戦国期の婚姻

戦国時代とその前史の結婚と離婚

 古来よりいくら堅く契りを結んでも、共に白髪となるまでご一緒する関係になるとは限りません。

今回は戦国時代に至る結婚、離婚の実態について、ざっとにはなりますが、見ていきましょう。


 まず日本の結婚の形態は、夫側が妻側の家の名跡を継ぐ場合を除き、夫婦別姓になります。また基本的に親夫婦と若夫婦は、同居しない方向性でした。


 古来、離婚の条件というのは、古代律令法(男性①無子②淫佚いんいつ③舅姑への不孝行④口舌⑤盗癖⑥妬忌⑦悪疾。女性①婚約から3ヶ月経っても式が行われない②夫が国内1ヶ月、海外1年行方知れずの場合③夫が徒罪以上の罪を犯した場合)で定められていました。


しかし基本的に鎌倉はじめくらいまでは、貴族層も庶民層も、女性側の家へ通う妻問婚が主流です。男性が自らの気に入った、或いは親同士の決め事で女性の家に夜中に通い、夜明け前に退出します。

しばらく通った後に、執婿の礼(結婚式)が執り行われ、女性側の家での同居生活が始まります。こうした二世帯同居は、避けるべき事項とされていましたので、これは過渡期の姿として存在をしました。

一定の期間が過ぎると、妻側の親が新居を建てて引っ越して行くか、若夫婦の為の新たな屋敷を、妻側の親か夫自ら建ててそちらの方に移動します。この時代では妻が夫側の親がいる屋敷に住むことはありませんでした。


この頃は親の家屋の相続権は娘にあり、息子は親の地位と所領を持ちました。

つまり貴族の離婚とは、夫側が帰ってこなくなることを示し、そうなると親から娘が独立している場合、娘は収入が断たれることを表しました。男親が健在の場合や兄弟、また息子が立派な場合は支援が取り付けられ、なんとかなりますが、男性の身内がいない場合は、相当な苦労があったようです。

しかし多くの場合は離婚というのは、そこに至る前に気が付くと足が絶えており、いつの間にか縁切れになっていたというゆるさだったことは、皆様よくご存じのことと思います。


 庶民に於いても、婚姻は妻問婚であったことには変わりありません。

しかし『今昔物語』のなかには、男性側が地方豪族で法師の娘を娶って、自分の住居に住まわせていましたが、父母と上手くいかず、妻を去らせたという話も載っています。こうした場合は、離婚の希望を通告された妻は話し合いをした後に出て行ったそうです。離縁を通告する側が女性の場合は、舅姑に報告し承諾を得て、家を後にしたそうです。

妻の家財は妻側の個人財産であり、また結婚に際して運び込んだものは、妻に所有権があるとされて、全て持ち去ったそうです。


また結婚した後に夫が大きく出世したり、妻に帰る家がない、舅姑の喪を務め終えている場合は、何があろうと男性からの離婚はできないとされていました。

とはいうものの、ゆるゆる時代なので、そういう決まりがあったよという感じです。


 鎌倉時代になり、武士の時代が始まると、鎌倉幕府下では家長制度の一夫一婦制(側室は家臣扱)で、夫婦は夫側、妻側限らず、婚姻と共に一つの屋敷に住まう結婚形態が主流になります。

勿論、同居するのは若夫婦のことで、親世帯は別になります。


建久2年(1191)左大将九条良経と一条能保(妻が頼朝の同母妹、つまり熱田大宮司千秋家のお由良さんがお母さん)の娘坊門姫と結婚するにあたり、婿殿を迎える家を用意出来なかった能保の為に、頼朝が九条家に東国の風習の嫁取婚を勧めると、「正式なのは婿取婚(婿迎え)にて」と断り、頼朝も主張を引っ込めている様子が『玉葉』(九条兼実の日記、良経の父)に書かれており、これが公式的な婿迎え婚の最後の例と言われているそうです。


この後、摂関家の婿迎えで不吉な事例が重なったことから、妻側が夫側に入る形が公家でも盛んになっていきます。

嫁す時に父親の家から新たな家へ移るために行列が組まれることになり、これが嫁入り道中の原型となり、当時はこれを「御渡り」と呼びました。父親をはじめ家人たちは道で静かに娘の行列を見守りました。

