朝倉宗滴の書状と朝倉義景(『桶狭間合戦討死者書上』)
『桶狭間合戦討死者書上』②からの流れになります。前後2部になります。
天文元年(1532)に書かれたとされる、朝倉教景の書状があります。
「就今度御帰国之儀、従六角殿孝景へ被遣候御状之写、并拙者へ之御書、末代迄之儀候条、進之間、於度々御高名御面目之至候
委細一乗寺へ申候間、定而可有御伝達候、恐々謹言
十二月廿日 教景(花押)
斎藤五郎左衛門尉殿
御宿所
(表) 斎藤五郎左衛門尉殿
御宿所
教景
(裏)
天文元年 太郎左衛門尉 」
「この度はご帰国なされるとのこと
六角殿に従い孝景へ下さいました書状の写しと、私に頂きました書状、後世までものことでございますゆえ、差し上げますので、折々において御高名、御面目が保てるでしょう。
詳細は一条寺の僧に申しておりますので、必ずやそちらからお伝えいたします。」(
天文元年12月、越前に滞在していた、対朝倉家の取次である、六角氏家臣斉藤五郎左衛門へ宛てた、朝倉教景の書状と言われています。
教景の使者を、当時一乗谷にあった、一乗寺の僧が勤めています。
この書状は内容を色々取り沙汰されており、大変有名な書状なのでご存知の方も多いと思います。
「末代迄之儀候条」
(末代までのことにございますゆえ)
朝倉家と六角家との間に、末代までの密約があったとされる文書です。
確かに朝倉教景の手元にある、この交渉に関する書状を六角氏に返すというのは、朝倉側に証拠が残らないように隠滅したと考えられ、何やら重大な機密があるように思えます。
「密約」の説の一つが、最後の当主朝倉義景は「六角氏綱」の次男義政であるというもので、秘密のお約束なのですが、『朝倉家録』の「朝倉家之系図」の義景の添え書きに「佐々木近江守氏綱入道雲光院末子也」としっかりと記されています。
こちらは富山県立図書館HPの「貴重書、古絵図紹介」から、無料で見ることができます。(朝倉家録、下巻15頁)
しかし「於度々御高名御面目之至候」と、養子に出すことを秘密裏にすることにより、高名、面目の至りになるのが朝倉氏ではなく、養子に出す側の六角氏というのが不思議な気がします。
また天文年間に書かれた書状で自らのことを「拙者」としているのを、勉強不足なだけかもなのですが、見たことがないので(おおよそ「信長」など名前を記す)、ちょっとよくわからない気も致します。
今回はそれを踏まえて、義景は六角氏からの養子というのはあり得るのか、という一点に絞って考えてみます。
今となっては正解の分からない謎ですので、皆様も考えて見ていただけると嬉しいです。
まずこの登場人物を、整理していきましょう。
まず朝倉氏です。
この頃の人は、元服後によく名前を変えますが、朝倉氏は先祖にあやかり同じ名前を名乗ったり、その立場になると名乗る名前があったりで、同じ名前が度々、さらに同じ年代にも出てきて混乱することが多いです。
ただ朝倉氏では、100%ではないのですが、嫡男、元嫡男など、朝倉家で家を継ぐ、別家を立てる可能性のある男児には〇景、側室腹や養子に出た男児には景〇と諱を使い分けているのが特徴で、そこはありがたい処です。
まず七代朝倉孝景から、十一代朝倉義景までの、朝倉家当主の生年と没年、ご子息らの一覧を置きます。
●七代 朝倉孝景
生誕
応永35年4月19日(1428年6月2日)
死没
文明13年7月26日(1481年8月21日)
享年 54歳(数え)
正室 朝倉将景娘(将景は、5代当主教景の息子。斯波義廉側につき、孝景とは反目した)
継室 逸見氏養女、
子息
氏景(元正室腹)、景明、孫四郎、景総、教景(以千宗勝、継室腹、叔父朝倉光玖の養子に入る)、時景、景儀、教景(宗滴、継室腹)
応仁の乱で越前支配を目論んだ孝景は、斯波武衛家宿老筆頭の甲斐敏光、斯波義寛の反撃を受け、苦境に立たされる中、死去しました。
●八代 朝倉氏景
生誕
文安6年4月5日(1449年4月27日)
死没
文明18年7月4日(1486年8月3日)
享年 38歳
正室 宝林慈珍大姉
継室 尾張織田孫左衛門の娘
子息
