戦国男色考 その時歴史は動いた…

 戦国期の公家や武家は、男色を致すのが常識でした。だからといって、ゲイの方にとって、なべて住みやすい世の中だったかというと、残念なことにそういう訳ではありませんでした。


最たるものが、武家の当主、殿と呼ばれる方々です。

彼らは男色を嗜むと同時に、子孫を残すことが立場上必須でしたから、男性とも女性とも致せる、バイセクシャルな生活を送られていました。


では当時は、バイな方が多く生まれていたというわけではなく、彼らの多くは現代であれば、異性愛者として生きておられるでしょう。


それだけ思想というのは人の行動を変える力があり、人間とは本当に社会的であり、素直な生き物なのだなぁと思います。


 さて、そういう世の中で、女性と致すのは生理的にどうにも無理という方は、どのように身を処しておられたでしょうか。


武家の当主、特に大名家の当主という子孫製造に関して、重い責任がある立場になると、ご本人も周囲の皆様も大変なお気持ちになられていただろうことは、想像に難くありません。


こうした方々の中には、何となくというのか、とりあえず成長儀礼の流れに乗って、婚姻をしまった方もおられるかと思います。


しかし婚姻はしたものの、どうしても室の方と致せないとなった場合、大きな問題に繋がっていきます。


 まず迎えした正室の方と、臥所ふしどにて事を為されているかどうかというのは、大名、武将の嫡男、当主の子作りは公的なものですから、近習、侍女、乳母、傅役に知られます。

そうした場合、相性が悪いのかな?と言うことで、数えで19を迎える頃には、側室を入れることになります。


しかしそれでもダメな場合、子供は産まれないかも……ということになり、殿の当主としての資質を疑うということになっていきます。


それを避ける為に、婚姻関係を辞退するということがあります。

しかし、それはまた一家の主人としては失格になります。


となると、どうするか……というと、宗教上の理由にするというのが、広く使われてた方法でした。


何しろ当時は、現代では非常識なほど信心深い世の中です。

家の為に生涯不犯を誓うというのは、当主としてなかなか立派な理由になりました。


しかし、それはそれで大きな問題を起こすことになったりしました。

今回は、殿の女性はダメというものが、歴史を動かした事例を見ていきましょう。


 細川管領家嫡流細川九郎政元は、文正元年(1466)に生まれ、永正四年(1507)に亡くなりました。

細川管領家、或いは管領細川家と呼ばれる超エリートな家柄の嫡流の嫡男に生まれた政元は、幼名を聡明丸といかにも賢そうな名前で、その名に恥じず非常に賢い方であったといいます。


言ってみれば、生まれながらに「欠けたるを無しと思えば」の道長氏の如き、全方位隙なしの方でした。

親御様も家臣の皆様も、さぞや大船に乗った思いで、成長を見守っておられたことでしょう。


この政元氏は非常にユニークな方で、強い逸話をご存知の方も多いと思います。


まず政治面に於いては、真面目にやっている分には、とんでもなく有能な方でした。


応仁の乱、あるいは文明の乱以降の京というのは、まるで一滴の水を垂らされた角砂糖のように、幕府が静かに瓦解し終焉を迎えていく時代にありました。

京の都で将軍を支えていた守護大名たちは、沈む船から逃れるように、次々に下国し、政権の中枢を担っていた幕臣たちも姿を消し、政所、侍所なども機能しなくなっていきました。


その時代の中で、細川政元は京の人々にとって「最早、京兆けいちょう(政元)以外の大名は京には残っていない」【長興宿禰記】(そんなことはない)と言われるほど大きな存在で、仕事で京を離れることがあれば、帰ってこないのではないかと不安がられ、領地の城屋敷を改築すれば、領地に篭って隠居するつもりではと嘆かれました。

しかしまた同時に、将軍の首のすげ替えと言うクーデター(明応の政変(1493))を起こす巨大すぎる権力への反発もまた、ただならぬものがありました。


そんな重要人物の政元でしたが、実は若い頃から、ちょくちょく私用で姿を消していました。

というのはこの政元氏は、修験道にハマっていたからです。


室町、戦国期の大名たちは、現在無神論とも言われる織田信長公を含め、非常に信仰心がありました。

それは当時の常識が宗教と密着していた側面とともに、「信心深い権力者」として天道に乗っ取った為政者であることを印象付け、また宗派のネットワークを利用するこという面もありました。


また宗教パワーによって奇跡を起こしたり、未来をコントロールすることは、軍事的に非常に重要なことでしたから、軍師と呼ばれる任務を担った人も、大名も義務教育で占いを学び、その後も何かと占いをし、また一種の超能力を身につけるべく訓練をしていたのは、現代では忘れられがちな当時の常識の一つです。