迎える側では平安時代と同じく、一時的に同じ屋敷に住うことはありましたが、基本的に親世帯が出ていくか、息子夫婦に新居を用意することになっていました。


 鎌倉時代の夫婦は、家長制度によって一番偉いのは一応当主でしたが、二番目に偉いのは嫡男ではなく家長の妻であり、妻は自らの所領を持つ他、夫婦共同で所領を知行し、家臣団を含む家中の様々な事柄を采配する共同経営者で、基本的にその立場は対等だったと言われています。

ですから旦那様が亡くなられた時の遺産相続は非常に微妙で、婚姻後に家が大きくなった場合、嫡男より妻の方が遺産相続分が大きいということもあり得るわけで、頼朝亡き後のアレってソレでは……


武家の「嫁す」という文化が根付いていく中での離婚は、『御成敗式目』によって男性からは①重科②無子(特に男児)③淫佚が当てはまった場合、話し合いで離婚することができました。

また婚姻は家と家との結びつきを現すものになりましたので、妻問婚の平安時代と異なり、離婚の折にはそれを広く知らしめることが必要になりました。

また離縁したことを証明する証の存在が、上流階級では確認され始めます。この頃は去状と呼ばれ、離婚の際に夫側が妻へ渡すものだったようです。


 この時代の庶民の結婚も、相手の家に「嫁す」という形になっていきます。武家たちの方もそうなのですが、これは女性が男性側の屋敷に入るというだけではなく、男性が女性の家に入る場合も含まれます。


そうなると、庶民の離婚というのもやはり、「家から出る」という形になり、それを「サラルル」と称するようになっています。

男性の離婚の条件は武家と同じようですが、女性の場合は地頭に訴え出ることで認められました。地頭は両者を呼び出し、裁判を起こします。

地頭が夫の非を認めると、夫は村から追い出され、妻は屋敷を安堵され、公事を免除されました。

地頭に離婚が認められない場合は、家中の財産をまとめて逃亡するようです。


この家の財産をまとめて持っていくというのは、非常事態でも非常識ではなく、慣習として認められたもので、「人の妻のさらるる時は、家中のもの、心に任て取る習なれば、何物も取り給え」『沙石集』(無住道暁編纂。鎌倉時代中期 仏教説話集)とあります。

この家の物を持って出ると言うのが、時を経ると庶民の「離縁の証」になっていきます。


また婚姻できない庶民に於いては、『御成敗式目』を見ると男児が生まれれば男性側に、女児が生まれれば女性側に「子わけ」するという制度がありました。

これは下人と呼ばれる庶民で、家族を持つことが不可能であり、これ以前の時代に於いてもそうであったのではないかと思われます。


 南北朝時代が過ぎて室町時代にはいると、鎌倉幕府へのアンチテーゼでしょうか、女性の地位が少しずつ下降していきます。

婚姻後夫婦は一つの屋敷に住みますが、入婿を除いて夫側に限定されるようになっていきます。婚姻に際して、夫側が費用を負担した場合は「嫁取」、妻側が負担した場合は「嫁入」と区別されているのがこの頃の特徴です。

嫁を迎える屋敷は、全くの別宅と言うのは難しくなっていき、敷地内に屋敷を建てる形が増えていきます。また公家などで経済状態が悪い場合は、それすらも難しくなり、かまど(台所)だけ新築して、同一棟に居住して貰う形になっていきます。とは言うものの、公家は元々の屋敷が大きいので、さほどの閉塞感は無かったのかもしれません。

式は迎え入れる側であげた後、吉日に実家の方でもう一度式(執婿式)を行いました。


武家において共同経営者としての妻の立場は時と人により、概ね主人が重臣たちと評定をしつつ采配するのが主流になっていきます。また領地の共同制は消えていき、妻は自分の所領のみを所有し、夫の遺産に関しても妻が受け継ぐことは基本的にありません。


また、ここでようやく、お互いに貞節を持つべきだという考え方が現れてきます。

と言っても、女性は結婚したら、他の異性に心動かすべからずとし、かなり厳しいことを言うのですが、夫に対してはソレはありません。

ただし妻が亡くなって新たに妻を娶る場合、先妻を忘れることなく、所領の半分を遣い先妻の菩提を弔うことを勧めています。

また男性が、50を過ぎて再婚をすることは良くないという考え方が提示されています。


 離婚の条件はほぼ鎌倉時代と変わりはありませんが、まず第一に再び子供、特に男児が生まれない場合が来ており、「家」という意識が更に強くなっています。

またこの時代の特徴は妻は家にあり、夫の精神的な補佐としてあり、ここからお互い逸脱する場合は離婚も止む無しとしています。


また妻が離婚を申し立てることを「いとまを乞う」と言い、「暇を乞」われた夫が「暇をつか」わさない場合、妻は家出をして尼になることで、夫から逃がれることが出来ました。

