武家の作法・饗応の献立など

 「献」とは、客をもてなす為の酒と肴の御膳セットを出す回数の単位です。

なお、一献=一膳の場合もありますし、一献=三膳など複数の場合もあります。


酒を勧めてもてなす最低限は、「一献、一膳」で、『中務大輔家久公御上京日記』でも、あちこちで酒を「巡礼との、まずは一献」と勧められ、織田信長公が所有した時期の多聞城で、城代に酒と一緒に肴としてヤマモモを出され、盃を取らずヤマモモを弄んでいる様子が描かれていましたね。


 さて御成などの場合、まず主賓は主殿での三献の後、会所に移り、ここで改めて、酒礼の三献が供されました。

会所での酒礼の初献、二献、三献の一献ごとに、肴の乗った御膳を出します。


その後、三膳、五膳、或いは七の膳の膳部となり、基本的にここの膳部は一度に配膳されます。


膳部は最初の膳を本膳、二番目以降の膳を二の饗の膳(二の膳)、三の饗の膳(三の膳)……と呼び、後にこの膳部のことを「本膳料理」と呼ぶようになります。


客の前に一の膳(本膳)、次に本膳の左に二の膳、次に右に三の膳が置かれます。

四(与)の膳は本膳の上で、本膳と二の膳の間、五の膳はその右側に置かれます。六の膳は四の膳の上、七の膳は斜めにその上と置かれることが多いようです。

こうした場合、六、七は小さめの御膳になり、お菓子などのものが置かれていることが多いようです。


前回見ました、信長公の家康をもてなしたという復元模型は、ここの膳部の部分になりますね。


それを食べ終わりますと、酒と肴の献部となり、ここを酒宴と呼びます。


まとめますと、会所での饗応では最初の酒礼の三献は、盃と肴の膳が三回にわけて配膳され、その後ご飯料理としての膳が一度に、三から七膳、配膳された後、再び盃と肴の膳が何回かに分けて配膳されるという形になります。


 史料には、七五三、五々三、五三二の膳と書かれているものもあります。

これについて、現在、江戸時代のものと混同されていて、注意が必要です。


江戸時代になると、基本的に膳部は三膳までとなりました。

伝統的形式を最も残していた朝鮮通信使の饗応の記録でも、膳部は最大でも五膳までであり、二代将軍家忠の御成でも三つの膳までしかありません。


その江戸時代に於いては、膳に置かれる菜(おかず)の数を表しています。

例えば最も格式の高い七五三の膳では、本膳には七種類、二の膳には三種類、三の膳には五種類の菜が置かれることになります。


ところが江戸時代になるまでは、これは膳の数を表していたそうです。

例えば七五三膳とは、七は饗膳七膳、五は酒宴五献の五膳、三は三献の酒礼の三膳をさしているとされています。

流れとして、饗応、酒宴、酒礼と順番がバラバラに上げられているように私たちには感じられますが、当時は数の多いものから少ないものへと数をあげるという習慣があったせいだそうです。

当初の三献は数が変わりませんから、残りが饗応とその後の酒宴の膳の数になります。

三桁以上の数が書かれている場合は、饗応と酒宴(七五五三三)が繰り返された、酒宴が長かった(七五三三三)などになるほか、式三献、重臣たちへの三献、会所広間での酒礼三献、饗膳七膳、酒宴五献(七五三三三)という説があります。

この辺りの記録は流派により、説が違うそうです。


戦国時代までの数え方は、ある意味特殊で、ネットなどで広く公開されているものでも混同されていますので、ご注意頂ければと思います。


またこの七五三、五五三の膳は、「七五三の御振舞」「五五三の振舞」とも言います。


 では膳部に於ける、膳の上に置かれる料理について、見ていきます。

室町、戦国時代の膳の上に置かれる菜は、かならず汁物と共に出されます。


一汁三菜、一汁五菜、二汁五菜、二汁七菜、三汁五菜、三汁七菜、そして三汁十一菜、或いは三汁十七菜などと一つの汁で出す菜の数の決まりごとがあり、その数はどんどんと増える傾向があり、その上同種同味の料理を出してはいけないとされ、非常にもてなしのハードルが高くなって行っていました。

そのため、食べるにあまり適していない、見せるだけの菜や汁もあったと言います。

それ以外でも、添物、御添物と呼ばれる金などで作られた飾りも置いてあり、無駄に華美であったそうです。


 また膳部は食事としての膳で、献は酒と肴の膳の単位と申し上げました。

しかし宴や茶会では、その膳部を含めてカウントして、「十七献」などと呼ぶという説と、先ほどの七五三の膳などを十七回繰り返すのが「十七献」と呼ぶ説があります。



とりあえず基本の部分は、饗応は酒(盃)と肴の部、飯の部、酒と肴の部という形式であり、本来は酒と肴がセットで「献」という単位、飯はお盆の数で「膳」でカウントされます。


