氏と小競り合いを起こして射殺して、家康のもとへ出奔したという事件です。


先ほど、赤川氏の息子が坂井政尚と義兄弟の約を結んだので、信長公が姓を変えるように言ったと書きました。


坂井政尚は永禄期における信長公の重臣で、美濃出身ですが、早い時期から公に仕え、田楽城主に任命されている信長公の信頼も厚い勇将でした。

全体的に森可成と組んで働くことが多く、嫡男久蔵(1555生)に可成の娘を信長公の養女として嫁がせています。

年齢的には、信長公と同じくらいと推測しています。


別に後継に苦労している訳ではありませんし、むしろ男子が一人しかいない赤川氏の息子が、坂井姓になってしまい、ここで養子を取らないとやばい状況に追いやられています。


これはどういうことかと言いますと、お察しのように、政尚と成利がただの男色の関係ではなく、来世まで誓うような深い深い深ぁ〜い関係になったということです。

当時の感覚では、男色というのは非常に一般的で、命を預けるパートナーができる感覚ですから、常に死を意識して生きざるを得なかった侍たちにとって、大事な契りでありました。

そんな環境下で、もう来世まで契りまくってしまうお熱いラブラブカップルの成立に、周りもフューフューで、信長公も「じゃあ、どう?姓も変えとく?」みたいな感じで。

もうノリノリで、二人も「じゃあお言葉に甘えて」って。


そうなると、収まらないのが、成利のパパの赤川氏で、「女々しくて〜、女々しくて〜」と、某エアバンドの往年のヒット曲になったのではないか。


例えば、森可成の娘を信長公の娘ということで嫁がせたとか、他所の子を貰って跡目にするとか、まぁ、あることなので……

しかも、二人ともすでに嫡男はいる訳なので、いいんじゃ無いの?みたいな。


それでも、やはりねぇ。



ということで、何やらここで、あの1563年の宿老の子息と桜木氏のようなトラブルが発生したのでは無いか。

いや、それだけではなく、とんでもない事態が起こったのではないか。


なぜなら普通、坂井成利の息子たちが赤川氏を継ぐと思うんです。しかし、みんな坂井姓のままで、秀吉から徳川時代までも生き延びていくわけですよ。


これは信長公も赤川氏に対して、ご不快に思われたということではないかと。


それはあまり大ぴらに言えることではなかったので、それを示唆するようなことを書いたのでは無いかと思われます。


ちょっと、コロナで愛知県までいけないので、もし津島に行けるかたがおられたら、是非とも「津島十一党家伝記及牛頭天王社記」を見て、教えていただけるとありがたいです。










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