自分の生存中に妻が家を出て尼になることは、非常な恥であるとされていましたので、寺へ駆け込まれた時点で、夫は「暇を遣わせる」ことになり、去状である「暇状」を書いて渡します。


 庶民においても、女性側が嫁ぐ形が一般で妻は内助の功をするべきであると言う考え方が、主流になっていきます。立場は家長である夫に従属的になり、例えば京の土倉の主人や、一家の主に女性の名前が激減していきます。


婚姻後に手に入れた土地などであろうとも、その所有権は夫にのみあり、妻の財産権はありません。また娘の遺産相続権も無いか、ごくわずかになり、嫁いでも離縁されれば、社会からドロップアウトする危険が出てきました。

父親が情の深く金銭的な余裕のある人物であれば、置き文(遺言)として遺留分を指定してくれる場合もありますが、そうでなければかなり厳しい生活が待っており、尼寺に駆け込むことが増えていきました。


 世が乱れ戦国時代に突入すると、武家層の婚姻は同盟関係や主従関係などの絆の印の意味が強くなっていきます。それによって、一旦低下していた女性の地位が、上向きになりました。


大名同士のみならず武将同士の婚姻でも、妻は相手の家の特命大使(取次)であり、自分の家に何かあったときの保証にもなりました。婚姻関係を結ぶことで、何かあった時に人手を出して貰うなどの武将同士の互助システムが働く形になり、折に触れて当主同士が贈物をしたり、顔を合わせたり、交流を深めている様子が『家忠日記』にも見られます。


こうした家同士の結びつきを破棄することを示す離婚は、「和平の破棄」を示す大変な事柄になりました。

基本的に和平が破られ結果として離婚に至るのですが、池田家三女のように自らの意思で離婚を選択する方も居られなくはありませんでした。

(拙作「戦国時代の女達 池田三姫」)https://kakuyomu.jp/my/works/1177354054890230802/episodes/16816452218422202364

この時には三姫の兄である池田輝政が、妹の代わりに養女を山崎家へ嫁がせ、縁を繋いでいます。


婿養子の場合は妻が気に入らなければ離縁を申し立てて、別の女性を妻にすることは可能でした。しかしその場合は、その家の名跡、名字は辞退をするのが道理であると、『結城氏新法度』(弘治2年制定)に書かれています。


 またルイス・フロイスの文書などを読みますと、「離縁は王から農夫までしばしば行われ、少しも怪しまれない」。また「夫が妻を離別するのが普通である。日本ではしばしば妻が夫を離別する」と書かれており、離婚が庶民でも日常的に行われていたことを示唆しています。


 さて去状に関してですが、狂言が成立したと言われる室町時代に「箕被みかずき」という演目があり、これに妻が離婚を申し立て、夫に離縁の証である「暇の印」を求める姿が描かれています。この夫婦は庶民で、その「暇の印」はだったそうで、それを頭の上にかずいた、つまり掲げた姿から夫は「三日月」にかけた歌を妻に詠みかけ、気の利いた歌を返した妻に惚れ直すというあらすじです。

このように庶民では文書ではなく、夫から物でもいいので受け取って「離縁の印」にすることで、再婚が可能になったと言われています。


伊達家家訓集『塵芥集』(天文5年制定)に「婦夫めおつと闘諍いさかひの事、その婦猛きにより、夫追い出す。しかるにかの婦、夫に暇を得たるのよし申、改め嫁がんことを思ふ。その親兄弟、もとの夫の方へ届にをよばずして、かの婦、夫を改むる。今嫁ぐところの夫、女ともに罪科に行ふべき也。

ただし離別紛れなきに至っては、是非にをよばざるなり。

しかるに前の夫、半ばは後悔、半ばは今最愛の夫に遺恨あるにより、離別せざるよし問答にをよぶ。暇を得たる支証まぎれなくば、まへの夫罪科にのがれがたし」

「暇を得たる支証」がなければ、離婚は無効であったことが分かります。


「離縁状」「三行半」は江戸時代の風習として認識されていますが、上記の通り鎌倉時代から確認されているようです。

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