家督を継ぐ②名跡と名代家督

 殿の色々な都合で、養子を取る場合があります。

そうした場合、継ぐのが「家督」「名跡」の2パターンが出てきます。


家督と名跡、この違いはなんなのでしょうか。


 養子を取る場合一番好まれるのは、殿の同母弟か、その同母弟の嫡男です。


基本的に「嫡男」という名称が付く人は、新しい家を立てたり、家を継ぐ権利を持っています。


嫡男ではない人、つまり側室の息子は、基本的に問題外と考えられます。


同母弟がおられない場合は、前正室の元嫡男が選ばれますが、この辺りがおられない場合、側室の息子さんを支持する家臣が出てきたり、おじさんやら甥やら、なんやらかんやらで、混迷を極める事態になりがちです。


勿論例外というのは常にあり、同母弟や、その嫡男に問題があり、側室腹の弟や同母弟の側室腹の息子ではあるけども、本人の実力が確かで、非常に家臣団からが慕われていたり、殿の力が強く、目が黒いうちに禅譲したり、置文をしていたりするとまた話は別でしょう。


こうした殿と血縁関係にある男児が、跡を取る場合は、どんなに争ったとしても「家督を継ぐ」と言います。


また先の大殿の同腹のご兄弟、その嫡男などが家を継ぐ場合も勿論「家督を継ぐ」になります。


 次に男児に恵まれなかったり、殿が戦に負けたりして、婿養子を迎えることがあります。

この場合、次期当主になる養子は、血はつながりませんが、お嫁さん側からは血が繋がりますので、これも「家督を継ぐ」になります。


 ではそれに対して「名跡を継ぐ」といわれる場合は、どのような時でしょうか。

これには、2パターンあります。

まずは殿(或いは先代)と血が繋がらないし、殿の娘と結婚もしないけど、養子にやってきて、家を継ぐというパターンです。

新たな殿は、近習たちを連れて家に入り、苗字、城、家臣団、全てを引き継ぎます。

その家のしきたり、文化は、多少変わっても、途絶えることはありません。

しかし、血流という意味では断絶します。


もう一つは、こちらも血の繋がりのないのですが、殿の家の名前というのか、格式を継ぐというパターンです。

こちらは、苗字は引き継ぐんですけど、家臣団や城は、時と場合によっては引き継がないこともあります。

いわゆる名前だけを残す、というやり方です。


これは戦さで落城して殿一族が滅んだりした時に、勝者側が名を惜しんだり、その領地経営的にプラスになるとか踏んで、自らの息子や重臣に名を名乗らせるということです。


また血がつながらないといっても、マルっと繋がらない場合もありますし、何代か遡れば繋がる関係性はある、という場合もあります。


家康はわりと、三河を取り戻してから、名跡を継がせることをしています。


ここでもたまに出てくる東条松平家の当主家忠が、天正9年に若くして跡目を残さず亡くなります。すると家康は、天正8年に生まれた四男忠吉(忠康)に、東条松平家の家督を継がせます。

この時、この家督相続は「名跡を継ぐ」、あるいは「格式を継いだ」と称されています。


一応、遠くはなりましょうが、三河の松平家は同根であり、親戚筋にはなるのですが、あえて「名跡」の言葉を使うところに、家康の慎重さを感じます。


またこれは家康の松平宗家は「徳川家」、それ以外は「松平家」という意識があり、線引きをしたとも考えられます。

家康が育った、「天下一苗字」の今川家(今川を名乗れるのは、今川嫡流のみ)を見て、そのプラス点をよく知っていたのでしょう。


 そして家督や名跡を継ぐ中で、自分は当主を名乗るけれども、自分の息子には跡を取らせない、という場合があります。

こうした場合、「名代家督」と言います。


また養子の中でも、「猶子」と呼ばれる立場の方がいます。

これは猶父が、猶子の後見人になる意味合いが強く、猶父の家の家督を相続することは、通常はまずありません。


豊臣秀吉は、近衛前久の猶子になっていますし、秀吉自身も八条宮など多くの猶子を持ちました。

しかし秀吉の跡を、彼らが取る話にはなっていません。


相続権のない猶子ですが、何かの拍子で、当主になる場合もあります。

こうした時には通常、一代で殿の親戚に戻すことになるのですが、そのまま猶子に相続権が移ることもあります。


 第17代周防大内氏当主である大内義長(大友氏)は、天文12年(1543)母方の叔父になる16代大内氏当主義隆の猶子になり、足利義晴から偏諱を受けて元服をしました。

義隆の息子は少し前に亡くなっており、義長は猶子とはいえ、実子が生まれなければ家督相続させるという含みがあったと言います。

しかし天文14年になると、義隆に実子が生まれ、義長は実家に戻されました。


ところが天文20年、義隆の重臣、陶隆房が義長を担ぎ、謀反を起こし義隆親子を殺害します(大寧寺の変)

これにより義長は、大内家の当主となりました。

この義長は、陶隆房に翻弄された挙句に、毛利元就に攻められ、また実兄大友義鎮に見捨てられ、弘治3年(1557)自刃し大内家は断絶しました。

もし義長が生き延びれば、彼の息子が大内氏を継いだことでしょうね。


義長は名家大内氏を継ぐことに、野心を持っており、実兄である大友義鎮は陶氏の甘言に乗らないように忠告をしていたそうです。

後に大内家の家督相続の決定権は、大友義鎮に託されました。


 家督相続というのは、なかなか難しいものですね。

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