また酒と共に出される肴の乗った御膳自体も、膳とも呼び、主殿や対面所での式三献の膳は、「式の膳」とも呼ばれます。


その献のごとに、相手に贈り物を渡すなど、華美に、複雑になっていっていました。


 大永2年(1522)に行われた、12代将軍足利義晴の御成の献立を見ていきましょう。


●式三献 式の膳(主殿)

①初献(初膳) ひきわたし (盃3、熨斗鮑、クラゲ、梅干がそれぞれ土器の皿、そのほか塩、生姜、箸)

②二献(二の膳) うちみ (鯉の刺身 杉盛り※1に盛り付け、両側にひれを刺したもの、酢、生姜)

③三献(三の膳) わたいり (鯉の内臓を味噌で煎ったものを、活き造りの形に盛った鯉の上に三切のせ、鰭を両側にさす。酢、生姜)


※1杉盛

円錐形に盛り付けること。この頃の饗応は具にもよりますが、おおよそ五寸(約15cm)の高さに盛り付けたと言われています。


式の膳には元々白木の三方が使われていましたが、室町時代に入ると銀濃など凝ったものになっていたそうです。

また婚礼の場合の式の膳では、うちみ、わたいりは鯉ではなく鯛が使用されます。


出陣式、帰陣式などでは初献の膳(鮑、勝栗、昆布)のみ供され、肴にも一箸ずつ手をつけますが、式三献の場合には、これらには手を付けません。


●三献の膳 献の膳

①初献(初膳) 1雑煮 2鳥 3かつを、いりこ、するめ、あわび、のし

②二献(二の膳)1冷や麦 2なまとり(鳥の刺身 「雉子、山鳥など荒巻きにしておいたものを夏とり出し、湯の中に入れ、やがて出してさましてうすく切り、ふくさもりにする」『四条流庖丁書』)3御添物

③三献(三の膳) 1こさし(あわび海鼠なまこなどを小串にさし たもの) 2鯛 3くらげ


会所での三献の初献に「雑煮」が出るのは、伝統的に一番正式なものとなっています。それとセットで出てくるのが、「とり」「とりきそく(亀足)」と「ごしゅ」或いは「かめのこう(亀の甲)」になります。「ごしゅ」は五色の乾物を細かく削り、盛り付けたものを言い、「けずりもの」「そぎもの」と書かれている場合があります。

また雑煮は最初の膳に他の菜と一緒に置かれず、別に独自で「雑煮の膳」があったとされるものもあります。



●膳部

①御湯漬の膳(本膳) 御湯漬を中心とした供御七品

蛸、焼物、このわた、あえまぜ(和物)、香の物、かまぼこ(現在の竹輪に近い)、ふくめ鯛(鯛の干物を炙り、身を外したもの)


②二の膳   五品・御汁二種。

塩引き※2(塩漬けにした魚や鳥の身を塩抜きした後酒で臭みをとり、濃いすまし味噌で煮たもの。茗荷や椎茸を添える)、鮎(塩焼したものか、筏膾にし蓼酢を添える)、にし(にし貝)、唐墨、くるくる(鰤のわたいり)

御汁1鯛、わらび 2※3


※2塩引には魚と鳥がありますが、『四条流包丁書』によると、二の膳では鳥を使うことが決まりごととされているため、ここでは鳥であったでしょう。



③三の膳   三 品・御汁二種。

寿司(あわび(生))、ます、さかな

御汁 1雁あつめ煮(あつめ汁。雁、大根、牛蒡、豆腐などを入れて、味噌、あるいは清汁にしたもの)2※3


④与の膳   三 品・御汁二種。

おちん(おぢん。干魚(特に鮫)辛酢茹で)、くらげ 、烏賊

御汁 1えい 2※3


※3一膳に二種の汁物が最も鄭重な献立の様式で、御成ですので本来ならば汁物二種が供されている筈だそうなのですが、何故か省略されているそうです。

いわゆる御添え物だったのかも知れませんね。


⑤五の膳   三 品・御汁一

はも(はむ)、うちみ(刺身)、海老

御汁 鯉


これにお菓子(果物や和菓子など)が、別の膳(六、七の膳)で供されたようです。


●酒宴

④四献(初膳) のし(あわび)、蛸、うけいり(つみいれ。鯛の身をすり身にして、小梅程度の大きさに丸めたものを湯引きにし、たれ味噌で煮た物。夏は「ウケイリの吸い物」冬場は「雪の吸い物」と呼ぶ)


