前田利家正室、おまつの出自の考察③

 今回がおまつの考察の最終回になります。最近長めで、申し訳ないです。お付き合いくださり、ありがたいことだと思っています。ありがとう。


 さて、18歳歳が離れたまつと長重の関係は

1.同父、同母(篠原主計、竹野氏娘)

2.同父(篠原主計)、異母

3.異父、同母(竹野氏娘)

4.異父、異母

の四つが考えられます。


1が定説となっていますが、間が空きすぎなのと、竹野氏娘が家を出るにあたり、おまつまでが篠原家を出たのか不思議です。


2番目の2人とも篠原主計の子供ではあるけど、お母さんが違うというのは、時代的にあり得ることです。

篠原主計が亡くなった当時、正室は竹野氏娘で、篠原家の経済状況を考えると側室がいたとは思えません。

となると、普通に考えると、長重は前正室の息子で、まつは竹野氏娘の娘、或いは野合でできた娘。長重は竹野氏娘の息子で、まつは野合でできた娘。この3パターンになります。


しかしこれも1と同じく、篠原家の血をひいたまつを、連れて出て、前田家に預ける理由はわかりません。


跡を取った篠原長重は、当時21歳ですが、父が亡くなった時点で妻帯されていた可能性は低く、とにかく子供がおられません。

となると、おまつに婿を取って、篠原家を存続させるのが普通です。

まつと結婚した前田利家が、篠原を名乗っても良かったはずですが、篠原を名乗ったという形跡はありません。


順当に考えれば、まつが篠原主計の血をひいていないという3、4ではないでしょうか。


しかし3は、おまつが篠原主計の生前に生まれている以上、当時的には考えにくいと思われます。


また利家が信長公の御側衆の十阿弥を斬ったのは、おまつの父篠原主計の形見で、婚姻の引き物として渡されたこうがいを、隠されたからだと言います。

ということは、少なくとも主計は養父など、おまつを社会的に保護する立場にあったと考えられます。


ということで、4のおまつが篠原家の養女だった可能性を考えてみましょう。


 ご存知の方も多いかと思いますが、おまつは養女であるという伝承は、二つあります。


 一つは先程の竹野氏娘の再嫁先の、元斯波氏家臣高畠家に伝わる話(『高畠家文書、高畠家家系図』)で、篠原家を出た竹野氏娘の結婚相手の「高畠直吉」には一男三女がおり、嫡男は左門吉光、娘は土方彦三郎(勝幡織田氏家臣土方雄久の父信治)室、於松、加藤高光室とおり、この於松とは利家の正室のまつであるとされています。


利家の正室になる「おまつ」は天文16年生まれですから、もし高畠家の於松が「おまつ」ならば、竹野氏娘は継母になり、篠原主計も父親ではなく、4番になります。


そしておまつが利家に嫁したのは永禄元年(1558)ですから、どういう訳かわかりませんが、おまつは高畠家から継母の縁でわざわざ篠原家の娘として、嫁入ったということになります。

しかし、そうする理由は分かりませんし、主計との関係性が希薄になり、「形見の笄」というのが、浮いてしまい、少しばかり不自然です。


 まつ養女伝承の二つ目は、現在のあま市にあった沖之島という村の郷主、林常信の娘というものです。


沖之島は、伊勢から荒子を含む尾張の伊勢湾沿いの、平安時代から続く新田開拓地の一つになります。


 前田利家の生まれた荒子は、熱田を発する佐屋路(津島下街道)を西へ向かい、万場の渡し(万場宿)近くにあります。そのまま神守宿を過ぎ、埋田追分で佐屋路から分岐して、まっすぐ進めば津島に着きます。


