今川手負注文と天正18年の朱印状に見る秀吉の前身②

①からの続きです。



 当時、主従別れの礼さえ守れば、転仕は家臣の権利であり、自由だったのですが、実際のところツテが無ければ、ヘッドハントされてない限り、別の殿に出仕するのは「家臣募集」とか、就活とかありませんからなかなか難しく、そこの家臣の紹介を得るか、戦になった折に陣借りをして、自らの働きぶりをアピールくらいしか、道はありませんでした。


 さて竹阿弥は、元時宗の僧侶ですから、当主の近習の一人だったはずです。近習は、御側衆、あるいは御身内衆とも呼ばれる、殿の最側近です。

信頼できると、考えられる方だったはずです。


 ではなんで松下家なんだ、といえば、駿府の今川義元が西に軍を動かす場合、天竜川を渡る為、この辺りの国衆には馳走のお達しがあります。天竜川の西岸にある松下家というのは、今川家の西進の情報を取るのに適していた家の一つだったでしょう。

勿論、今川方の他の家にも、織田の細作が入っていたでしょう。


 では竹阿弥が、この松下家に出仕するルートを考えてみましょう。


 そもそも斯波氏は永正5年(1508)までは遠江守護ですから、鎌倉時代が始まる頃、河匂荘と呼ばれていた頭陀寺に代官として入っていたという松下氏に対し、なんらかの伝手を持っていてもおかしくはありません。


 また松下氏居城の頭陀寺城は、近年に於ける発掘により、城の規模に対して不相応な貴重品である陶磁器が発見されたことにより、裕福な商人国衆であったと推測されています。

また商人は商人でも、その唐渡りの陶磁器により、永享3年(1434)再開された、勘合貿易(日明貿易)に関係した商人だったのではないかと考えられています。

この勘合貿易には、有力な大名や寺社らが合力し、船を仕立てたと言います。


この勘合貿易を采配する「唐船奉行」の上首は、松下家の上司である飯尾氏の親戚である幕臣飯尾氏でしたね。

今川家に仕える飯尾氏は、吉良氏に招かれ、三河へと下向した一族です。


同じく桶狭間で散る「飯尾近江守」定宗は、息子ともども、近江多賀神社の杜司として名前が残っていること、細川京兆家当主細川晴元の実の娘を正室に迎えていること、織田大和守家出身であるのに斯波氏の親戚と言われていることから、謀反を起こした織田大和守家のあおりで、家を断絶させることになった証人の織田敏宗の息子の定宗を、足利別家斯波氏の融子として、廃絶する幕臣飯尾近江守家の名跡を継ぎ、晴元の娘と婚姻したのではと拙作「飯尾近江守②」で推考しました。


しかし元吉良氏家臣の飯尾氏は、親今川家で、親斯波氏の大河内家と争ったとも聞きますので、どうでしょうね。


 次に考えられるのも、松下氏が他国との通商を行っていた、発展した商人国家であるということに依っています。


 天竜川河口では、上流から木材などを運んで、川中島の掛塚湊で大型の船に乗せ替え、京や伊勢へと運び、帰りの船にはそこで仕入れた物資を遠江へと持ち帰りました。掛塚湊は丁度、津島や熱田にも似た繁栄した湊町で、室町中期の『梅花無尽蔵』(万里集九)にも、有料の浴場もあり、旅人たちが足を休める地としても、大変発展している様子が描かれています。


掛塚が松下領だったのかは、寡聞にして存じ上げないのですが、頭陀寺自体が天竜川下流西岸に位置し、やはり熱田や伊勢、津島のように、門前市場を展開して、商業都市としても発展していたといいますので、東行する人々や荷物の船待ちなど、今に遺る掛塚の繁栄を享受していたと考えられます。

