津島仮装盆踊② 津島と堀田道空(堀田道空)

 堀田氏は、津島神社に残る系図によると、八坂氏直系(橘氏)の子孫の祇園執行八坂(堀田)俊全の子の系統で、尾張津島天王祠官堀田俊重の子孫だそうです。

八坂神社(当時は祇園社)と津島神社は同じ牛頭天王社ですから、八坂氏である堀田氏が津島で杜家をしていることに違和感はありません。


そして堀田道空ですが、彼自身のことは史料にほとんど残っていません。

堀田家の家系図には、道空の名前はありません。道空というのは法名ですから、俗名で載っているのかもしれないのですが、道空の俗名が伝わっていないため分かりません。

同時代の資料にもないので、なんらかの意図があって、「道空」という名前を太田牛一がつけたのかもしれませんね。

道空といえば、通常室町時代の曹洞宗の僧侶真巌道空です。

或いは「道」「空」と続けてあるもので浮かぶのは、菅原道真の七言律詩「停習弾琴」(『菅家文草』巻一)ですが……どうでしょうか。

まあ、この辺りはまた稿を改め、見ることにしましょう。


通説では、年代的に堀田正定(系図によっては正貞、後の道悦)、或いはその息子の正高や後に前田利家の与力となる正秀が道空ではないかとされています。


『尾張群書系図部集』『尾州雑志』によると、正定の父、正道から勝幡織田氏に仕えたとあります。


 『美濃国諸家系譜』に、堀田正道のことが書いてあります。

「文亀三年癸亥◻︎月生於美濃国厚見郡菅生 母加賀守通利女也 或又日根野加賀守利就女共云々 室明智城主明智駿河守光継女也 仕斎藤山城守秀龍入道道三 始住厚見郡菅生城 後住同郡中島城蓋為斎藤道三長臣 所謂堀田正元入道道空 春日丹後守定藤 林駿河守通政入道道慶 河村備前守良迪 川島掃部頭唯重 道家助六郎定重 竹腰摂津守道陣等之右為家老職 天文十年 正兼為媒酌相談平手中務政秀以斎藤道三之息女嫁織田信長


弘治元年乙卯十二月八日死 年五十二歳 葬岐阜今泉常在寺」


文亀3年(1503)美濃の厚見郡菅生の菅生城で、道空の父堀田正道が生まれたと書いてあります。


この菅生村というのは、長良川北岸の村で現在の岐阜市菅生、西島の辺りになり、茜部と同じく寺社領だったそうです。

正室には、東美濃の土岐氏の支流明智長山城の明智駿河守光継の娘を迎えたとあります。

明智光継は、応仁2年5月20日(1468年6月19日)に生まれ、天文7年3月5日(1538年4月14日)に亡くなったそうです。

嫡男は明智光安(1500〜1556)。

光安の姉妹にあたる娘の一人が、斎藤道三に嫁ぐ小見の方です。堀田正道と斎藤道三は、相婿になるわけですが、残念ながら、堀田正道に嫁いだ娘は記録されていません。


そして厚見郡の中島(現、岐阜市西中島)へ移ったと書かれています。


それから突然、堀田正元(道空)という名前が出てきて、林駿河守通政入道道慶 河村備前守良迪 川島掃部頭唯重 道家助六郎定重 竹腰摂津守道陣と信長公と道三娘の婚姻の相談をしたと書かれています。この辺りは皆、平手政秀(世良田氏と伝わる)を含めて南朝方の関係者ですね。


更に父親である正道は、弘治元年(1555)に12月8日数52歳で亡くなり、岐阜今泉常在寺で弔ったと書いてあります。


しかし津島の堀田家が何故美濃の厚見にいるのか……

『美濃諸家系譜』は伝えます。


「母祖父江駿河守頼徳女也 住尾州津島 明応九年庚申三月於津島戦織田大和守敏信同弾正忠信定等 打負美濃国落来 仕土岐美濃守政房 住厚見郡菅生村 後仕政房之子左京大夫頼芸 天承四年甲申七月 尾州津島之十一党大橋岡本山川等一所於濃州石津郡早尾村相戦織田備後守同彦五郎信友等 討死年五十一歳云々