貞景(継室腹)景宗(存在自体が不明)
孝景生前から政務に参画していた氏景は、西軍の美濃の有力者斉藤妙椿の後継、斎藤妙純と誼を通じ、斯波義廉の息子を利用する奇策に打って出、斯波武衛家の訴えを無効にしました。
ところが、家を継いで5年目に、突如死亡しました。
継室の父親、織田孫左衛門は、一通だけ尾張の書状に名前が残っていますが、誰なのか分かりません。織田伊勢守郷広の弟ではないかという説があります。
●九代 朝倉貞景
生誕
文明5年2月5日(1473年3月3日)
死没
永正9年3月25日(1512年4月11日)
享年 40歳
正室 斉藤妙純娘
子息
孝景、景高、景郡、景紀、道郷、景延、大成明玉
朝倉景職室(景職は、6代当主朝倉家景の息子経景の跡取)、南陽尼寺良玉侍者、土岐頼武室(美濃守護)、鞍谷氏室(越前斯波氏)
父の急死をうけて14歳で家督を継いだ貞景は、正室に美濃の実力者斉藤妙純の娘を迎え、持是院家の後見を得て、家を安定させました。
また将軍義材が「明応の政変」で落ちてくると、迎え入れて歓待しましたが、上洛の兵を出すことはありませんでした。内乱をよく納め、越前は貞景の下、平和を享受することになります。しかし鷹狩りの途中、急死しました。
●十代 朝倉孝景
生誕
明応2年11月22日(1493年12月30日)
死没
天文17年3月22日(1548年4月30日)
享年 59歳
正室 若狭国丹後国守護、安芸国分郡守護、武田元信の娘
子息
義景
父が急死した時、幸い孝景は既に20歳を迎えており、叔父の朝倉宗滴らの補佐を受けて、国をおさめました。
妹が美濃守護土岐頼武に嫁いだ為、美濃騒乱では何度も頼武、そして姉の産んだ頼純を迎え、兵を動かし支援をしました。
ところが天文17年(1548)波着寺への参詣の帰りに、彼もまた急死したといわれています。孝景は既に56歳でしたが、嫡男の義景は僅か16歳でした。
●11代 朝倉義景
生誕
天文2年9月24日(1533年10月12日)
死没
天正元年8月20日(1573年9月16日)
義景は、衰退を始めた六角氏に対抗した浅井長政と同盟を結び、最後の朝倉大名家当主となりました。
この文書にでてくる「朝倉教景」は、年代的に七代朝倉孝景の息子になりますが、彼の息子に教景は2人おられますね。
孝景が文明13年(1481)に亡くなった後、五男の教景は文明16年(1484)に、側室腹の兄の景総に、家を出たにも関わらず、朝倉宗家での席次が高いことを妬まれ、殺害されています。
つまり書状の彼は、八男の朝倉教景になり、後に「朝倉宗滴」と呼ばれる彼こそが、五男の教景と共に継室の腹に生まれた嫡男で、本来の朝倉家嫡流になり、亡くなるまで彼が実質の朝倉家の当主であり、朝倉家の全盛期を作ったとされる名将です。
そして「孝景」です。
これは十代当主朝倉孝景になります。
天文元年当時、明応2年(1493)生まれの孝景は、数えで40歳になります。
そして問題は、ここです。
11代当主になる義景が生まれた時、孝景は既に41歳ということになります。
子作りが責務の大名に、約20年余、子が生まれなかったのに、突如男児ができるなんて、確かに豊臣秀吉並みに実子か怪しいところで、六角氏綱の養子説が出るのは、わからなくはありません。
またご覧のように朝倉家では、氏景、貞景と急死が続いた挙句、孝景時代に不妊問題です。
これは当時的には、非常に由々しき事態です。
一つ、一つでも首を傾げるところですが、当家に対する天の意志が現れると考えられる、当主の生死が悪い方に三つも続くと、当時的には、朝倉家はもはや呪われてるとか、何かの悪い因果が回ってきているとか、ということになります。
これが、『桶狭間討死者書上』②で見た、斯波氏が下手に六角氏と同盟を結ぶと、斯波氏を下剋上して怨念を受けていると考えているだろう朝倉家との間に、六角氏の仲介が入るだろうという推測の素です。
またこの後のことになりますが、天文17年(1548)孝景まで急死しています。
後に義景の代で朝倉大名家が滅亡した折には、当時の方々は、朝倉家の因果極まれりと思ったことでしょう。
