加藤弥三郎ら、小姓たちの出奔への考察(とりあえずの結論)


 永禄6年(1563)、かつて桶狭間の日、信長公の後に続いた5人の小姓のうち、翌年戦死した岩室氏を除く、長谷川、山口、佐脇、加藤の4人は、かねてより不仲だった「坂井通盛」を惨殺し、信長公の怒りを買い、徳川家康の元へ出奔し、3000貫を領し、その後三方ヶ原で討死したと『熱田加藤家史』『信長公記』に伝わります。


 しかし、永禄12年(1569)8月、彼らは他の母衣衆と共に伊勢大河内城攻めに従軍し、「柵限廻番衆」を務めた記録が残っています。


更に逃亡したとされる永禄6年には、那古野城移譲の折の宿老達の息子の逃亡劇があり、更には永禄2年頃には信長公寵愛の伊東兄弟の兄武兵衛が、「坂井迫盛」を斬って今川へ転仕がありました。


更に『加藤家史』に残っているように、烈火の如く信長公が怒り、その怒りをなだめるのに非常に苦労したわりには、佐脇良之の家族が相変わらず譜代として扱われていること(「信長公の小姓、佐脇良之」)、長谷川橋介の家族も非常に大事にされていること(「信長公の小姓、長谷川橋介」)が、疑問な感じです。


 今回は、この小姓達の出奔について考えます。

また上記の謎についてまだ納得のいく答えが出ていないため、やや中途半端なものになります。


一種のエンターテーメントして、皆様がこの辺りを小説として創作をする上で、或いは歴史を推論する上で、ネタを提供できたらと思います。



 天下を取り幕府を開いた徳川家では、精力を傾けて、過去の脚色、改竄に努めました。

これは勝者の原理で致し方ない部分であり、ことこの当時の天道思想では、因果応報でしたから、過去の言動をなかったことにしたり、オーバーに脚色することは常識でもありました。


ですから、もし小姓達の死が、徳川家にとってまずいことなら、必ずや改竄が行われていたと考えられます。


そして武将たちがそれを手伝うことは、信長公の死後を生き抜く上で大事なことだったでしょう。

しかしながらそうなると、信長公の家臣だった過去を持つもの達にとっては、非業の死を遂げた元主君への畏れがありますから、どこかで綻びを作っているはずです。


それが上記のグルグルした謎であると考えました。


当時の怨念に対する考え方は、平安時代と変わりはありません。

江戸時代においても、獄門より所払い、島流しが多かったのは、死の穢を嫌ったからです。更に獄門は無念の死を遂げたものへ、成仏を促す一環でした。


平将門、菅原道真、崇徳天皇。


天下への王手をかけたところで、家臣に裏切られ嫡男諸共殺され、政権を簒奪された信長公の恨みを、いかで被らずに済ますべきか、というのは現実的な問題でした。


秀吉にそれをあからさまに感じさせるものはありませんが、家康の生前では、織田家に対する遠慮は相当なものがありました。

特に秀吉の末期の悲劇というのは、どういった目で見られていたのかというのは、想像に難くありません。


どの辺りまでが当時の常識なのかはわかりませんが、時折、本能寺の変に家康、もしくは徳川家の家臣が一枚噛んでいたのではと思うくらい、遠慮をしています。


例えば小牧長久手の戦いの後、家康が大阪に行かなかったのは、秀吉の家臣ではなく、乳兄弟池田恒興をはじめ、多くの織田家忠臣を殺してしまったからですし、政権を取った後、全く徳川家とは関わりのなかった森家の序列が高かったのも、おそらくは信長公の怨念への畏れだったでしょう。


徳川方の資料に小姓達の死に関する一次的な資料が探せていないのですが、加藤、太田牛一達が豊臣政権下で行なった改竄で、それ以上の積極的なものは望まなかったのかもしれません。(『家忠日記』は、この頃のものは欠損しています)



しかし原因が坂井を斬ったことなど何であれ、記録に残っている通り小姓達が自らの意思で、徳川に移ったとしたら、どうでしょうか。


ご存知のように、当時の権力基盤というのは、ピラミッド型の盤石なものではなく、転仕というのは家臣の権利として認められているものでした。


ですから家康股肱の家臣である石川数正が秀吉の元に移ったように、大きな衝撃はあるものの、江戸期のように「悪」ではありません。

となると家康が申し訳なく思う必要はありませんし、多少の記録の間違いはあっても、このような三つ巴的な謎は残らなかったのではないかと思われます。


 では次に、小姓達の死に関して改竄する必要があった場合というのは、どのようなものだったのでしょうか。


信長公の命令で三方ヶ原へ出向て討ち死をしたなら、平手政秀の息子だって討ち死をしていますし、何か改竄しなければならないほど、後ろ暗いことではないのではないでしょう。