或一伝曰 大永四年甲申七月 於早尾村正道戦死 後其子政兼初而美濃国落来 属土岐頼芸共云々」


明応九年(1495)3月に大和守敏信と織田弾正信貞が津島を襲ってきたと書かれています。


しかし明応5年から明応9年9月にかけて『大和守』を名乗り、守護代として書状を出しているのは織田寛村です。敏信(敏は前武衛義敏の偏諱)は、守護代ではなく尾張守護斯波義寛の側近として動いており、彼の息子が岩倉織田氏の名跡を継ぎ、織田信貞の娘を正室に迎えた伊勢守信安であるとされています。

信安は「斯波義寛と共に京にいた」という逸話がありますので、敏信、信安親子は斯波氏の側近をしていた家かもしれません。


この出来事は津島に記録がないため真偽は不明ですが、明応以降も相変わらず繁栄しているにもかかわらず、宿老格の堀田氏が津島を捨ててトンズラするのは、いかがなものかという疑問が残ります。


次の「天承四年甲申七月」というのは、「天承」は1131年から1132年までの2年しかなくて……もしかすると「或一伝曰(ある伝承によると)」以下の話もあり、大永の間違いかもしれません。漢字もちょっと似てますしね。


大永4年(1524)には「大橋の乱」が起きています。

「一所於早尾村相戦織田備後守同彦五郎信友等 討死年五十一歳云々」

『備後守』は、正式に信秀に対して朝廷より与えられた官途で、どうしようもなく「織田備後」は信秀ということになります。

確かに翌大永5年、文書に「霜台(弾正の唐名)息」として、信秀は登場はしてはいますが、大永4年は数えで14歳……初陣でしょうか?

また守護代はこの時期信友ではなく、まだ達勝ですから、未来の守護代とともに14歳の若武者が、他所の国である、そして丁度土岐氏の家督争いが一段落している美濃の早尾村に討ってかかるというのはどうでしょうか。

また手持ちの資料には、当時美濃の石津郡早尾村という場所はなく、津島と渡しで繋がっている尾張の海西郡早尾村しか……

大橋家にのこる記録では

「大永年中、織田と諍論数度に及ぶ、同四年之夏、織田兵、津島を焼く、早尾の塁に退き又戦う。此時、津島中并寺社什物官符等焼失云々」

とあります。

この早尾村は代々恒川氏が治めておられ、永禄4年(1561)の森部合戦で、斎藤六宿老の一人日比野清実を討ち取ったのが、当時の当主恒川久蔵長政ですね。彼の息子は信忠に出仕しています。


まぁ、このことでなければ、もしかすると天文13年(1544)信秀が行った大垣城攻め(当時の呼び名は牛屋城)と混同としているのかもしれません。


とりあえず……翌弘治元年に亡くなる正道は、その前にこの戦で亡くなったと書かれており、まぁ色々と何か矛盾とか、尾張の記録とは齟齬があるとか、まぁそういうことです。


ということで、『美濃諸家系譜』、どうなんだという感じではありますが、津島の宿老格の堀田家が、美濃で土地を宛行われるというのはない話ではありません。


 少し話がぐるりと飛ぶ感じになります。

尾張の記録によると堀田正定(道悦、道空か?)の正室は、大橋重一の娘になります。大橋重一は三河の大河内氏(家康の祖父松平清康の母は大河内氏娘、つまり親戚ですね)に嫁いだ大橋定安の娘の子で、祖父の養子として大橋家の家督を継ぎました。ところがその後に太郎という男の子が生まれてしまいます。

これがくら姫のご主人の大橋重長になります。


くら姫と重長の婚姻により同盟が結ばれて、織田家に出仕した津島の長老クラスの人物の一人が、当主(大橋家)の御一門衆にあたる堀田正道。そしてその跡を正定(道空)が取ったということになるでしょうか。


私たちが『信長公記』の中に、彼の姿を見るのは、天文22年(1553)4 月下旬の斎藤道三との「正徳寺の会見」の席です。

この場面で道空は、道三の家臣のように言われる処なのですが、当時の当主同士の会見では、お互いの取次同士が遣り取りをして、場所の設定や席次、何人ほど家臣を連れてきて、彼らをどうするか、お互いをなんと呼んだら良いのかなど話し合い、一切を取り仕切ります。