また頭陀寺の「津毛利神社」(津守)は、文字通り船乗りの神様ですから、天竜川水系や遠州灘の船乗りたちの信仰を集めて繁栄していたでしょう。


当時の織田家で商人と言えば、元伊勢の熱田加藤家です。

当時熱田を采配していた、西加藤家の祖加藤全朔は、連歌を通して今川義元とも面識のある顔の広い商人でした。

この全朔が「預かってもらえないか」と声をかけて、今川家の陪臣松下家へというのもあるでしょう。


 また津島牛頭天王社の檀那場が、遠江にもあります。

信仰厚い当時、御師から頼まれれば、なかなか断ることは難しいかもしれません。

或いは義元が繰り返し寄進している吉田神社は、牛頭天王をお迎えしていますから、そこからかもしれません。


こうした寺社の僧侶や神人、御師たちは、諸国を巡りつつ、勧進を致します。或いは不渡になりかけている税金、借金の督促をするのは、神人の仕事でした。

調略の担い手は元々彼らでしたし、その人脈は並々ならぬものがあり、この部分は、もう少しスポットの当たってほしい歴史の影です。

秀吉が神社を大切にしていたのは、神社の持つ人脈と経済などの力を知っていたからかもしれませんね。


 個人的にイチオシなのが、水野竹阿弥の個人的なツテです。

水野竹阿弥は、水野家からの証人あかしひととして出仕したのでしょうが、出身が水野太郎左衛門系であれば、成り立ち、その後の処遇が理解できるものがあるのです。


この太郎左衛門系水野氏は、織田領内の鋳物師(鉄を商う武装商業軍団)の元締めのような立場にある家です。

戦国時代において、一国単位の領国経済の形成(自給自足)は無理があり、他国からの流入、自国からの流出を管理させるという方針を執っている大名がほとんどです。

尾張織田弾正忠家の鉄関係の管理を任されていたのが、この水野太郎座右衛門家になり、彼らは江戸時代も守山で鋳物師頭として君臨しました。


 太郎左衛門系の水野氏は、春日井郡鍋屋上野村に古くより居住していたと言います。この鍋屋上野村は末盛城近くにあり、周囲の国衆同様、信秀が那古野に入城した前後には従属したと考えられます。


鋳物に限らず、当時の物品の販売には、里売りと市売りがあり、それにプラスして市場にこれない人々や他国への販売を行う連雀商人がいました。


元々尾張と遠江は、同じ斯波氏の国ですし、遠江の鋳物師衆山田七郎左衛門家が台頭するのは、信長公が亡くなった後の小牧戦以降ということもあり、通商しやすい場所だったかもしれません。


 そういえば、鋳物師の仕事には鋳型を作る窯業もあります。

「前田利家室篠原まつ」のところでみました、篠原氏の出身ではないかと考察した猿投神社(猿投窯)方面や、竹阿弥の妻の関氏娘仲の出身とされる、瀬戸の窯にも関係をしていたというのが非常に面白いと思いませんか。


 さて、こうしたツテで織田信秀、あるいは斯波氏が、織田家の近習である水野竹阿弥を還俗させて、近習であったことを隠し、侍の木下藤次郎として、今川義元の下に送り込んだ可能性があるのではないかと考えられます。


江戸時代とは違い、この頃の動きは個人の人脈を動かすものが大きく、大名のみならず、武将たちはコミュ力を問われる時代でしたし、家を含む個人的なツテという方が戦国時代的かもしれません。


 ところで、天文8、9年前後に、こうして竹阿弥藤次郎が派遣されたとすると、家族はどうしていたでしょうか。


私はこういう場合、単身赴任だと思ってたのですが、戦国時代では、例えば長期戦になる詰城、砦などでは家族単位で入られているのですね。

そういえば、秀吉も朝鮮侵攻の折には、淀殿を呼び寄せたいという書状を寧々さんに出していますし、『信長公記』でも砦からトンズラする武将が、家族連れです。


当時の女性は馬に乗り、武芸の嗜みがありましたから、足手纏いになるというのも少なかったのでしょう。


細作は危険な任務ですが、奥様、ご令嬢も戦さ場にも御出になるくらいですし、転仕するのでしたら、家族連れの方が良いのかもしれません。


というのも秀吉の兄弟は、姉の智、天文9年(1540)生まれの秀長、天文12年(1543)生まれの朝日で、天文初期に竹阿弥が今川方へ単身赴任すると、ちょくちょく尾張に戻ってきてたことになり、それっておかしくない?ということになるからです。

家康のおうちにトンズラした、と言われる佐脇良之家もおんなじですね。


ということは、竹阿弥は正室の仲さん、長女の智さん、長男の秀吉を連れて遠江へと向かい、あちらで秀長、朝日が生まれたのではないかと推測できます。


 そして「狐橋合戦」で矢傷を負った後数年後に、木下藤次郎は、当時のよくあるパターンとして「戦働きできなくな」ったのかもしれません。

軍忠状ではなく、今川家の注文文書に残っているということは、それなりの傷だったでしょう。

となると、普通に討死であれば良いのですが、数年経ってから働けなくなったり、亡くなると、討死の場合のように家の保護が行われず、家族は困窮しますから、10歳前後で放浪した説の原型をここに見ることも可能とも考えられます。

そうした「牢人」のような状況の時に、秀吉や姉の智の出仕を促してくれ、「御忠節」だったのかもしれません。もしかすれば、はい、もしかすればです。


同時に、姉の智、秀吉は、通過儀礼に従い元服、松下家や飯尾氏の家臣、その娘と婚姻したのではないかと思うのです。

というのも、姉の智が秀次を産んだのは、永禄11年(1568)で、この時彼女は数えで35歳です。今ならあり得るでしょうが、この当時の女性としては、かなり遅い初産になります。


秀吉が永禄4年(1561)に、数えで25歳という武家の嫡男としては遅い年齢で、寧々と結婚していることから考えても、桶狭間直前、直後で使命を終えた秀吉は、手切を入れて当時の妻を返し、嫁いだ姉以外の家族を連れて尾張に戻り、武将として前田利家の家の隣に邸宅を拝受したのではないでしょうか。


 また尾張一ノ宮真清田神社の佐分清治の正室は、永禄6年(1563)に落城した頭陀寺城の城主松下之綱の娘であるとされ、ここは秀吉母の仲さんの出身である美濃関氏が神官として出仕しています。