しかしこの政元氏の本気度は群を抜いており、「天狗となって天を舞うのを見た」だの、「空中に立っていた」など、彼の伝聞は非常に面白いものがあります。


そんな政元は、この宗教上の理由を申し立て、女性を近づけず生涯不犯を宣言していました。


しかし、女性を遠ざけたのでは、当然のことながら、子供ができません。

そこで後々の為に、政元は養子を取ることにしましたが、残念なことに彼の代で歴史ある細川管領家嫡流が途絶えることになりました。


上記の修験道に非常識なほど耽溺し、ついには空を飛んだり、怪異を起こしたという伝説は、実は彼の影響力と、宗教上の都合で名門細川管領家嫡流を途絶えさせるという、当時の衝撃の大きさを現しているのではないかも知れませんし、瓦解する室町幕府の屋台骨となった、重すぎる責務の為に、自然と宗教に頼ったとも考えられます。


 ところで養子を3人も取った為、しばしば政権を放り出してトンズラする政元の生前より、家臣たちは三人の養子を担ぎ、細川家は内紛を抱えることになります。


 生涯不犯の政元は大名ですから、男色はしっかりと嗜んでおられました。

彼の男色の相手、若衆は政元の重臣、摂津守護代、薬師寺九郎左衛門元一と言われる方です。

元一の「元」は、勿論政元の偏諱でしょう。


彼の辞世の句は有名です。


元一は永正元年(1504)、養子たちを担いで家臣たちが相争う中、謀反を起こして、政元より切腹を申しつけられます。


さて、その辞世の句は

「地獄には よきわかしゆのあるやとて 今日おもひたつ 旅衣かな」


この「わかしゆ」は「しゅ」、つまり政元のことを指していますが、「若衆わかしゅ(わかしゅう)」と読めば元一本人のことになります。

元一は死に際して、この句を政元に披露するときには、「若衆」と聞こえるように読むように置文したそうです。(【政基公旅引付】)


置文は、現代的にいうと遺言ですが、死霊が恐れられた関係で、強制力というものは現代の比ではありませんでしたから、政元が不快に思うとわかっていても、確実にそのように披露されたことでしょう。


生涯をかけて、極楽へ行くことに力を入れていた当時(拙作「戦国時代の死生観」参照)

若衆が念者に「どうせ我主まさもとは地獄行き、ならば若衆もとかずは地獄にてお待ち申し候」と嗤う句は何とも趣き深く、政元がどのような気持ちで聞かれたのか、興味がそそられます。


 政元は元一の死の僅か3年後の永正四年(1507)、養子の一人澄之派の手によって、暗殺されます。政元暗殺を成功させた澄之ですが、同じく養子の澄元によって攻められて敗死します。

その澄元も、協力体制にあったもう一人の養子高国が足利義材と組んだことにより、足利義澄と共に都から脱出する羽目になります。


 こうして、政元の生涯不犯に端を発した、跡目争いの戦乱の火は、将軍家まで巻き込み、各地に飛んでいったとされています。

また京の都の政権争いの混乱は、信長公が上洛するまで続いた……つまりは、政元の男色が信長公の政権への道を作ったとも言えます。


如是かくのごとく、彼の生涯不犯は、歴史を動かしました。


 同じように「生涯不犯」の錦の御旗を掲げて、女性を遠ざける工夫をなされたのは、上杉謙信公です。

彼の場合、政元ほどの波及効果はありませんでしたが、越後に一つの時代の終焉を告げました。


 彼はご存知のように、元々は関東管領上杉家の嫡男ではなく、産まれた時にはその守護代長尾家の息子、しかも長尾家の嫡男でもなく、早々に寺に預けられていました。


それが図らずしもなんだかんだと、越後守護大名上杉家を継ぐことになってしまいました。

そうなると、当然のことながら婚姻することが求められます。

ところが謙信公は、政元公と同様、宗教上の理由をあげて生涯不犯を申し立て、婚姻関係を拒否しました。


そしてこちらも、生涯不犯という割には、男色は嗜みました。


普通大名の男色は好みというより、能力が高く取り立ててやりたいが、家格が低い、新参である、本人の実績がまだ出ていないなど、取り立てると他の家臣たちの不平不満に繋がり、家中のバランスが崩れる恐れがある場合に、若衆にすることで箔をつけてやるという側面が強かったのです。


とはいうものの、人間ですからそうとばかりは言えないのですが、基本的なルールは家中のバランスを取るということですし、疑似恋愛ですから、若衆を何人も作らないのはお約束でした。


が、謙信公の美少年好きは相当有名で、上洛した時には京の美少年を集めて接待してもらい、琵琶湖の渡って守山で一泊した時に、添臥で侍った美少年を越後にお持ち帰りした話をご存知の方も多いでしょう。