勿論、その内容は殿たちに知らせて承認を得ますし、会見の様子は本城に伝えられ、そこから武将たちの耳に入ります。『信長公記』の著者の近習である太田牛一が、会見の様子を些細に知っていたのはそのためです。


この会見は尾張と美濃の間の土地である東大寺社領の茜部が選ばれているところ、会食の内容からしても、当時の当主同士の正式な会見の常識、マナーを踏んでいることが伺われます。


自分の城の常御殿の中ですら、一人になることのない殿は、他所の家の家臣のいる他所の領地の屋敷やその屋敷の部屋に、なんの保証もなく入ることはありません。


基本的に彼らの顔双方を知っているのは取次や小者だけになり、彼らが揃うことで当主たちへの保証になります。


つまり春日丹後が道三側、道空が信長公側の取次だったということになり、少なくとも道空が当時、織田家で美濃の取次(指南)をしており、信長公と道三の顔を直接見ることのできる近臣であり、重臣であったことが分かります。


つまり堀田家は津島、後に織田家において、対美濃の取次をしていたのではないでしょうか。

優秀な取次は、相手の家で土地を宛行されることがあります。

ということは堀田家が杜家であるという事情により、菅生が寺社領というのもなるほどなという感じをうけます。

(何故か、歴史関係で影響力をお持ちの方でも、取次の存在や役割をぬけ落としたまま論を張っておられるので、ご注意ください。もしお時間ありましたら、拙作の取次シリーズをご参照くださるとありがたいです)


 さてではここまで見てくると、この踊りが何故、他ならぬ堀田道空の屋敷で行われたのか、ということが何となくわかります。

それは道空が津島の宿老格の家であり、織田家の取次を任されるような信頼のできる重臣であったからでしょう。

また取次というのは、一人、一つの家だけを指南しているとは限りません。

道空は美濃と織田家、そして同時に津島と織田家の間に入る取次をしていたかもしれません。


道三が亡くなると、斉藤家滅亡まで美濃と織田家は敵対した為、道空の活躍の場はなくなってしまいます。

もしかすれば広い津島の人脈を活かし、他の家を指南していたのかもしれませんが、歴史の流れの中に埋もれていってしまったようです。


 ここで一度再び道空についてみます。

道空であるとされる正高、或いは正秀は、後に前田利家の与力となったと書かれています。

津島を背景にして、広い人脈を持ち重臣として活躍していた道空が、次代である信忠、伊勢神戸家に入る信孝、伊勢北畠家に入る信雄ならまだしも、或いは越前、越中、越後に影響力を持った津島衆ですから、そちら方面を任された柴田勝家ならまだしも、たとえ多少縁があったからといって利家の与力につけられるかというのは微妙な話です。


道空亡き後、尾張一国から濃尾平野を手にした信長公に対して、別の津島衆が台頭するかし、力を失った堀田家ならあり得るかもしれませんし、本能寺後の利家ならあり得るでしょう。

しかし正徳寺の会見で重役として出てきた道空は、豊臣政権時には若くとも60代。

本人が与力としてつけられるかというと、どうなのでしょうか。


それを考えると、道空=正定あたりが妥当な気がします。


また『仙石家譜』には、面白いことに仙石秀久の正室は、堀田加賀守紀正道(堀田氏は紀氏)の娘とあります。

ということは、堀田正定の姉妹が仙石秀久に嫁いだということですね。


一定の身分の武将が転仕すると、新たな主家の娘や譜代の家臣の娘が輿入れします。当時の婚姻は、取次機能を持っていますので、これはお互いの保証になります。

或いは、自家の次男以下の息子、弟、妻や娘を殿に出仕させます。

これも意思疎通のために、大切なことでした。


兄たちが次々と斃れ、急遽仙石家の家督を継いだ秀久が戦さ場に出てきて、敵の大将織田信長公にスカウトされた時、彼はまだ数えで14歳だったと言いますから、丁度嫁取りの時期に差し掛かる頃で、転仕されるには良いタイミングだったのでしょう。


しかし正史には、堀田道空の姉妹ではなく、野々村幸成の娘とあります。

野々村氏は南朝十五党の四姓です。

強い影響力を持った津島衆の娘を頂いたということでしょう。


なんだか戦国史の裏には、南朝十五党あり、という気がしてきますね。


次回は祝氏、浅井備中、平手内膳を見ていきます。

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