雑記

天下分け目の大地震。家康と秀吉

天正13年11月29日 新暦で1586年1月18日の真夜中、天正大地震が発生しました。


ちょうど4年ほど前に天下人織田信長公が本能寺で横死し、大名たちが覇権を争っていた時期ですね。


その日は大雪の後、晴れた日だったと、様々な記録に残っています。


この少し前、徳川家康の股肱の臣下石川数正が秀吉に寝返るという事態が発生し、徳川家は大揺れに揺れていました。

何しろ証人(人質)時代から苦労をともにしてきた忠臣(のはず)です。

信長公の丹羽長秀、秀吉の加藤清正が裏切る感じでしょうか。


本能寺の変から2年目の長久手の戦いでは辛くも一勝をあげている家康ですが、2年のうちに秀吉は今や10万を越える軍勢を動かせるまでになっています。

家康は娘の嫁ぎ先、北条家に援軍の確約を取り付けましたが、それでもようよう4万強。


秀吉は、11月13日に石川数正を寝返らせ、18日には関ヶ原を抜け美濃、尾張に入る要所にある大垣城に兵糧を入れて戦いの準備を整えていきます。

19日には「徳川家康成敗のこと」を公布し、正月15日に軍勢を出すことを宣言。


対する家康は、味方の裏切りに備えて、当時の各領地(なんと本拠地三河からも)から証人を召し上げ浜松城に入れる準備をし、尾張に進軍するだろう秀吉との戦さ場を、かの桶狭間に想定し、思い出の鳴海城に兵を入れます。


そして28日、岡崎城で秀吉の使者と対面し、京へ上るの上らないのでやり合います。「長久手では秀吉の有力武将を多く殺したから、いたずらに京にはいけない」(武徳大成記)


さて、その翌日の深夜家康は岡崎城で。

秀吉は光秀の元居城、坂本城で被災します。

秀吉は「揺れた!」となると一切合財放り出して、一路大阪城へ馬を走らせました。


その頃、琵琶湖の対岸では恐ろしい被害が出ていました。

かつての居城長浜城は城下もろとも壊滅的な被害を受け、先鋒の予定だった山内一豊の家中は戦さどころでは無くなりました。

また関ヶ原の向こうの先日兵糧を入れた大垣城も出火で燃え尽き、伊勢長島城も天守以外は倒壊。徳川征伐の前線基地は無くなってしまいました。


それに比べれば、家康の被害は微々たるもの。


これに意気消沈した秀吉は、徳川征伐を諦めたのでした。

もし地震が起こらなかったら。

或いは、秀吉が地震の復興を待って、徳川征伐に着手していたら、徳川幕府は成立しなかったかもしれません。


これも、歴史の「もしも」ですね。

















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