前田利家正室、おまつの出自の考察②

 今回はまず篠原氏と竹野氏、ついでに前田氏と竹野氏の婚姻の時期を考え、その後におまつを前田家に置いていった事情を見ていきます。


 竹野氏姉娘と篠原主計の婚姻は、もし篠原長重が竹野氏娘の腹であれば、享禄2年(1529)であることから、少なくともその前年までには嫁入りしているはずです。


 また前田利昌と竹野氏妹娘との婚姻は、四男の前田利家が天文5年から7年頃(1536〜1538)の生まれで、男児は全員竹野氏娘の腹であるとされていますので、おおよそ2年ごとに産んだとすると、長男の出産は享禄元年(1528)になります。


利家の最初の家臣、村井長頼の息子の又兵衛長明の『村井重頼覚書「利家記」』によると、現在遺る前田兄弟の他に、討死や早世した男子がいたとあります。

この『利家記』は、寛永期に重頼(長明)が津田玄蕃らに宛てた書状や、前田利常が利家のことを聞いたことなどをまとめたもので、慶長期のものも含み、真偽は不明ですが、現代であっても妊娠=出産=成人した子供の数ではありませんし、戦国時代の子供の元服までの生存率は低いので、単純計算はできませんね。

また婚姻してすぐに妊娠するかは、分かりません。


それを考えると、竹野氏娘たちの嫁入りは、おおよそ永正末期(永正は1504〜1521)大永初期(大永は1521〜1528)あたりなのではないかと思われます。


 この頃の織田家というのは、どういう状況だったのかというと、永正10年(1513)に大和守達定の斯波義達への謀反があり、達定は切腹。弟の達勝が守護代に就任し、織田信貞らが三奉行として立った後、大永4年(1524)の大橋の乱で津島に進出し、のちに勝幡城を築き、嫡男信秀が大和守達勝の娘を正室を迎え……という流れです。


本作では織田弾正家は、斯波氏と共に在京していた、伊勢守家連枝の家柄で、応仁の乱から船田合戦を経て伊勢守家が斯波氏に膝を屈した折に、斯波氏に出仕し、大和守謀反の処置として、与力(監視役)に付けられたと考えています。


また松平清康が西三河から尾張へと戦線を拡大している頃に当たります。


 織田家で弓頭だったという篠原氏と、荒子前田氏の家格差を考えると、まず竹野氏姉娘と篠原氏の婚姻があり、竹野氏の家格の上昇があった後、前田与十郎家の支流荒子前田氏と竹野氏妹娘の婚姻が成立したと考えられます。


また竹野氏自体の戦歴がないことから、竹野氏の家格の上昇は、転仕によるものか、主家である織田氏の家格の上昇に伴うものでしょう。


 では前田氏は、いつ頃織田氏に出仕したのでしょうか。


 元々尾張前田氏は、美濃国安八郡前田に居られて、そこから尾張へと移動して来られたと言います。


また竹野氏娘の再嫁先の高畠氏も、『三壺記』によると、前田氏が美濃から尾張に移った頃支流として分かれたそうです。そこから高畠氏は斯波氏に出仕し、尾張山田郡高畠の高畠城の城主となりました。

この高畠氏については、また後で触れるとして、前田氏に話を戻します。


 『前田御家譜』によると、前田仲利は、海東郡、現在の中川区富田町に、前田氏の本城として前田城を築城しました。

そしてまず長男の与十郎種利を下ノ一色城、次男の主膳正利を荒子城を入れたとあります。

この後、与十郎家では支城として蟹江城など、要所に城を築いて息子たちをいれたと書かれています。


 また中村の横井村の高野宮神明社は、『愛知縣神社名鑑』によると

「創建は明かではないが、当地は昔郷名を御厨郷と称し『神鳳抄』に一楊ひとつやなぎノ御厨とあり、伊勢の神宮の御領地で、高野宮神明社と称した。文明17年(1485)下一色の城主前田与十郎が社殿を修造する。『尾張志』に伊勢外宮の別宮の高ノ宮を縁故により祀りしものなりと、記す。明治5年村社に列格する。五穀豊穣の守護神として崇敬厚し」とあります。