津島からは鎌倉街道が勝幡の近くを通り、萱津宿から清須へと向かっており、これを江戸時代には津島上街道とよびました。


この鎌倉街道の途中、七宝に林家の所領沖之島村があります。

ここから勝幡城まで、馬で15分程度の距離になり、荒子よりもやや勝幡城に近い場所で、清須と津島の中間地点ほどになります。


また前田家本城前田城からは、馬で30分ほどの距離になります。


もしかすると、織田弾正忠家が津島に進出する以前に、熱田加藤家のように、沖之島林家も勢力を拡大する前田家と縁を結んでいてもおかしくありません。


もし林家が前田家とともに織田家に従属していたなら、織田家が津島に進出した大永4年の頃かと考えられます。


 おまつが篠原家の養女になった経緯は、利家の父、荒子城主前田利昌が、一目見ておまつを気に入り、林から貰い受け、篠原主計に育てさせたと言うものです。


まぁそれなら、篠原家では面倒見られませんから、お返ししますというのはアリなのかもしれませんね。


しかしです。

前田利昌、よその城屋敷にお邪魔して、そこのところの子、まぁ国衆の姫君ですね、その子が気に入ったからと貰い受けるとか、猫の子じゃあるまいし、かなり強引な話です。


その上、そんな一目見て気に入った子を、何故自分が引き取らなかったか。


伝承曰く、織田大和守家と沖之島林家は仲が悪かったので、織田弾正忠家の家臣である自分が引き取るのは憚られたというのですが……


でも預け先の篠原家も、同じ織田弾正忠家ですよね?

お前んとこは、小身やさかい、目立てへん。ええやんか!ということなんでしょうか?


そして結局は何だかんだと、篠原主計が亡くなった天文18年頃には、おまつを引き取るわけです。


篠原家を通したから良いというのは、学歴ロンダリングならぬ、生育歴ロンダリングでしょうか?


また那古野城を改築した後の幕府との書状(天文14年5月2日付織田信秀書状、解説は拙作「『桶狭間合戦討死者書上』と織田信秀」参照)を見ると、織田弾正忠家は、斯波氏直臣としての立ち位置にあると推測され、大和守家から独立をし、その権勢は上下守護代を上回っているように見えます。


信秀が病に倒れるまでの弾正忠家は、このまま尾張を統一するのではないかと思えるほど、勢いがありました。


ですから、そもそも沖之島林家が大和守家と仲が悪いからといって、弾正忠家の家臣である前田利昌が引き取るのを憚るもいうのは、おかしな話になります。


もしかして前田与十郎家は、親大和守家の家なのでしょうか。

後の織田弾正忠家の家督相続争いの、伏線ということかもしれませんね。


さらにこの時、おまつは4歳(数)だったそうなのですが、おまつが生まれたのは天文16年(1547)で、篠原主計が亡くなったのは、天文18年、おまつが数えで3歳の時です。

すなわち前田利昌が、天文19年に篠原家におまつを預けに行くと、出てくるのは篠原長重ということになります。


それなら篠原家は絡めず、ストレートに利昌が引き取ったということになるでしょうが、となると、「形見の笄」は、どないすんのやということになります。


また林家は、おまつの妹のおたかを武田家の家臣である犬養義久が娶り、その子孫が現在もそちらにお住まいであるといいます。


おまつは天文16年生まれで、数えで3、4歳、満で2歳前後で養子に出したそうですが、妹はその頃何歳だったのでしょうか?

おまつを養子に出した頃には男児が数人おられ、その後度重なる戦や病で亡くなったのかもしれませんが、おたかが家を継いだというところをあわせて見ると、少し気になります。


 そんな沖之島林家には、もう一つ伝承があります。それは滝川一益の外祖父だというのです。


上でも話題になりましたが、滝川氏というのは天文2年の山科卿日記に、勝幡城におられる姿が書かれていますし、大永5年(1525)に生まれた一益の外祖父になる為には、林家も津島にやってきた織田家にすぐに従属しなければなりません。


そして先述の通り、滝川一益の母は、前田与十郎家の娘というのが定説です。


もしかすると、沖之島林家の娘が与十郎家養女として滝川家に嫁入りしたのかもしれません。その場合、前田与十郎家と沖之島林家は同じ陣営にあり、主従関係か、婚姻関係があることになります。


それはある意味、有り難いことではあるのです。


もし林家が織田家の家臣ではなければ、国衆ほどの家格を持つ他所の家から子供を貰い、織田家の弓頭の家に子供を渡すという前田利昌の行為は、主人を持つ武家としてあるまじきことで、前田利昌の行動は不可解としか言いようがありません。