話は元に戻ります。
まず通常であれば、正室にも、側室にも子供ができないという事態になりますと、もう少し早くに親戚から養子を取ります。一番好まれるのは同じ嫡男(同腹、正室の男児)の実弟か、実弟の嫡男になります。
孝景には弟が、景高、景郡、景紀、道郷、景延、大成明玉(僧籍)といます。
このうち嫡男は、四男の景紀、五男道郷と伝わります。
ところが景紀は、早くに実子を廃した叔父の朝倉宗滴の養子に入っていました。
そして道郷も、養子に出ています。
養子先の幕府評定衆羽多野氏は、足利義材と義澄が争った折、義澄に付き従い越前に落ちてきました。道郷はその波多野通秀の娘と婚姻し、家督を継ぎました。
ちなみに『朝倉家録』に遺る、織田軍に討ち取られた折、首級の余りの美形ぶりに何故生け捕らなかったかと信長公を激怒させた「朝倉道景」は、道郷の孫ではないかとされています。
あとは側室の息子たちになります。
景高の息子は、有名な朝倉景鏡です。
三男景郡には景氏、六男にも景綱という息子がおられるようです。
宗家の養子になっても良いのではないかと思いますが、当時の朝倉家は当主の息子に生まれていながら、血が遠くなると席次が下がることに対する不満が強く、謀反が頻繁に起きていたそうです。
このような状況では、側室腹では連枝やその家臣が納得しない状況だったのでしょう。
そうなると養子になった嫡流の息子たちでも、難しいのかもしれません。
またもしかして「呪い」は、ことの始まりの七代の代で、継室ではなく、元正室朝倉将景(本人は側室腹)の娘の血流が朝倉当主になったことによる、と考えられたのかもしれません。
朝倉孝景の本来の嫡男である教景(以千宗勝)は、叔父朝倉光玖(出家し妻帯していなかった)の養子に入ったにもかかわらず、席次の高さを憎まれ、27歳で兄に殺されました。
彼の子供に関しては記録がありませんが、亡くなったのが文明16年7月13日(1484年8月4日)ですから、息子では義景にはなり得ません。
また孫でも、永正半ばより大永あたりになりますので、年代的に厳しいかもしれませんし、曾孫になると血が遠くなりどうでしょうか。
時景は、丹生郡織田城を居城にしていた武将ですが、宗家に対して謀反を起こして、越前を追放されています。
教景(宗滴)は、先ほど見ましたが、嫡男を廃していて、宗家の血を引く養子を取りました。
やたら、嫡男を養子に出していますが、跡目争いに発展しないように……という配慮でしょうか?
朝倉家というのは、プライドが非常に高い血流なのかも知れませんね。
なんだかドロドロしておられ、非常に背中の毛がそば立ちますな。
そこで六角氏……となったんですかね?
なんで六角氏?
但馬に残る朝倉家嫡流から、養子を迎えるという手もあったでしょうが、自分とこの血筋より、六角氏?
六角氏がいくら名家近江源氏嫡流と言っても、唐突な気もします。
越前の斯波氏(鞍谷氏)は、まさに裏切った元武衛斯波義廉の息子が祖ですから、そこから養子を取っても良かったのではないでしょうか。
今や格下ですし、そこからって言うのも、家臣団の心持ちが難しかったのかもしれませんね。それに朝倉義景の側室に、鞍谷御所嗣知の娘を入れていますので、次代に繋げたという形をとったのかもしれません。
それに、です。
似たような例として、軍神上杉謙信の養子がおられます。
軍神の養子の1人、上杉景勝は謙信の甥にあたりますが、もう1人の養子、上杉景虎は、血縁関係にない北条氏の息子です。しかし謙信の姪と婚姻し、女系から上杉家と繋がる形になっているわけで、他所から取っても、女系で繋がれば問題ありません。
このように別段養子を取ることは、よくある事例だったとは思うのですが、六角氏にとっては朝倉家に養子を、秘密裏に出すことが、そんなに褒められるようなことなんでしょうか。
ちょっと不思議ですね。
よくわかりませんが、とりあえず次回は六角氏を見ていきます。
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