戦国時代の通過儀礼「髪曽木」「着袴」「帯直」
前回の「髪置」を済ませた若君、姫君たちは髪の毛を伸ばし始め、それを初めて切る儀式を「
「
生後七日目の「御剃髪の儀」は、「剃る」なので、良いのでしょうね。
首を「切」り落とす、(首の代わりに)鼻を「削」ぐなど、敗戦を連想させる言葉への禁忌は、時代性を感じさせます。
勿論、「殺」や「敗」なども忌語になるそうです。
また似た名称の「
「髪曽木」は、「髪置」の1年から2年後に行われます。
おおよそ武家では、女児は数えで四歳、男児は五歳で行われ、庶民を含め、下級、中級武士の間では行われることはほぼありませんでした。
また「着袴」の儀と共に行われることも少なくなく、江戸時代に於いて着袴の儀の折に、袴を履く男児を碁盤の上に立たせることの起こりになりました。
「元服」の「烏帽子親」、「髪置」の「髪置親」と同じように、髪の毛を切る役目の方を、「
これは男児の場合は、父親である殿、殿の信頼の厚い重臣が選ばれます。女児の場合は、父親の正室や父親の姉妹などがしました。
当日、子供用の直垂や、子供用の水干、細長などを着た童子は、両手に産土神社や霊験あらたかな神社で御祓を受けた青い石をそれぞれ一つずつ両手に握り、碁盤の上に吉方を向いて立ちます。すると鬢親が後ろに座り、その前に鋏、櫛、紙の入った漆塗の打乱箱を、近習(女児の場合は女官)が据えます。
コトバンク「打乱の箱」
https://kotobank.jp/word/打乱の箱-2011245#E7.B2.BE.E9.81.B8.E7.89.88.20.E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.9B.BD.E8.AA.9E.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E5.85.B8
鬢親は、櫛で丁寧に髪を
この切った髪の毛は紙に包んだまま、後で川に流します。
この頃は、髪の毛を用いて呪いをかけるなどの呪術もありましたので、切った髪の毛を落とさないよう、他の人が拾わないように細心の注意を払っていました。
これは、普段の生活でも同じで、切った爪、髪は、埋めるか、川に流すかしました。
さて童子は両手に握っていた石を鬢親に渡し、鬢親はそれを碁盤の上に置きます。
童子はその上に一旦立った後、碁盤から床におります。
以上が「深曽木」「髪曽木」の儀式になります。
次に、前回の「髪置」、今回の「髪曽木」などと一緒に行われることの多い、「着袴」、女児の「帯解」についてみていきます。
「着袴」は「はかまぎ(袴着)」とも呼ばれる、初めて袴を履く儀式です。宮中では古くより、男女共に行なったそうですが、武家の女性は、一部、将軍家を除いては袴を着用しないため、男児のみが行い、女児は「
「着袴」、「帯直」は三歳から八歳頃に行い、その期日は一定せず、「髪置」や「深曽木」など、別の儀式と一緒にすることが多かったようです。
江戸時代になると、五歳か七歳の11月15日に行われるようになりました。
これを行うまでの童子の普段の着物は、「両身八ツ口に紐つきたりて」「後にて紐を結ふ」という、着物自体に紐付いたものだそうで、その紐をとって、腰紐を使って揚げをし、帯や袴を付けるということになります。
着衣に関しては、「髪置」や「髪曽木」、或いは「箸直」を同時にする場合、一旦、着ていた着物を着替え、着袴の儀をとり行います。
この時、「半尻」「小狩衣」と呼ばれる後ろの丈が前より短い子供用の狩衣か、子供用の直垂である「長絹」が多かったようです。ただ白い着物ではなく、三代将軍義尚は紅地の鶴亀の水干姿でしたし、白地でも家紋をあしらった水干、或いは雲箔に松竹を描いた直垂(長絹)など、目出度い柄、華やかな色のものが使用されました。
袴の紐を結ぶ方を、「着袴親」と呼び、嫡男の場合は父親である殿、また連枝、重臣でも、人望の厚い徳のある方が選ばれたようです。
着袴の儀を迎えた男児が吉方を向いて立つと、着袴親の横に「袴、狩衣、或いは直垂」の入った広蓋が運ばれます。
着袴親は男児に袴を履かせ、腰の紐を結んでやります。その後、狩衣、或いは直垂を着せ、身なりを整えます。
着袴親は、本人の身分に応じた正装の姿で臨むことが多かったようです。
武家の嫡男の着袴は、武家にとり、非常に目出度い儀式であり、家の盤石さを内外に示す、元服に次ぐ重要な通過儀礼でした。着袴の後の宴では、重臣たちが太刀あるいは、馬を献上しました。
女児の「帯直」「帯解」「紐落」は、大人の女性と同じ小袖に衣服を改める儀式です。ただし、大人の女性の小袖は脇が縫い留めてあり、少女の小袖は脇が開いています。
少女の服が改められるのが、次回公開の女性の元服の「
男児、特に嫡男のそれは、公式行事であり、大名だけではなく、城持、宿老など上級武家たちは、会所や常御殿の対面所で行い、嫡男の無事な成長を広く知らしめ、江戸期に入ると、重臣たちとの三献まで執り行うようになりました。
それに対し、女児のそれはあまり記録がありません。
おおよそ公家は九つ、武家は七つ頃に行われたと言いますが、実際のところ、「着袴」と同じく、「髪曽木」や「箸直」などと一緒に行うことが多かったようです。
しかし例えば殿の孫の姫君が「帯直」「帯解」を行うのに、父親の屋敷ではなく、祖母にあたる殿(現当主)の正室の采配の下、彼女の邸(局?)で行なったり、あるいは家臣の娘が「帯解」を行うにあたり、殿の正室が帯を送ったり、内内のことではなく、社会性のある行事であったことがわかります。
儀式に使う帯は、『諸大名出仕記』には新調の「亀の甲を織付たるを仕候也」で、当日、紐のついていない着物と共に台に置き、吉方を向いた女児に、着物を着せ、帯を結んでやります。
この頃の帯はまだ細く、幅が二寸から二寸五分(6.06〜9.5cm)で長さが十尺(約3m)程度のものになります。
帯親を務めるのは、家臣の中でも子沢山の女性で、その女児の立場によっては、殿の正室が帯を結んでやることもありました。
「箸直」は、子供の箸の持ち方を正しくする儀礼になります。
「箸直」を単独でした記録は、戦国時代には寡聞にして見当たらず、「着袴」や「髪置」、「髪曽木」など他の儀式に合わせて行なったようです。
髪曽木、髪置、着袴などと同時に行う場合は、髪置または髪曽木→箸直→着袴(帯解)の順番で、例え将軍家の嫡男であっても髪置、髪曽木の着物のままで行うようです。
内容に関して、手持ちの資料では非常にサラッとしか触れておらず、よく分からないので、また資料があり次第、加筆いたします。
箸直を行う子供の前に、漆碗の強飯と耳土器の上に据えた箸を、三方などに乗せ、運びます。すると、箸親が「三ハシ マイラセラル」そうです。
この「三ハシ マイラセラル」のは、父親の殿だったり、彼の正室だったりし、「人徳ある」だったり、「有力な」だったり記述はないので、あまり重要視されてなかったのかもしれません。
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