この娘を秀吉は託されて、松下家から落ちたとも伝わるのですが、永禄4年には尾張で寧々さんと結婚してるらしいので、どうでしょうか。


この辺りを合わせて考えると、落城の折に松下之綱が娘を託したのは、既に織田家家臣になっている秀吉ではなく、松下家に侍女として出仕していた智かもしれません。智は姫や彼女の乳母たちを連れて、母の縁、あるいは父の縁(鋳物師は神具、仏具も作る)を頼って真清田神社の近くに逃げ落ち、姫を育てられる環境を整えたのかもしれませんね。

また、この落城の折に智の夫や息子が討死した、生き別れとなったと考えられます。


そう考えると、寧々さんのお母さんが結婚を反対したのは、身分というより、今川家で密偵、細作を家族でしていた得体の知れなさかもしれません。

当時、取次ではなく、そういう職種をどのように捉えられていたかわからないのですが、親としては、武将として日の当たるところで働いている家族の方が、安心感があるのではないかと思います。


また秀吉が永禄以前のことを秘したのは、任務とはいえ、ずっと周囲を騙し、桶狭間で仮とはいえ主家(今川)を裏切り没落させ、本能寺からの流れで主家(織田)を没落させた、なんとも天道的に暗く不吉なイメージを軽減させる為かもしれません。


となると先の松下之綱の件の文書は、普通に之綱が今川軍に攻められ落城し、その後主君になる飯尾氏も滅亡して牢人になった時の話のような気もしますね。


 ここで興味深い、信長公の朱印状を見てみましょう。


「前々任筋目 国中鐘、塔九輪、鍔口可之鋳 次於熱田鉄屋立橐籥事可停止 然者自他国鍋釜入事 可申付之 諸役、門次、所質等令免許之 無相違者也 仍如件

  

  永禄五

    二月      花押(信長公)


    鋳物師

      太郎左衛門とのへ」


(前々からの筋目に任せ 国中の鐘、塔九輪、鍔口などを鋳るべし 次に熱田の鉄屋に於いて橐籥たくやく吹子ふいご)を立てることを停止すべし しからば他国より鍋釜入ること これを申し付くべし 諸役、門次、所質等これを免許せしめること 相違なきものなり)


これが水野太郎左衛門家が、江戸時代に尾張鋳物師頭として君臨した出発点となる書状です。


この書状の訳には色々諸説あるのですが、注目点は熱田の鉄屋を水野太郎左衛門に吸収、合併させ、さらには尾張の鋳物の流通の采配権を水野太郎左衛門に任せたことです。


主人織田信長公が桶狭間に今川義元を下した2年後、水野太郎左衛門家は、信長公の金庫である熱田の利権を犯してまでの、このような恩寵を何故いただいたのでしょうか。


熱田をはじめとする、周囲の方々が納得する成果が必ずやあったはずです。


秀吉が通説と違い、武将家前田利家の隣人であることにより記録の初出より武将であったこと、そしてたった4年で宿老という驚くべき出世を成し遂げたことと合わせ、大変、不思議なことです。  


 さて秀吉の朱印状の話に戻ります。


この時代の「忠義」というのは、独特です。


 弘治元年(1555)尾張守山城において、城主織田信次の家臣が甥秀孝を誤射して城主共々逃亡し、攻めくる末森城主織田信勝の宿老柴田勝家の前に、守山城の宿老たちは城門を閉めて籠城しました。

守山城に到着した信長公は、佐久間信盛の進言を受け、代わりの城主として、兄信時(秀俊)を任じます。

この時、それを受け入れた守山城の家臣たちのことを、『信長公記』では「謀反にて受け入れ」と形容しています。  


守山城主信次の主君は、弾正忠家当主信長公のはずです。主君の意見を入れるのは謀反ではありません。 


もしかしたら守山城の宿老たちは、信勝派だったということでしょうか。


後に宿老角田新五が今川家に逃げ込むことを考えれば、今川の調略に応じていた可能性もあります。

しかしながら、では信勝派か……というと、稲生合戦まで今川家は信長公ではなく、信勝と度々小競り合いを繰り返しています。(今川文書)

そうなると坂井大膳と共に、対織田家の今川家の密偵と化していたと考える方が自然です。


つまり謀反とは、今川義元に対してのソレで、信長公の意見を入れたことを指しているのではないかと読めます。


 そうなるともしかして、遠江松下家の「御忠節」とは、今川家や飯尾家へのそれではなく、織田家の密偵と知って木下家を出仕させ、桶狭間後も今川方に付かず、織田家と同盟関係にあった徳川家へ落ちた……という話かもしれません。


つまりそもそも松下家自体が、織田家の調略を受けた家だったのではないか、ということです。


秀吉が松下之綱を、勝っても負けても手柄を立てやすい前備に配備していたというのは、織田家に忠節を立てていた松下家を重用することで、織田家の正当な後継は自分であることを、周囲と自らに喧伝していた。そう考えられます。


秀吉が亡くなると、感謝をして御忠節な姿を見せるどころか、そそくさと家康の下に戻った之綱は、秀吉に良いように利用された気持ちがあったのかもしれません。


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