戦国時代の通過儀礼「髪置」

 戦国時代の子供の生育祝、「髪置かみおき」を今回は見ていきましょう。

 

公家は数えで2歳、そして武家は3歳の11月の吉日を選んで行われていたのが、安土桃山時代から江戸時代の初期あたりから、公家も武家も数えで3歳の11月15日に行われるようになり、現在の七五三が「11月15日」に行われるもとになりました。


 まず室町時代から戦国時代にかけての子供たちは、生後七日目の「御剃髪の儀」で髪の毛を剃り、以降は禿かむろと呼ばれる、肩くらいまでのおかっぱにしておきました。とは言っても、髪置が満では1歳から2歳前後ですので、日本人形のようなしっかりとした髪のお子様だけでなく、ポヤポヤのエンジェルヘアのお子様もおられたことと思います。


とりあえず一度剃った髪の毛を、長く伸ばし始めるのが、この「髪置」、あるいは「髪立」「櫛立」と呼ばれる儀礼以降になります。

これは男児も女児も同じで、男児はここからまげ、女児は大垂髪おすべらかし(後ろで髪の毛を結ぶ髪型。現在の皇族の方々のように膨らまさない)を結う為に、髪の毛を伸ばすことになります。


これらの儀式は、時代性、流派があり、各家で伝統的に何か特色があったやもしれません。



 髪置では髪の毛を伸ばすにあたり、健康と長寿を祈って、幼児の髪の毛を白髪を連想するように白くします。

室町初期から中期に於いては、髪の毛に米粉などを擦り付けて白くし、更に白髪、綿帽子と呼ばれる白い帽子、あるいは麻の白糸をかつらに仕立てたものに、山菅やますげ山橘やまたちばな熨斗鮑のしあわびを結びました。

時代が下るにつれ、米粉を擦り付ける記録が見られなくなり、山菅、山橘、熨斗鮑をつけた白麻糸の鬘、或いは綿帽子を被せるだけになっていきます。

更に江戸時代が近くなると、山菅、山橘、熨斗鮑ではなく、何故かわらと熨斗鮑を、水引きで結ぶ形になっています。


山菅とは、藪蘭やぶらんとも呼ばれる植物で、一際美しい小さな紫色の花を穂のように付け、11月頃には艶やかな紫黒色の実をつけます。万葉集などにも詠んだ歌が多く、古くから愛されてきた山草です。


山橘は、こちらも野生の橘で、明治以降では薮柑子やぶこうじとも呼ばれます。

夏には薄いピンクを帯びた、小さな、小さな白い花を咲かせ、冬が近づくと人目をひく美しい赤い実を付けます。


熨斗鮑は、ご存じのように三献などでも使う、生の鮑の身を外縁部から干瓢かんぴょうのように、細長く剥ぎ、干したものになります。

水に浸けて戻して食べると、大変滋養強壮に良い食べ物らしく、元々は長寿を祈る意味があったそうで、戦国時代では陣中見舞いに欠かせない品になっています。



 中世の武家に於いて、一定の家格の家にあれば物事を行う場合、奉行が立てられます。

その方の采配で、若君、姫君たちの着物、白髪などの用意や、重臣宅(主殿、会所を持っている宿老級)を会場にする場合は、そちらと連携を取りながら、準備を進めていきます。


元服では加冠役の「烏帽子親」が重要ですが、髪置では米粉を擦り付けたり、鬘や帽子を被せる役、「髪置親」が重要になります。

これは嫡男であれば、通常、父である殿がされるようですが、場合によっては重臣がすることもありました。重臣がする場合は、歳を取った老人が縁起が良いということで選ばれます。

江戸時代になりますが、三代将軍家光の髪置の折には、祖父である家康が髪置親をされたそうです。

また基本的に、女児は女性が立つそうです。側室の子供の場合は正室がなるかもしれませんし、生まれた時に乳付をしてくれた女性、母の乳母や殿のおばさんたちなど、今後の後ろ盾になってくれそうな、力を持った方を選んだことでしょう。