⑤五献(二の膳)まんぢう、御添物 ひばり(ひばりの足に水引きを結び、「つばめ盛」にした物)


⑥六献(三の膳)塩引、雁、巻きするめ


⑦七献(四の膳)羊羹、御添物 うちみ


⑧八献(五の膳)はむ(鱧)、えい(えいの吸い物の袱紗ふくさ仕立。大根,豆腐、蕗などを添えて )、くるくる


⑨九献(六の膳)いりこ(海鼠なまこを茹でて乾したもの)、ひしほいり(魚や鳥に酒と塩をして、たれ味噌で煮たものに、湯引きした山芋を加えて煮て、柚子を乗せたもの)、あわび(生)。


上記の食べられない金の飾りの御添物の他、模型のような飾りの数々が御膳の上に乗せられていたそうですから、盛りだくさんですね。


また上記は、将軍の「御成」ですので、武家では最上級のものになります。

饗応を受ける身分により、膳、その上に置かれる料理の数は変化します。

基本的に「湯漬」「汁」は数に入れずに、縁起の良い奇数となるように調整されていました。



 室町時代以降、美味な鳥と魚を「三鳥五魚」と定めているそうです。


三鳥は、鶴、雉、雁。

五魚は、鯉、鯛、すずきかれいふか


これ以外では、ひばり、しぎさぎなどが散見され、ひばりなどの小さな鳥は、まるっと丸焼きにして、骨ごとバリバリ食べていたと記録されています。


安土時代になると、この三鳥の内容が変わったのか、『日本教会史』(ロドリゲス)には、「1に鶴、2に白鳥、3に野鴨」と書かれています。


また魚も鯛の格が上がっていきます。


また『四条流庖丁書』には「鯉は山葵酢、鯛は生姜酢、鱸はたで酢など、味付けのベストを規定しています。



 安土時代に入ると、あまりにも華美に、盛大になっていた饗応を信長公が改革し、ロドリゲス(前掲書、1577〜1610年日本滞在)によると、

「1普通の一般的な宴会、2三の膳の宴会、3五の膳の宴会、4七の膳の宴会、5茶会」となったと書かれています。


また贅沢に見せるために置かれていた飾り、食べるに適していない冷えた料理は廃され、温度調節を最適にされた料理が出されるようになりました。


信長公が、天正十年に家康を三日に渡ってもてなした饗応のうち、15日、16日の本膳料理が以下から見ることができます。

「信長の家康饗応膳」

安土城天主信長の館

https://www.zc.ztv.ne.jp/bungei/nobu/zen/index.html



文禄3年(1595)前田利家の屋敷に、天下人豊臣秀吉が御成をした折には、型どおりの主殿での式三献の後、会所に移り酒肴の三献の後、五の膳までの膳部で三汁、二十七菜と引き物、菓子十八品が饗され、酒宴は四献から十三献まであったと書かれています。


豪華な膳は魅力的ですが、長時間に渡る宴会は、私たちにはちょっと厳しい気もいたしますね。


しかし三献、饗応、酒宴の準備をする事は、亭主とその家臣たちにとっては経済的な負担も大きく、また同時に大変気を遣う仕事でした。


明智光秀も信長公の奉行として、徳川家康をもてなすのに、大層気を遣い、さぞや大変だったことでしょう。


こうしたことを、「馳走」と言います。


主君や同盟相手から領地を通過するにあたり、道を整備したり、休憩、食事、宿所、案内を求められると、それに応じることを「路次馳走」と言いました。


元服や婚姻、御成などの儀式の準備に奔走することを「経営馳走」と言い、会話の中では「殿さん、えらい気張った宴、開かはるさかい、昨日は徹夜やったわぁ」というのを「夜仲馳走やった」と言います。


光秀は、家康を迎えるにあたり経営馳走に加えて、秀吉の要請に従い、天下人信長公が備中高松へと向かうにあたり、路次馳走を続けて申しつけられたということになります。

どちらもリーダーシップ、企画力、教養、そして気遣いのできる資質を求められる大変なお役目です。

特に高松行は、敵地に天下人としての威勢を知らしめる下向になりますから、大変なお役目だったことでしょう。

現在、経営馳走に失態を犯して奉行を外され、と言われていますが、果たしてそんな失態を犯した大名を、天下人として重大な路次馳走の奉行に抜擢するでしょうか?


光秀は大変緻密な任せるに足りる、優れた大名だったという気が致します。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る