永禄初期の秀吉の身分

 浅野氏娘寧々と秀吉との婚姻は、永禄4年(1561)8月とされています。

これが後の天下人太閤秀吉の、公式的な記録の初出です。


この時の結婚に関して、北政所と呼ばれるようになった寧々が、藁と薄縁を敷いて行われた質素なものであったと語り、また当時馬廻の前田利家とは隣同士で、利家正室まつとは垣根越しに世間話をしていたと語っていたとも伝わります。


この逸話は、秀吉が当時貧しかったイメージを構築する一つになっています。


 前田利家は、永禄2年(1559)に主人信長公の居城内で私ごとにて抜刀した為、出仕停止になり、永禄4年(1561)の斉藤戦、森部合戦にて斎藤家重臣である日比野清実の家来、「頸取足立」こと足立六兵衛の首級を挙げ、帰参が許されました。

この時、利家の収入は300貫が加増され、450貫文になったと伝わります。


450貫文が、清須時代の織田家に於いて、具体的にどれくらいの身上だったかは分かりませんが、室町時代の一般的な軍役は百貫一騎と言います。

450貫文の利家は自身以外の騎馬の侍が3人、歩兵を含む従者が20〜30人位になります。


もう少し具体的に見てみましょう。

450貫文は、およそ900から1250石になります。

天正期にはなりますが、同じ家中の『明智光秀家中軍法』では「千石の旗本は、甲五人・馬五疋・指物十本・槍十本・のぼり二本・鉄砲五挺とし、馬乗一人は二人分に数える」と書いてあります。

自らを含む騎馬5人、槍10人、鉄砲5人など、これに口取りなどの従者を含めると合計で最低でも約50人前後になります。


家臣に兜を被る侍がおられるということは、利家の身分は武将という訳で、普段から小姓や馬廻などが利家の吏僚、護衛として出仕し、それから侍の妻と下女、下男が屋敷内で働いていたことになり、そうなると足軽の住む様な長屋ではなく、質素ではありますが、武家造の形式を取った……つまり、流石に大きな堀は無いでしょうが、屋敷の周りには溝や細い堀があり、自らは馬に乗りますから、厩が敷地内にあり、馬に乗る為の中門廊があります。

更に敷地には、侍の家があるということにもなります。この侍も2から4人ほどは馬に乗りますから、彼ら用の厩が置かれています。結構広そうですね。

利家が住まう屋敷は、「藁葺」で屋根を作り、信長公が清須入城にあたり、そこまで手を入れていたならば(丸焼けになりましたしたしね)、最新の書院造形式だったでしょう。


この頃の城郭都市は、基本的に身分により居住区域が決まっています。


ということは、永禄4年に武将で武家造の屋敷の主人である前田利家の隣に住んでいた秀吉は、当然のことながら前田家と同じ身分で、この時既に武将として、侍の家臣を持ち、「殿」と呼ばれる身分であり、以前お話しました正月の召し出しの盃事では、主人より直々に盃と練絹を頂戴できる身分であることがわかります。


 石田三成家臣、山田去暦(知行300石取り)の娘が語り残した「おあむ物語(御庵物語)」を見ると、百姓なのか武士なのかよくわからない生活で、着物も成長期なのに何年も新調できなかったり、食べ物は毎回雑炊だったりと、なんとなく、「極貧の木下家」のイメージなのですが、実は出仕停止になるまでの利家の方がこんな生活で、「信長公の寵愛を受けた小姓」どころか、個人的には、利家は小姓としてしくじって外に出された説を推している理由の一つになっています。


秀吉たちは、倍以上の900から1250石なので、これよりはマシな生活でしょう。


 少しイメージが違いませんか?


しかし大名、そして天下人の正室になり、栄華を極めていた寧々さんからすれば、そりゃあ当時の生活というのは、とんでもない質素さだったでしょうし、元天下人の家臣で、「元主君の息子を殺した」と天道的には厳しい目で見られがちな方の正室という立場では、政治としての親しみやすさや、前田利家を太閤家の腹心として取りこむ為にも、「奥さん同士は、昔っからの仲良し」を周囲に感じさせる逸話を少しばかり盛った可能性もあるでしょう。


 寧々は天文18年(1549)頃に、清須近くの杉原家で生まれ、叔母の嫁ぎ先の津島の浅野長勝の養女になりました。

対しておまつは、天文16年(1547)に篠原家にて生まれ、天文18年頃に津島の近くの荒子城に引き取られています。

実の親から離れて養家で育ち、夫も自らも似た年頃の歳の差夫婦で、2組ともに当時珍しいほぼ恋愛結婚でしたから、仲良くなる共通項は少なからずあったでしょうね。


 ということで、永禄4年当時、秀吉の身分は既に400から500貫文の収入のある武将であったことが分かりました。


 秀吉の現代に残る最初の文書は、永禄8年(1565)尾張松倉の坪内家への、信長公の安堵状の添状になります。

添状を秀吉が出しているということは、秀吉はこの時既に、織田家内外に於いて確固たる地位を築いているということになります。


大名の書状には、必ず相手の家との間の「取次」が出す、添状と呼ばれる詳細を記した書状がセットになっており、この両方が揃うことで正式なものとして機能しました。

取次とは、文字通り、内外の相手の家と主人である大名との間を取り持つ人物で、重臣の取次「指南」と、その重臣と大名を取り次ぐ近習の「小指南」がおられました。

指南である取次の権限は大きく、また取次ぐ相手方が、取次の家中での立場が良くなるよう好感度アップの使命も持っていましたから、取次本人の権力、政治力というものが問われるものでもありました。

その為、よその大名家との取次をしている場合、相手方から礼金のみならず、給料をもらっている取次もおられましたね。


秀吉は永禄4年からの4年間で、正月の召し出しの盃事では、太刀を献上するような身分に出世していることが分かります。

重臣は、宿老、大人と呼ばれる立場で、御前会議、評定に参加できる武将を指し、戦に於いては一軍を率いるほどの勢力を持っています。



この取次は指南、小指南共々、大名の命令でなるものではなく、基本的に相手方と個人的な繋がりのある人が、相手方から選ばれてなるものでした。

選ぶ方は、相手がこちらと相性が良いことは勿論ですし、大名との関係が良く、家中でも支持をされていることが重要でした。


書状にある坪内勝定、利定は、美濃と尾張の境目辺りにある尾張国羽栗郡松倉の松倉城の城主をされています。


森可成の領地の近所ですね。

この坪内勝定は、前田利家が出仕停止になっていた折、屋敷に匿っていたという伝承があります。


もしかすると前田利家や森可成の紹介で、取次を秀吉に指名したのかもしれませんが、坪内利定の正室は信長公の側室生駒氏娘の姉妹ですから、秀吉の方から近づいた可能性もあるかもしれませんね。



 しかしながら、永禄4年から8年に至るまでの、秀吉の遺された戦歴はありません。

逸話として語られる秀吉が歴任したという「厩番(厩奉行の下の配下で主人の馬の世話を行う)」、「作事奉行(土塀の修繕)」、「台所賄(経理)」はどれも上級の武将、そして台所奉行はトップクラスの宿老の役目になります。

それぞれで目覚ましい結果を残したのかもしれませんが、大変不思議な気がいたしますし、そもそも永禄4年には、武将として織田家に存在していた彼の前身が大変気になりますね。

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