信長公、家康公に見る[殿の若衆]

 若衆というのは、公的な立場の殿の男色の相手のことです。


殿が他の男性に手を出した時に「あんた!浮気したわね!落とし前つけなさいよっ!」と詰め寄れる立場に有りました。

この件に関しては、何度かこちらでも取り上げましたが、浮気がバレた独眼竜政宗や甲斐の虎信玄も、若衆のご機嫌取りに奔走しています。


正室は殿が側室をいくら設けようが、野合しようが文句は言えませんから、若衆の立場はなかなか古代ギリシャ的ですな。


 しかしそんな若衆は、殿が若い馬廻や小姓達の中から、自分の恋愛的な好みで選んでいる訳では有りませんでした。


 戦国期の主従関係の一番の特徴は、家臣たちとの雇用関係が流動的で、家臣たちは自らの意思で主君を選ぶことができる、つまり転仕が自由だった点です。

自由なんですが、勿論転仕にも暇乞いの儀礼、やり方があり、後ろ足で砂をかけるような形、一番が裏切りですね、そういうバックれ方をすると、場合によっては後々大変なことになります。


また、逃げ出すならまだ良いですが、この家はいいが、主君がダメだとなると、余りにも簡単に殿に謀反を起こしたり、暗殺したりします。


そうした家臣たちを慰撫し、末永く当家で気持ちよく働いてもらう為に、当主たちは家臣団のバランスを取ることは非常に重要な仕事でした。


何しろ殿を暗殺したり、謀反を起こす場合、「殿が誰かを不当に贔屓にした」「殿が男色に耽溺した」とされて、広く世間にそれが「正当な理由だ」と通ることを見ても、戦国時代の主従関係の常識が、少し違うぞというのが分かります。


このような状況の中で、自分の好みの近習を若衆にするというのは、ちょっと平安時代の公家や室町時代初期の守護職、或いは現代的な捉え方だというのをご理解頂けますと良いなと思います。


 「この子はこの大役に見合う実績はまだ無いが、任せたい」或いは「実家は微妙だけど、この子は見所がある」と思う人物を抜擢する時、家臣たちに「殿がエコ贔屓してる!」と思われせない為にはどうしたらいいのでしょうか。


まず「殿の親戚にする」という手があります。

相手の立場にもよりますが、養女を娶らす、姉妹、娘を娶らす。或いは本人を猶子にする。

その人の姉妹や娘を自分の側室にする。


また殿ご自身との繋がりよりも格は落ちますが、殿のご兄弟の娘や息子を与える、或いは家臣団では別格にあたる、殿の乳兄弟の娘や息子と婚姻関係を結ばせるというのもありました。


また「偏諱を与える」という手もあります。


また織田家のように、ある程度大きくなれば、朝廷から家臣に名前を貰ったり、官位を斡旋することも出来ます。


しかし、家臣団が無駄な嫉妬しないように、コントロールするのは難しいですし、そもそも全員を満足させるのは不可能でしょう。


特に相手がまだ若く未知数で、実家も主人への貢献度がない。しかし、この子を是非とも手足として働かせたい。

そういう時の奥の奥、最奥の手が、「若衆にする」でした。

勿論、閨の相手ですから、性格や容姿が自分の好みだという点が大きく働くのは否定出来ません。


 信長公の相手は、まず岩室長門守です。

彼は「信長公記」で、公の若衆であることが明記されています。

彼の考察は別に挙げておりますので、詳細は宜しければそちらをご覧ください。


簡単にいえば、那古野今川氏の客将幕臣岩室氏の孫息子で、父親は岩室家に婿入りした熱田加藤家の三男次盛。信秀が那古野城に入城した折に家臣化し、長門守を御伽小姓(遊び相手)、後の側室岩室殿を上級侍女に差し出したと考察しています。


一代記ながら、堂々と明記されているということは、当時的には公式なもので、恥じるものでは無かったことが分かります。


信長公も岩室氏もどちらも結婚し、子供もいることから、別段ゲイではなく、当時の常識のバイな生活を送っていたことが分かります。

またあの人は殿の若衆ですってよ!というので、嫁の来手がないという訳ではないのも分かりますね。


 この後、どなたかが居たでしょうが、若衆と明記された方はおられません。

個人的には、僧侶の息子で家臣の小姓(陪臣)出身の堀菊千代(堀久太郎)[✳︎注1]、正体不明で、苗字まで創作され、討死後に公を嘆かせている万見仙千代辺りが当てはまると思われます。


信長公の若衆は前田利家と言われますが、前田家は譜代の家柄ですし、どうでしょうか。

何処かで言及しましたが、「鶴の汁」の話は、奥御殿で集団生活時代の利家は、ヤンチャで喧嘩ばかりするので、何度も主人である公が自室に隔離した話……とも思えます。

また利家はこの後馬廻になりますが、歩兵からの出発で、転任された時に降格されています。

弟に養子口がまわっている事といい、これは小姓としてしくじったのではないか、と考えられます。


 また、有名どころで森乱丸(蘭丸)がおられます。

乱丸に関しては、亡くなっても公のみならず、皆から愛される別格中の別格、忠臣森可成の忘れ形見で、兄は目に入れても痛くない森長可で、乳兄弟池田恒興らの後ろ盾があります。

天下がまさに手中におさまりつつも、家臣団に大きな軋みがあったあの時期の公が、わざわざ定員一名の若衆枠を、出自に問題のない乱丸に使うか疑問があり、個人的には違う可能性が高いのではないかなと思います。


