『信長公記』とは何か

 『信長公記』とは、信長公の馬廻だった太田牛一が書き記した、織田信長公の一代記になります。


ところが、この『信長公記』は読めば読むほど、不可解になっていく書物なのです。


確かに公の人生の折々の逸話を書き記していますが、同じエピソード、死んだはずの同じ人物、同じテーマが、所を変え、ある時は名前を変え、何度も、何度も繰り返し現れて来たり、写本なので仕方ないのかも知れないのですが、言葉選び、名前、年代などに、不可解な不適当さ、誤りがあります。



 著者である太田牛一は、俗名を太田又介信定といい、元は斯波氏の家臣でした。

天文23年7月(1554、8)14代斯波氏当主斯波義統の嫡男岩龍丸、後の斯波義銀と共に川狩に出掛けていた折に、清須の尾張守護所を、同城内に住む下尾張守護代織田大和守の家老坂井大膳らに攻められ、そのまま那古野城に逃げ落ちました。

そこから、信長公に馬廻として近侍し、お身内衆(御側衆、近習)になりました。


 羽柴秀吉、前田利家たちのように目覚ましい戦功を挙げた訳ではありませんので、もし、『信長公記』を書かなかったとしたら、私たちは太田牛一という人が、信長公の側にいたことなど知らなかったかも知れません。


 そんな彼は、本能寺の変後に出家して牛一を名乗ります。

「牛一」というのは、平家琵琶の一方流の法師であることを表しています。

琵琶法師には2種類あり、琵琶を演奏しつつ経文や寺社の縁起を独唱する盲目の僧、これは本来の役目ですね。

それからもう一つが『平家物語』を唄う「平家琵琶」で、これには八坂流(通字は城)と一方流(通字は一、いち)があり、室町期には最盛期を迎えていました。

後に創作された、平家琵琶の耳なし芳一の話は有名でしょう。


 ご存知の通り、信長公は元々は藤原氏でしたが、後に「平氏」を名乗ります。

ということは、牛一は新たな平家物語(信長公記)の語り部であることを表しているのではないかと思われます。


つまり牛一は出家する事を決意した時点で、自分は信長公の一代記を唄う法師であると位置付けたということですね。


 『信長公記』は、本能寺の変後に丹羽長秀の祐筆として仕えた頃記録をまとめ、その後豊臣政権下で執筆したと言われています。


長秀も同じく元斯波氏の家臣の家であり、本貫も近いので、親しみもあったのかもしれません。

しかも信長公をして「於万(長秀の幼名)は連枝(親戚)である」と言わしめ、傅役平手政秀の通称「五郎左衛門」を受け継ぎ、諱も公の偏諱と平手政秀を合わせた長秀としています。

その上親子二代に渡り、公の娘(長兄信広の娘と実の娘)を娶り、公から心を寄せられ、忠臣と認められていた彼の元に身を寄せるのは、心情的に理解できるのではないでしょうか。


彼の死後、牛一は隠居しますが、天下を取った秀吉に召し出され、吏僚として秀吉、秀頼と仕えながら、秀吉たちの命で様々な著作を書き上げています。


 その中で『信長公記』を、牛一がどういう扱いで執筆したのかという点を考えた時、まず核になるのは「上様が好きだ」という気持ちだと思います。


勿論彼らにとって、信長公というのは恐ろしい側面もあったでしょうが、乱世に於ける「希望」そのものの存在だったでしょう。


どんな人生であれ、人は必ず、苦しみ足掻き、眠れぬ夜を過ごします。

しかし信長公がキリの先端となってこじ開ける未来を信じることで、現在の苦難を乗り越えていく勇気になり、未来への不安を軽減することが出来たでしょう。


どんな事があっても、その先には現在の苦難よりも、数段明るい未来が待っている。

それを自ら選択して、信長公の後を追いかけ続けたのだと思います。


自ら信じることを選択し続けた彼らは、公に対して、選択する度に深い敬愛を育んでいったでしょう。


信じるというのは、目に見えない、実証できない、確認できないことを事実として、自らの意思で選択することです。

確認できることを、事実だと言うことは、信じるとは言いません。

信じるとは自らの意思で、選択する案件であり、その選択をし続けた彼らにとって、信長公が率いる織田家が苦難を乗り越えて発展していくことは、信じるという判断をした自分自身に価値を見出し、自信を育んでいく過程でもあったでしょう。


これは判断の手綱を自ら持たず、人のせい、環境のせいにする人には分からない、成長していく自分に感じる、深く大きな喜びであった筈です。


そうしてひたすら人生をかけて見失うまいとしていた大きな背中が、突然奪われた時、彼らの喪失感は計り知れないものがあったことは、現代の私たちでも容易に想像できます。


しかもその人の死が、謀死だったとしたら、どんなにやるせない気持ちになり、当時的には主人の成仏に大きな不安を抱いたでしょう。


一般に公のような非業の死を迎えた人は、成仏出来ないとされていました。


成仏することも叶わず、この地上を彷徨い、恨みを募らせる主人の姿は、在りし日の誇り高い王者の姿との落差が余りに激しく、どれ程浅ましく、切なく辛いものがあったか。

また主人を謀殺した犯人に、どれほどの恨めしさを抱いたか……


そこから考えると、牛一の気持ちは上様の偉業を遺したいという以上に、何とかして成仏してほしい。

そういう感じなんじゃないかと思います。


『信長公記』は、公の偉業を書き連ねると共に、天道による因果を強調して書いてあるのは有名です。


この『信長公記』と、全体的に似ているものがあります。

それは中世の禅宗の寺で行われた葬儀の「下火語あこのご」です。

「下火語」とはご遺体に火をつけて燃やす前に、生前の偉業を称え、そしてどのように亡くなったのかを僧侶が亡くなった人に告げる言葉です。

これは、因果を示して、成仏を促す側面があります。


つまり牛一の書いた『信長公記』は下火語であり、真の読み手は、信長公の魂ではないか。


覚えておいでですか?こんなことがありましたな。

あの時は家臣一同、誠にかたじけなく思いました。

あれは残念なことで御座いました。

あれには笑いましたなぁ。

そして上様、誠に、誠にご立派であられました。


そう考えると、『信長公記』で、所々仮名の人が出てくること、例えば実弟信勝斬殺に手を下した2人のうち、1人が仮名になっているのはなぜか想像出来ます。


或いは「燃」が禁字になっている理由もわかります。


「燃」の代わりに置かれている、その文字は


口長


◽️


これを見た時、皆様は口の所に何の字を入れますか。


燃えて消えた「信長」


燃える……それは公の成仏のためにも、書ける字では無かったでしょう。


そして信長公のような死に方をした人が成仏する条件の一つは、その死亡に関わった人の首を墓前に並べることでした。


しかし、牛一にはそうする事はできません。だからと言って、本能寺の変に関わった文書がことごと改竄かいざんされた当時、堂々と名前を書き記すことも出来ません。


そうした時に、牛一はどうするか。


『信長公記』を丁寧に読み解けば、そこには本能寺の変の犯人が書かれている。


そう思いませんか?


それが「検校法師」(目の見えない僧)を名乗った牛一の裏の意味ではないかと思うのです。


『信長公記』は牛一が信長公の魂に捧げた下火語であり、鎮魂の書である。


ですから、牛一は時に敢えて「信長」と諱を呼んで、信長公の魂に語りかけ、ただただ成仏を祈ったのではないか。


一人の琵琶法師が、敬愛して止まない一体の魂(信長公)に語りかけているのを、側で聞く、それが『信長公記』の一つの読み方かなと思う次第です。


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