 そう考えると、小姓達の死はあるストーリーが見えてきます。


 まず小姓達が徳川家で3000貫の知行を与えられていたという話です。

この3000貫というのがどれくらいの価値を持つのかというと、丁度桶狭間の折に梁田氏は信長公から3000貫の知行と沓掛城を貰ったとされています。(『太閤記』)

これを現在のお金に換算するとおおよそ3億6000万円で、落ち延びてきた武将の給金にしては高すぎて、小姓の実家の悲しい見栄だと断じている学者さんもおられます。


しかし、もし信長公の家臣であれば、近習の中でもトップクラスである彼らです。荒子城を相続した前田利家が2450貫ですから、特におかしくありません。



ということは、三方ヶ原以前に徳川家に対して与力として付けられ、信長公の命に反して、三方ヶ原に参陣せざるを得なくなったのではないかと考えられます。


それでは、小姓たちが出奔したとされる元亀元年(1570)の、徳川家を見てみましょう。


 織田家が介入しそうな徳川家の事情というのは、元亀元年の嫡男信康が齢12歳の若年にも関わらず、岡崎城主となるというものがあり得そうだと思います


 実は信長公息女五徳と信康の婚姻は、当時の常識と家康の性格的に見ておかしいのです。

詳細は「天下人になれなかった松平三郎信康」に譲りますが、清須同盟の為の婚姻は、本来、信長公の妹を家康の継室に、家康の娘の亀姫を信長公の息子、あるいは恒興の息子に、このあたりが妥当です。

しかし織田家、徳川家の諸事情により、無理に信康を徳川家の嫡男として立て、五徳を嫁がせたような形になっています。


これはいずれ出来る家康の嫡男が成長すれば、信康を廃嫡し、織田家連枝格の武将として引き取って貰うという申し入れを徳川方がしていたのではないかと思わずにいられないほどのインパクトがあります。

織田家に引き取られるのは行き過ぎでも、織田家が責任を持って、別家として立てるくらいの構想はあったのではと思われます。


この無理な婚姻の為に、僅か9歳で元服させ、その後元亀元年に信康が岡崎城主となり、与力として小姓4人衆をつけたのではないかと考えられます。


 この頃の徳川家というのは、まだ治っておらず、家臣のコントロールができていない、ザ・戦国ムード盛り沢山な状況で、転生小説を御書きになられる方には、南蛮趣味以外は案外保守的な信長公よりも、正直オススメです。

のちの幕藩体制のあり方を見ても、マイナス思考が基礎にあり、今川家から独立し、一国の主人になったものの、よほど辛い思いをされたのでは?としみじみと致します。


岡崎城の周りでは、岡崎と浜松の中間地点にある吉田城を居城にした重臣酒井忠次は、独立した部隊として東三河を配下におさめ、信康の後見である石川数正が西三河を担当していました。

酒井も石川も信康の傅役平岩親吉も皆、家康証人時代からの股肱の家臣達で、小姓達とは顔見知りの間柄です。


岡崎、吉田の周辺には今川に直臣として招集されていた松平家などの家があり、松平家忠を始め、今川の血を引く当主も存在し、更には岡崎には今川氏族の築山殿もおられました。


その今川を破った時に信長公のそば近くで戦った小姓達が、今川色の強い岡崎へ与力として付くというのは、戦地で一番の手柄を立てた武将がその土地を恩賞としてもらうというのと同じ原理ではないでしょうか。


彼らは最後まで、最も信長公の身近に侍る小姓の身分だったといいますから、信長公の思考を我が物とし、信長公本人と直に話をすることが出来るという特権を持ち、その威風は徳川家において犯しがたいものがあったはずです。



 さてこの頃、三方ヶ原の攻め手である信玄は、将軍義昭の頼みで、信玄の相婿である本願寺顕如と、武田家と同盟関係にあった信長公との和睦の道を探っていました。

と、同時に信長公に対し、上杉謙信との和平の仲介をお願いし、信長公は信玄のために謙信と文のやり取りを頻繁に行っていました。


信玄の顕如宛の文書から、少なくとも8月13日までは、織田家と事を構えるつもりは無かったのではないかと思われています。


また信長公はよもや信玄が、自分と敵対する意思があるなど微塵も考えていなかったようで、信玄の出陣の2日後に丁寧な文書を信玄に送っています。


何故、信玄が兵を率いて甲府を出陣したのか、未だ分かっていません。

また桶狭間の折の義元の行き先が知多なのか、尾張なのか、上洛なのか定かでないように、信玄がどこへ行こうとしたのかも諸説あり、とにかく10月3日出陣した甲斐の軍勢2万は遠江に侵攻しました。


