今川手負注文と天正18年の朱印状に見る秀吉の前身①
単なるエンタメとして、ご拝読いただければと思います。前後2部になります。
天正15年(1587)九州遠征の際、前備を任じられた松下之綱に関して、同じ前備の将に対し、格別の計らいを指示するために秀吉が発給したと言われている朱印状があります。
「松下嘉兵衛の事 先年 御牢人時 御忠節の仁にて候」
これは大変興味深い文章です。
松下氏は、元今川家の家臣飯尾氏の家臣、遠江頭陀寺城の城主で、天文、弘治、永禄初期の間に秀吉が奉公したと言われています。
松下氏は桶狭間からの今川家の衰退に伴い、主君飯尾連龍が謀反した際に、今川軍に頭陀寺城を攻められ落城。飯尾氏は家康に加担しますが、なんだかんだで今川家と和睦します。
ところが結局、永禄8年(1565)12月、今川氏真の謀略により、飯尾氏は殺され、絶家。
之綱は家康の傘下にいたようですが、天正3〜4年(1575〜1576)長浜城主となった秀吉により、召し出され、長篠合戦など、やはり前備として、活躍しているようです。
さてこの書状の「御牢人」というのは、秀吉を指し、「御忠節の仁」は松下嘉兵衛のことであるとされています。
普通、いかに大大名、天下殿であっても、自らに敬語は使わないものですが、秀吉は自らに敬語を使っているそうで、主語を省きがちな当時の文書が更にわかりにくくなっています。
それから「忠節」というのは、主人、主家に対して、変わらず忠実である、忠義の姿勢を崩さないという意味です。
この文書の訳は、普通の大名の文書であれば
「松下嘉兵衛のことですが、この方は先年、主家を無くされた折、忠義の心に溢れた節度のある行動された方です。」
という訳になるでしょう。
秀吉の書状を読もうとすると、御忠節のところが、秀吉=御牢人であっても、松下之綱は秀吉の主君だった人なので、おかしなことになります。
これを書いた当時の主君秀吉に、之綱が主君だった時も、忠義を立てていたということなのでしょうか?
いくらなんでも相当微妙なのですが、そこは「秀吉は、貧しい身分の出で、ろくに学問所にも通わず、学がないから」とされています。
でも取次の副状は、しっかりしてるんですけども、なんででしょうね。
2023年9月17日、信長公に仕えてる時代の秀吉の書状が発見されましたから、また拝見したいものですね。
この辺り、分析してみたいところです。
ということで、相当おかしい文章ではあるのですが
「秀吉が以前、主人の家を無くして心細くあった時、忠義の心を持って接してくれた人です。」
とかなんとかになるというわけです。
一応、秀吉が「松下之綱は頼りになる良い武将だ」と書きたい場合、通常であればどのような文書になるかというと……
天下人となった秀吉は、話し言葉のような簡単な言い回しを好んだと言いますから、その辺を加味すると
「松下嘉兵衛の事 先年 牢人時 なさけふかき仁にて候」
くらいになるんじゃないかと思います。
それから面白いポイントが、もう一点あります。
御牢人の「牢人」というのは、江戸中期以降の「浪人」同様、自らの家や主家を失った状態の「侍」を指します。
侍じゃない、あるいは侍でも下級に当たる方は、この当時は「
松下家は国衆ですから、紛れなく牢人ですが、秀吉が通説のように、足軽とか小者なら牢人にはなりません。
まぁ、今や天下人で自らに敬語を使う秀吉ですから、身分の方もステップアップしたのかもしれません。「秀吉、御一僕時」ってのも、微妙な気もしますしね。
色々疑問の多いことですが、とりあえず、これにより、秀吉は今川義元の家臣である曳馬城飯尾氏の家来、遠江頭陀寺城、松下家に世話になっていたと言われています
ところで、以前「秀吉の父親」で見ましたように、秀吉の家である「木下」家は、佐々木源氏、あるいは大江氏であるとされていると書きました。
そして継父と言われている竹阿弥は、尾張水野家の出身で、藤原氏であり、秀吉も秀長も藤原氏の澤瀉紋を使用していたと伝わります。
更に秀吉の「藤吉郎」の「藤」は、藤原氏の中でも、藤原秀郷系統の嫡男に付けることの多い名だとお伝えしたと思います。
そうなってくると、あなたも私も藤原太郎みたいな感じで、同姓同名の人も多くなり、八幡太郎(源義家)、鎮西八郎(源為朝)など、太郎とか次郎の上に、出身地や所領などに因んだ文字を置くようになっていきます。
更に鎌倉も末期に至るまでには、今度は官職に因んだ名前も付けられるようになります。衛府の左衛門、右衛門や、国府の次官の助(介)などですね。
後のことになりますが、織田家の弾正忠や、信長公が一時期名乗った上総介も、正式な叙位ではないそうなので、この官途風通称に入ります。
さて勝幡織田氏のように通称の「三郎」とは別に、この官途風の名前を併用する人もみられるようになっていきます。
左衛門や右衛門、介などは、こちらも上にどんな字を置くかということになってきます。
話は戻り、平安中期に生きた藤原秀郷は、八幡太郎と同じように俵藤太と呼ばれました。
田原の藤原太郎秀郷で、俵藤太郎、略して俵藤太ですね。
それに因んで秀郷流の藤原氏では、嫡男の通称には藤の字をおくという慣習が出来たそうです。
丁度、天文辺りからは何度目かの命名の端境期に当たるので、一概にはいえなくなっているのですが、少し足を止めて信長公の周囲の、藤原秀郷流の本姓藤原氏をみていきましょう。