 さて、当日の様子を見てみましょう。


重臣宅で行う場合は、殿、正室、生母(側室)がそれぞれ近習を連れ、そして髪置を行う若君、姫君は乳母たちを連れ、輿や馬で向かいます。

殿の城で行う場合も、それぞれ主殿、あるいは常御殿の対面所などの会場へ向かいます。


 髪置親の殿は、御屋形様と呼ばれる方は基本的に侍烏帽子と袴の裾を踏むような長袴の直垂姿、戦国大名家ではやはり長袴の大紋が多く、それ以下では肩衣姿のようです。室町初期には白いものをお召しだったようですが、その後、色に関する記述が発見できておらず、不明です。


女性は、葬儀の時と同じように、小袖に白い打掛姿です。

元々、小袖は白色が基本なので、全身白の可能性が高いのですが、戦国時代に入ると色のついた物がメインになるので……こちらも定かではありません。


髪置をされるお子様は、童子の礼装である「長絹ちょうけん」、身分のないお子様なら「素襖袴」になると『諸大名出仕記』に書かれています。


この頃の童子の礼装の「長絹」は、「直垂」と同じ形をしており、胸の紐を前で結ばず、首の後ろへ回してクロスさせ、両脇の下から前へ出して、双縄結もろなわむすび(蝶々結び)にします。


また「細長」と呼ばれる水干の一種(水干は上着の裾を袴の中に入れ、細長は外に出し、裾を紐や帯で結べるように裾が長い。着袴と合わせてする場合、着るのかもしれない。平安後期で一旦断絶したと言われているが、『慈照院殿髪置記』(足利義勝)『常徳院殿髪置記』(足利義尚)の髪置で使用されていることが確認できる)を着用する場合もあったようです。


「素襖」は直垂から派生したもので、「水干」とは違い、肩に開きがないのが特徴です。


また着衣による男児と女児の差は、「着袴ちゃっこ」、「帯解おびとけ帯直おびなおし)」までは、普段は大してなかったようですが、女児の礼装に言及しておらず、わかりません。

もしかすれば、男児と同じように、大人の礼装を簡略化した形のものだったかもしれません。

つまり小袖を中に着て、上に打掛を羽織った形になります。また「着袴」「帯解」までは、紐のついた着物になりますから、帯を付けていないかもしれません。

また現代では、女児の帯を巻かない、紐のついた小袖を「細長」として紹介しておられる方もいますので、呼び名はさておき、そちらが女児の礼装なのかもしれません。



子供達の衣装も室町初期には白のものだったようですが、その後色の記述がなく、色の方はわかりません。


しかし当時、葬儀、出産、臍の緒を入れる壷など、白色は生死の間に立つ色だったので、白だった可能性が高いでしょう。


 さて童子は扇を手に、当日の吉方の方角へ向かい座ります。

米粉を入れた漆塗の器、くし、熨斗鮑、山橘、山菅、水引、綿帽子か白髪の鬘、元結、鋏(にぎり鋏)を乗せた広蓋が、童子の後ろに座った髪置親の前に据えられます。


水引と元結は製法原料は同じで、元結は縒った紙紐に米粉をつけて、強度と艶を出したものになります。


髪置親はまず櫛を手に取り、童子の髪の毛を三度、掻き撫でるようにとかします。


それから鋏を取り、左鬢を三度、右鬢を三度、真ん中(後ろ頭)を三度、挟む真似をします。

米粉を付ける場合は、米粉を手に取り、童子の髪の毛にまぶし、それから白髪の鬘か綿帽子を後ろが長くなるように被せて、山菅や鮑を付けて、童子に結びつけ、後ろの中程を元結で結びます。


これで髪置の儀式は終わり、会所に移り、式三献、重臣から若君への引手物(馬、太刀)の献上、御肴五献ほどが供せられます。(女児に関しては不明)


この髪置と共に、男児は箸直や着袴の儀も共に行うこともあります。

箸置は幼児の箸の持ち方を正す儀礼で、着袴は袴を履き始める儀礼になります。

この儀礼の内容に関しては、項を改めます。


同時にする場合は、先にそれらを済ませた後に、三献などが行われます。



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