対する徳川軍も、家康が何故打って出たのか、敗戦の理由はなんなのかなど、はっきりとしていません。


敗戦の理由では、信長公が佐久間信盛をリーダーに差し向けた援軍の少なさ(3000)があげられており、それは信長包囲網せいであったと言われていました。


しかし磯田道史氏が残された文書を精読し研究された結果、通説とは違い、実は佐久間信盛、平手汎秀、水野信元の三将に約2万という兵をつけて、三河へ差し向けていたことが分かっています。

これは徳川8000と合わせて、互角以上の数になります。


まずます敗戦の理由が、微妙になっていきますね。


また織田家は籠城戦を勧めていたにも関わらず、家康の命が降りる前に家臣達が勝手に打って出て、準備が整う前に戦に突入したらしいと言われていますが、これも家康の大将としての大きなミスを隠し、「家康公神格化」する為の方便かもしれません。


 佐久間信盛への譴責状の中の17条に「三方ヶ原合戦で与力は死なせたが、信盛の身内は討死していない」とあります。

更に14条にも「自分が戦うのではなく、与力を戦わせ損害を負わせる」と重ねています。


一般にこれは平手汎秀を指すと言われていますが、平手、水野はそれぞれ軍を率いて、一つの備の大将として戦っており、総大将は徳川家康ですから、佐久間信盛がそこまで信長公に言われる筋合いはない気もします。


ということで、信長公が示唆する与力とは、長谷川ら小姓衆のことかもしれません。


また一方、三方ヶ原の戦いには、この年初陣を飾ったという信康は出ていないようですが、その後見である石川数正は参陣しています。

この「岡崎衆」の与力として、現場でのやり取りで、彼らが予定になく参陣することになったかもしれません。


小姓たちがかつての信長公のように、難所を引き受け、あるいは殿しんがりとなり、浜松城に逃げ込むことも叶わず、織田家の援軍を、或いは岡崎衆を護る為に武田軍を喰い止め、戦場に散ったとすれば。


佐久間への言葉も頷けますし、後の佐久間、水野、信康の悲劇、石川数正の徳川家からの逃亡劇の一端も見えてきます。


公は尾張一国時代の家臣を重用しましたが、特に自分の不遇時代を共に過ごしてきた仲間への愛情と信頼は、非常に深いものがありました。

加藤弥三郎は年齢的に、稲生の戦い、或いは信勝厳粛後の出仕ではないかと思われますが、佐脇、長谷川、山口は、時に親鳥のように公を守り、兄弟のように身を寄せ合い、夢を語り合い過ごした大切な仲間でした。

彼らが殿の側近くに侍る小姓の身分のままだったのも、そういう事情だったのではないでしょうか。


そうした仲間であり忠臣を、僅か9歳で元服し、12歳で城主となる信康の為に与力として出した挙句に、一度に4人共に亡くした信長公は、信康とその経営陣に対し、織田家への忠義、恩義という点で不信感を抱いたとしてもおかしくありません。


つまり家康が次男、あるいは三男に家督を譲る道筋がついた頃、何らかの形で織田家が信康の処遇を考えるという可能性が薄くなったということで、それは徳川家にとって呑み込まなければならないことが、原点である小姓達の討死にはあったのだという考え方です。


そしてそのマイナスを信康、宿老達、そして佐久間や水野は挽回することはできなかった。


その結果、家康は信康と築山御前を殺す選択を取るしか無くなり、そして石川数正は、秀吉の元へ出奔した。


信長公が烈火の如く怒ったのは、小姓の出奔ではなく、彼らを討死させた信康達へではなかったのか。


例えば烈火の如く怒りを向けられていたはずの佐脇家では、当時、良之の遺児源助は次男信雄の御伽小姓に出仕し、正室大局は小谷城から逃れてきた茶々達の乳母を務め、長女は譜代の家臣の娘として、証人として出仕してきた京極家の家臣に嫁いでいます。

長谷川家も異常なほどに大事にされ、特権を享受しています。


「長年上様の手足として働き、信頼厚い彼らがもし三方ヶ原で討ち死することなく、本能寺の折に侍っておれば、上様はあたら命を散らすことが無かったはず」


その負い目が、彼らの記録を改竄に向かわせたという感じを受けるのです。


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