佐脇藤八郎良之の養父は、佐脇藤右衛門。
池田恒興を養った森寺藤左衛門秀勝。
緒川水野氏の信元は、藤七郎、あるいは藤四郎。
秀吉の織田家に於ける書状の初出の宛先、坪内勝定も藤原氏(秀郷流から分岐した流れと伝わる)で、通称の一つは藤七郎であるとされています。
ところがその息子の利定は、藤の字は付きません。
このように天文辺りに生まれた子供から、慣習が徐々に変化しており、必ずしもではないのですが、そういう文化が当時、少し前にはあったということで、藤左衛門というと、ああ、藤原秀郷系の家の人なんだなぁということになりますし、源氏や橘氏などの家の人が藤之介とか付けてると、あれ?ってことになるわけです。
現代に直せば、例えば「山本アネット」ちゃんだったり、「鈴木ジョン」くんだったりが、お母さんやお父さんがフランスやアメリカの方であるなど、ルーツが海外にもあるという場合は、なるほどね?という感じになるとは思いますが、純日本人であれば、違和感を感じる方が、まだまだ多いんじゃないかと思います。
そんな感じですね。
長くなりましたが、これが前置きです。
天文14年(1545)8月16日に、今川義元と北条氏康の間で「狐橋合戦」が起きています。
この時、今川家の遠江国曳馬城主飯尾乗連は善戦し、彼の家臣たちや与力が手傷を負ったようです。
その中に「木下藤次郎矢傷」という手負注文が遺されています。
木下姓で藤次郎です。
山田エリザベスですね。
秀吉は天文6年(1537)辺りの生まれですから、この時、数えで9歳前後です。いくら後の天下人でも、流石に戦さ場に立つことはないでしょう。
ということは、これは父である還俗した竹阿弥じゃないのか?と疑っている次第です。
彼は藤原秀郷流の水野氏の出身だそうですから、木下(婚家)+藤はありうる話ですし、長男の秀吉の名前に藤を付けるのはアリでしょう。
じゃあなんで数年後に秀吉がお邪魔したと言われている、飯尾乗連の配下の戦闘員として、ここにいるんだということです。
天文9年(1540)、織田信秀は「三河守」を叙位され、三河方面に勢力の拡大を始めました。この背後には、勝幡織田家を直臣扱いをし始めている(幕臣大舘氏の書状など)、遠江奪還を目指した斯波氏の意向もあったでしょう。
そして天文11年(1542)より、今川家と織田家の戦の火蓋が切って落とされます。
この頃の戦のやり方というのは、実際に戦になるまで、まず延々と調略戦が行われます。
天文年間の初め辺り、おそらく信秀が義元の弟、今川氏豊を謀略にかけて那古野城を落とした頃、今川家では織田弾正家というのは、武士の面目という点に於いて、斯波対策、そして尾張征服の調略の相手ではなく、滅ぼすか、最低でも臣下に下す相手として、認識していたのではなかったかと思います。
それは同時に、信秀の中でも、東進した場合、遠江奪還、越前奪還を目標として掲げている斯波氏を横に置いても、大大名今川家は、幕府か朝廷に働きかけて、相当な根回しをしない限り、同盟を結ぶには難しい相手であり、遅かれ早かれぶつかる相手という認識でしたでしょう。
実際、織田弾正忠家と今川家は、和平を結んだり、一時的に協力体制を取ることはあっても、同盟を結ぼうとしたことはないようです。
となると、どうしたかです。
桶狭間の項で書いたと思うのですが、桶狭間に至るまでの今川義元と織田弾正忠家の間では、様々な調略合戦の跡が残っています。
例えば水野信元の弟水野信近に、刈谷城を与えるに至るやりとりで、おそらく織田家の取次をしてるのではないかと思われる、後に裏切る山口氏を、また桶狭間の直前の書状では水野信元も義元は自らの家臣の扱いをしています。
また信秀のおかげで刈谷城主となったはずの水野信近は、自らの家臣がうっかり信秀の使者を捉えた時に持っていた書状を、織水同盟の相手を裏切り、今川義元に届けています。
その挙句に信近は、桶狭間の後の停戦時に、駿府に戻る岡部元信に斬殺され、それを信長公は黙認し、今川氏豊は称賛しています。
更に織田大和守家を実際に采配していた筆頭家老坂井大膳、信長公兄秀俊を殺した守山城付家老の角田新吾などは、信長公と敵対して敗戦すると、今川家に逃げ込んでいます。
これはおそらく、今川の調略を受け入れていたのでしょう。
あるいは桶狭間の段で、沓掛城内での今川軍の評定の内容が清須に届けられ、清須に於いての評定では信長公は織田軍の軍略については、明言を避けています。
このように敵の内部に細作を入れるというのは、常套手段でした。
ただ調略を仕掛けて、相手方の有力な家臣を寝返らせるというのは、なかなか大変なことですし、二重スパイということも考えられます。
織田家を裏切り、今川に転仕した山口氏の最期は、信長公が右筆に山口氏の筆跡を真似させ「今川が織田を攻撃する時には、挟み撃ちにする」という偽書を作り、商人に身をやつした森可成に駿府へ届け出させ、二重スパイを疑った義元に斬殺されたというものだという話があります。
この話が本当かどうかは分かりませんが、弟の元重臣とはいえ、一度は裏切った武将が向こうへの証立ての為に、こちらに異心を抱いてないという保証はありません。
じゃあどうするかというと、自分の信頼できる家臣を、相手方に転仕させるという手がありました。
続きます。
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