いくら耽溺しても、美少年は女性ではありませんから、子供はできません。

そこで謙信公は、養子を2人とりました。

そして政元同様跡目を決める前に、急死してしまった為、二人の養子が相争って、起こしたのが「御館の乱」です。


この家督相続の争いのせいで、上杉の軍事力は衰退し、上杉家の家格は落ちていきました。


養子を複数取る時には、早めに跡目を決めとくのが吉のようですね。


 さて次の話は事実でないかもしれませんが、個人的に怪しんでいる方をご紹介したいと思います。


 それは太閤秀吉の弟、豊臣小一郎秀長です。


秀長には、実子が勿論おられます。

しかし彼の子供がもう少し早く生まれていれば、豊臣政権はもう少し永らえたのではないかと思います。


 そもそも彼の婚姻は、とても遅いものでした。

秀長は天文9年(1540)生まれで、正室である藤姫と結婚したのは、天正13〜14年(1585〜86)と伝わります。


つまり御歳数えで46歳、人間50年下天の内にくらぶれば〜の当時、あと4年で平均寿命となり、そろそろ終活のお年頃です。


 そもそも通説に従えば、お兄ちゃんである秀吉は、養父である筑阿弥との折り合いが悪く、天文19年(1550)頃飛び出して、天文23年(1554)頃に尾張に戻り、信長公に小者として仕えたとされています。


 また父親、養父と伝わる筑阿弥は、脚に怪我をして戦働きできなくなり還俗して、仲さんと結婚、あるいは再婚相手になったとされています。


しかし脚を負傷したとしても、筑阿弥は会所のインテリア担当、人が死を迎える時に引導を渡す役目が主たる仕事の時宗の僧侶ですから、戦働きする必要はないのでは?

或いは僧侶としての仕事が出来ないほどの大怪我ならば、反対に嫁取りするのは、収入面でも、家事面でもお嫁さんに負担がかかり過ぎて異常な話です。

それは身分が低ければ、低いほど、あり得ない話になります。


また天文23年頃に小者として信長公に出仕したのは、信長公のお気に入りの小者、一若の同郷の中村出身の猿という実在の別の人物というのは、有名な話です。


 ということで、木下秀吉、秀長がどのような身分だったのかは定かではないのですが、後に権威主義の宮中で、皇族や公家達に可愛がられていたことを考えると、普通に一定の身分の血流をひく武家の子供、と考えた方が無難ではないかと思います。


 さて秀長はお兄ちゃんが飛び出した段階で、嫡男となり、木下家の家督を相続する立場になります。そして数えで13歳となる天文21年(1552)頃には元服し、主君が信長公ならば那古野城までいって、似たような立場の方々とともに、ご挨拶を申し上げました。

お父さんが戦働きもできないような状態であれば、この時点で正式な出仕がかなったことでしょう。


もし天文23年頃に元嫡男が帰参したとしても、秀長は数えで15歳、嫡男として成長儀礼に則って、何れかの戦で初陣を済ませて、そろそろ結婚話が持ち上がっていてもおかしくない年頃でした。


ところが彼は、いきなり帰ってきた兄に、素直に家督を戻して、自分は独身のまま、46歳まで過ごします。


確かに秀長には、木下與市郎という嫡男がいた説があります。

天正6年(1578)から8年(1580)に行われた播州征伐(三木合戦)の、最終戦、かの有名な「三木の干殺ひころし」の包囲網の武将名簿(『三木城寄衆次第』播磨鑑)にその名前が残っています。


また彼は森氏の記録では、那古野因幡の娘岩は「羽柴美濃(秀長)の息子の与一郎の室だったが、彼の死後、森忠政に嫁いだ」とあります。


まず那古野因幡は、名古屋因幡敦敏 (高久)のことで、彼は元那古野今川氏の連枝衆であり、勝幡織田氏に降った後、秀吉がおねさんと祝言をあげた折に、媒酌人を勤めたので有名です。

また彼の息子の山三郎さんさぶろうは、尾張一の美少年の噂が高かったので、岩さんも美人だったかもしれませんね。


話は戻りますが、三木合戦の時、秀長は羽柴姓であり、その嫡男が木下姓というのはおかしいでしょう。

同じ名簿に木下将監昌利という「秀長の連枝」と伝わる武将がおられます。

木下昌利は系図の分からない武将ですが、とりあえず与一郎は彼の関係者と考える方が妥当かな?と思います。


 では「秀長連枝」の木下氏はだれでしょうか。

連枝格なら家臣の賜姓木下とか、乳兄弟とか考えられますが、連枝というからには、秀長と血縁、婚姻関係にあることになります。

血縁関係の木下氏は、秀吉しか確認できておらず、後は嫁いだ姉妹の息子に木下氏を継がせたということになりますが、年齢的に合いません。


次に婚姻関係の木下氏といえば、おねさんの生まれた実家の杉原氏は、木下氏に改姓しており、その末っ子が嫡男家定と合わず家を出ています。

彼は加藤清正に出仕したと言われていますが、家定が1543年生でその10歳下としても53年生。加藤清正は1563年生まれなので、清正が家臣を取れるまでには少し時間が空くかな?と思われます。