そもそもです。

何故林氏の家から、おまつをもらおうと考えたのか。

何故篠原家に、おまつを預けたのか。


 まず、なぜおまつを、貰い受けたかという件です。


 自然であるのは、林家の娘に前田利昌が手をつけ、生まれた子供を篠原家に預けた……という形になりますが、それでは利家とおまつの婚姻が、危ない関係になってしまいます。

性的におおらかな中世日本といえども、さすがに同父の子供同士の婚姻は見られません。


となると、どういうことか。


 おまつが生まれた時、まさか彼女が大名の正室になり、歴史に名が残るとは誰も思わなかったはずです。

つまり出生に何か不都合な事柄があったとしても、多少の噂になり、その後静かに時の流れの中に埋もれていくだろうと思われていたでしょう。


おまつに関する内密な事柄が、利家が大大名になってしまったがために、歪な形で「伝承」として残ってしまったとも考えられます。


おまつは、竹野氏姉妹が産むには、少し年齢がいっており、むしろ兄である長重の娘である方が自然です。


長重は篠原家の唯一の男児ですが、婚姻関係も、子供も、記録に残っていません。

しかも養子を取ったのですら、利家の家臣になってからです。


しかし武家の嫡男で、唯一の男児であれば、嫁取りをするのは義務です。

その采配は篠原家であれば、上司にあたる方がされ、長重的には否応なしだったはずです。


上で沖之島林家と前田与十郎、或いは荒子前田家は、大永3年よりも前に、婚姻関係があったのではないかと考えました。

そこでできた娘を、天文12年頃、荒子前田氏正室の甥になる篠原長重に娶せて縁を深めていくというのは、同じ家中でよくあるパターンです。


ところがもし篠原長重夫妻の間に、結婚約4、5年にしてようよう生まれた子供(おまつ)が、長重の子ではなかったとしたら?


 嫡男の子作りは公務の当時、事を致されているかどうかは、家中の共有事項です。

というのか、そもそも古墳時代から明治を迎えるまでの日本の家の作りは、プライバシー0なんで、今とは感覚が違い、年頃になり、事を致されるということは、息を吸って吐くように、自然なことだったのでしょう。


庶民よりは倫理観のある武家でも、旦那様が他所の方に手を付けるのは、基本的に許される行為ですし、一定の条件下で奥様が野合されるのも構いません。しかし有縁の場所で、奥様が旦那様以外と致され、子供を産むのはよくないことでした。

特にその家の嫡男を産む場合、家臣団にとても、とても気になるポイントでした。


もしかしたら、この辺りにひっかかり、嫁いできた娘が家に返されたとしたら?

或いは嫁自らが、自発的に篠原家から出て行ったとしたら?


さて、どう読みましょうか。

 


長重の嫁が実家(林家)に戻りおまつを産んで、その子を前田利昌が受け取り、篠原家に連れて行き(ここは無かったかもしれません)、篠原主計が亡くなると篠原家から出る竹野氏姉娘が妹に預け、前田利昌もそれを容認した。


篠原長重はその後嫁取りをせず、養子も取らずとも、責められなかった。

篠原長重は、口が硬いと評判である。


利家が篠原家の養子にならなかった。


そして、篠原主計の形見の笄……


このシュチュエーションで、どう当てはめてみましょうか?


あくまで私の場合ですが、全ての人々、事柄がスムーズに動くことを考えると、おまつの父親は、舅の篠原主計になってしまいます。


嫡男長重が嫁に手を付けず、篠原家存続の危機に瀕した篠原家当主、篠原主計が苦肉の策として、嫁に手を付けたとしたら……


 また乳母に選ばれる女性というのは、教養があるのは勿論、基本的に愛情深い上に、理性的に身を処することができる肝の座った方です。

苦難困難を乗り越えて、穏やかに過ごされておられる素性の方が、多く見受けられます。


竹野氏姉娘が万事飲み込んで、おまつを育て、その姿を見ていた周囲の人たちが、高畠家の乳母に推薦したのかもしれませんし、前田家がおまつを引き受けたのは、媒酌人を利昌がしていたからかもしれません。

あるいは利家が通常の結婚適齢期より早く、おまつを引き取ったのは、実家で居候をしている彼女を取り巻く空気を見てのことかもしれません。


またおまつが、大名になり側室を持ち、彼女らに子供を産ませるのが責務の利家のそれらに対して、否定的なエピソードが残っているのも、自分の出生に関係しているのかもしれませんし、それが本当ならば、容認していた利家はおまつのことを、本当に大事にしていたのでしょう。


そして篠原長重が、利家に献身的だったのは、感謝と罪悪感が混じってのことだったのかもしれません。


本来、時の流れの中に痕跡もなく消えていくはずだったおまつの出生。


あなたなら、どう読み解きますか?


さて、今回も長くなりました。読んでいただき、ありがとうございます。

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