 次に家康の若衆は誰でしょうか。


 「家康の若衆は、榊原小平太だ」と武田家の「甲陽軍鑑」に書いてあります。

ま、本当かどうかはわかりませんが、他所の家の人が、他所の殿の男色の相手を知ってる、或いは話題になるというのは、結構オープンな関係ですね。


それは当時の「取次(外交官)システム」で、いかにこちらの事情、訴えを有利に殿に伝えてもらえるか、融通してもらえるかが、死活問題だったからではないかと思います。


勿論、重臣、連枝(親戚)が担う、こっち側の直接の取次の指南も重要ですが、そもそも目的の殿に伝えるのは、取次のうちの小指南の近習ですから、この指南は、どの小指南が担当しているのかは、非常に気になるところだったでしょう。


拙作「取次」で書きましたように、この頃の取次は、殿が命令してなるものではなく、個人的な繋がりが公的に適応されるものでしたから、チェンジも可能です。

誰が相手の殿のお気に入りかは、重要な情報だったことは確かです。


 さて榊原小平太は今一つはっきりしない出自ですが、松平家の古くからの家臣の一家の酒井家(酒井忠次とは別の家)に仕えていた一族で、この酒井の殿は、家康とは別口で、駿河の今川家に出仕させられていたといいますから、殿の酒井家自体が、有力な家柄だったようです。


ところが酒井の殿は、家康が桶狭間後に独立を宣言した時に、「冗談じゃねぇや!俺は俺で勝手にやらせてもらうぜ!」と、素直に集まらなかった人たちのうちの一人になります。


その頃酒井家の家臣の榊原家の次男、後の榊原小平太、幼名亀千代くんは元服を控えた13歳。

何がきっかけなのかは分かりませんが、突然家康自らにスカウトされて、小姓になったそうです。

主君の家康は数で19歳。6歳違いの若い主従でした。前の若衆は今川絡みで、新規募集中だったのでしょうかね。


またこの頃の正式な出仕は、元服を持って記録されるので、流れを見ると出会いはもっと早いかもしれません。


同じく陪臣からのスタートの堀菊千代は、自分の家臣の家臣ですが、亀くんは違います。

主人が反乱中の陪臣の子弟を自らの小姓にというのは、破格も破格、相当で、異常の域に達しています。


よほど小平太に見所があったのでしょうし、後の彼の活躍を見ると、審美眼がありますね。

流石、権現様の征夷大将軍です。


小平太が小姓になったので、実家の榊原家は一族で、徳川家に転仕します。


酒井家の切り崩しという意味もあるかも知れませんが、やはり……相当、小平太が気に入ったのでしょうね。


その後元服し、「竹生島事件」の高天神城合戦の勝利について、太田牛一が家康の功績を絶賛していたうちの一つ、三河一向一揆で初陣を果たし、その功績で家康から偏諱を与えられたとされています。

小平太は優秀な武将であると同時に、非常に円満な性格だったらしく、周囲の小姓仲間と親友になっていたことが成長後、分かっています。


また次男であったにも拘らず、家督を相続したとも言われています。確かに小姓が元服後の名前で呼ばれる場合、家督相続をしていることが多いので、そうかもしれません。

しかし、この家督相続は、小平太の兄が家康の長男信康付けだった為、信康自刃後に自責の念での自主謹慎中の名代家督(実子が育つまで代わりに家督をとる)だったとも言われています。


その後も本能寺の変の折にも、家康に同行していまして、主従手を取り合って三河に逃げ帰り、なんだかんだと徳川三傑に数えられています。


徳川三英傑とは、本多忠勝、榊原康政、そして井伊直政です。

「甲陽軍鑑」は「家康くんは、井伊直政の美貌に参って若衆にした」とヒソヒソしています。


井伊直政のことは、よくご存知のことと思います。元々は今川支配の遠江の名族井伊氏に、桶狭間の翌年の永禄4年(1561)に生まれます。

その後家が滅亡して流浪のおり、数えで15の天正3年(1575)、浜松城下で家康の目に止まり、小姓にスカウトされます。


……直政くん、浜松城下で、小姓としての才能を発揮するようなことをしていたのでしょうか。


一応、この頃転仕自由と言っても、新しい殿に仕える場合、基本的にはその家の家臣の仲介による、いわゆる縁故採用になります。

ということは、もしかすれば、徳川家も井伊家も、共に元今川家に所属していた家なので、直政の傅役とか老臣が、出入りが自由な城下で顔見知りの人を探していたのかも知れませんね。


とはいうものの、間者かも知れない流浪の美貌の少年を、小姓にしようなんて、慎重居士の異名を持つ権現様とも思えない唐突さです。

家康に詳しくないので分かりませんが、直政は容姿が優れてたと言いますから、一目惚れ説が脳裏に浮かびます。

小平太くんに続いてのこれで、若衆に関しては家康氏、かなりアグレッシブですな。

さすが肝の座った三河者です。


この頃、榊原小平太康政は数えで28歳、そろそろ御褥おしとね滑り(同衾遠慮)をしたいお年で、丁度良かったかも知れないですね。いや、他に居てたかも知れませんが。


当時のイケメンは現代とはちがい、白塗りの武者姿が似合うような顔デカで、美女とはお盆のような丸顔か、能面のような公家風の瓜実顔らしく、小平太くんと直政氏、二人の肖像画を見てみますと、どちらも顔デカの整った顔立ちで、素晴らしい美貌をほこっていたような気がします。

いやぁ、神君家康公は面食いですな!


 さて太閤秀吉にも言及したいところですが、一応男色は嗜まなかったという話が伝わりますので、今回はこの辺りで締めておきたいと思います。


✳︎注1

堀秀政の出身は美濃国厚見郡茜部とされており、それに準じ「美濃の僧侶の子」としていましたが、美濃と尾張の境目になる木曽川が当時、現在の境川の場所を流れていた為、茜部は尾張に属していました。

訂正致します。

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