もし姉の嫁ぎ先の弟の秀長の世話になったと考えると、何となく全体の道筋が見えて来る気がします。


 もしかするとおじさん関係者がいるのかもしれませんが、史料に残っている限りは、義弟の息子が、結婚しない秀長の養子格だったのかなという感じですね。


 さて話は更に戻り、お兄ちゃんの秀吉は、天正元年(1573)には、長浜城主になっています。

秀長は城主の数少ない連枝のトップとして、兄、家臣、領民の為に家を支える立場になります。


なかなか実子の出来ない当主の為にも、嫡流である兄の下へ、養子に出す子を作ることを期待される立場になったといえます。


何しろ秀長は兄同様、人としても武将としても優れ、家臣からも慕われていたと言います。

そうなるとただでさえ後継者となる養子は、他の家に嫁いだ姉妹の子供よりも、当家の傍流になる実弟の子供が望まれますし、兄弟共にもはや年齢も三十路に入れば、待ったなしの状況だったでしょう。


また兄に子供が出来たとしても、次代を支える為に、連枝として子作りはしなければならない立場に立ってしまいました。


まぁ子供が出来なかったとしても、他所の家との融和作戦に、城主連枝として嫁取りをするべき立場でありますね。


当時の武家の婚姻は政治で、それは当主が采配する仕事でした。

しかし主君である秀吉は、弟にそれを求めていない訳です。


非常に謎です。


 では秀長が結婚した天正13年(1585)、豊臣家に何があったのでしょうか。

それは、関白宣下により天下人となったことでしょうか。


ここまで嫁取りをしないことを許していた秀吉が、秀長子作り作戦に転換したのは、せっかく天下人になったものの、天下を譲る子供がいない(鶴松は天正17年生)という事情でしょうか?

妻の関係者や、他の家に嫁いだ姉妹の子では政権の安定が危ぶまれる……という?


そして気になるのが、その相手と結婚の経緯です。


秀長の正室藤姫は興俊尼という法華寺の尼さんで、しかも還俗して結婚して子供が出来たのではなく、出家の身でありながら、秀長と事を致されて、子供が出来たので還俗した、いわゆるデキ婚です。


尼さんに対して後の世ほどの清らかさは求められておらず、終活のお年頃でも血気盛んな戦国武将ですから、まぁ道徳的には宜しいのかも知れません。


では、何を問題としているのかというと、まず秀長がようよう行った子作り相手が尼さんという点です。


当時の尼さんは大きく分けて三種類あり、まず髪の毛をちょっとだけ削いで、在家のまま出家するのは、尼入道、これは殿の出家と同じですね。

出家と言っても、安産や病気快癒などの出家も含めますし、自宅の城屋敷でお過ごしになり、殿が亡くなった時には再婚したりしました。

出家といっても気軽なもので、尼入道のほか、尼女房ともいいます。


それから比丘尼というのは、当時では民間の巫女さんの事を指しました。


そして本格的に出家得度して、尼寺で修行している尼さんを、尼御前、尼法師、尼前と呼びました。

秀長の正室は、この本式の尼御前だった訳です。


 男色家だった三代将軍家光は、六条氏娘である伊勢慶光院の院主、後の於万の方の中性的な魅力に一目惚れし、還俗させて側室に入れ溺愛し、春日局死後は奥を束ねる役目につけ、終生側から離さなかったと言います。


 秀長も発展していく木下(羽柴、豊臣)家に於いて、お家の存続、繁栄の為に子作りしなければならない立場にありながら、長年責務を果たしませんでした。

その挙句に打掛姿の在家の女性ではなく、剃髪し染衣を纏った中性的な尼御前を子作りの相手に選んだというのは、家光と同じなのではないのか?

と頭を傾げている訳です。


しかも出家姿の尼さんと事を致されて、子供が出来たから還俗させて正室に迎えられた訳です。


女性を感じさせない相手を、押し倒して事を致す。

子供が出来てから、還俗させる。


子供が出来なかったら、正室に迎えなかったわけですかね?

疑問を感じるのは、私だけでしょうか?


一種の苦肉の策?


 そんな切羽詰まってからではなく、もう少し早めに尼さんを押し倒して、手を打っていれば、秀長が亡くなる1591年頃には成人前後となり、豊臣政権の行く末も変わっていたかもしれません。


秀吉の男色は得手ではない噂より、秀長の終活の歳で墨染の衣の尼さんを組み伏せたエピソードの方が、何故だ?と気になることでございます。


彼がもし女性がダメな方でしたら、秀長の性癖は、歴史を動かしたと言えるかもしれません。




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