この与十郎は先ほどの前田利仲の父、利治であるとされています。


これらには諸説あり、定かではありませんが、文明年間辺りには移住をして、勢力を広げていったのでしょう。


そして、明応、文亀年間(1492〜1501、1501〜1504)、熱田加藤家の次男全朔と、前田利家姉との婚姻がありました。

こちらに関しては、「熱田の器用の御仁 加藤全朔」で考察していきます。


また尾張前田宗家当主になる種利の姉妹が、勝幡を訪れた山科卿の日記に姿を見せる重臣滝川氏に嫁ぎ、滝川一益を、大永5年(1525)に産んでいるだろうことから、前田氏の出仕は大永4年(1524)頃ではないかと考えられます。


この出仕に伴い、勝幡織田氏から竹野氏妹娘が、尾張前田氏の支流荒子前田氏の嫡男、利昌に入ったと考えられます。


つまり篠原氏と竹野氏の婚姻は、大永3年以前のもので、まだ織田氏が清須におられた頃になります。


竹野氏妹姫が織田家から嫁入りしてるのを考えると、竹野氏は織田氏の譜代の家だったのか、もしくは斯波氏家臣であったけれども、姉姫が篠原氏と婚姻したあと、竹野氏に不幸があり、妹姫は姉姫と篠原氏とともに勝幡へ移動したのかもしれません。


そう考えると落ちてきた篠原氏と織田氏譜代竹野氏娘との婚姻があったのではないかと思われます。


 あくまでこういうこともあるかも……という、裏付けのないレベルですが。


またこのあたりは、情報を見つけ次第加筆訂正するとして、話を進めて参りましょう。



 さてこうして縁付き、子供をもうけた篠原主計と竹野氏姉娘でしたが、天文18年に篠原主計が討死します。

すると竹野氏娘は篠原家を出て、高畠家に嫁入りしたと伝わります。


ところが竹野氏娘が嫁いだと伝わる「高畠左京太夫直吉」は、文亀元年(1501)に亡くなったと『金澤古跡誌』二十三巻にあります。

ちなみにそれに依りますと、直吉の嫡男が「左門吉光」と言われ、この方は信長公に出仕し、天文17年(1548)に亡くなったと書かれています。

彼は6人の子供がおり、嫡男は天文7年(1538)に生まれた「石見守直吉」であるとしています。

この直吉は、天文18、19年当時、数えで12、13歳で元服の時期に当たり、享禄2年(1529)に長重を産んでいる竹野氏娘とは、母子くらいの年齢差になります。


また天文18年前後の織田家の当主は、信長公ではなく、信秀になります。

……まぁ、江戸時代にまとめられた家史では、このようなことはよくあることなので、おおよそこの頃織田弾正忠家に出仕したと言いたいのかもしれませんね。


しかし……

これでは、竹野氏娘と結婚できる方が、高畠家におられず、さらに天文17年までに織田家に出仕しておられて、「斯波氏家臣」ではなくなっています。

これは悩ましい伝承です。


 では一旦高畠家を横に置かせて頂き、竹野氏娘が、おまつを置いて斯波家へ向かったという話を考えてみましょう。


武将の娘が婚姻ではなく、父の主家とは違う家に出向く場合、主家の娘の輿入れに随行するか、その欠員が出来補充に向かうか、あるいは主家の娘に子供ができて、侍女の一種、乳母の指名を受けるかくらいでしょう。


またその後、その家の家臣と縁づくというのはあるかと思います。


 婚姻とすれば、主人の養女として嫁入りするとかでしょうが、竹野氏が織田氏娘として、嫁入りするほど、家格が高いとは思えません。


 ではおまつを置いていった事情です。


 まず乳母であれば、相手方の子供が女児ならば、おまつを御伽(遊び相手)とする道もあるでしょう。


そう考えると、竹野氏娘がおまつを斯波家に連れて行けなかったのは、相手方が男児のだったか、通常の侍女として出仕する為だったからかもしれません。


 勝幡織田氏と斯波氏の家臣との婚姻といえば、天文のこの頃であれば斯波義統の弟の津川義長と斯波義廉の四男牧左近義次の娘の間にできた、牧長義と、織田信貞の娘長栄院殿でしょうか。


実際のところ、この婚儀のはっきりとした時期はわかりませんが、長栄院殿の侍女として随行するか、欠員の補充のために向かったとすれば、おまつを伴わなかった理由は立ちます。


 あるいは高畠家と関連付けるならば、前田家の縁で、高畠直吉の教育係の乳母として出仕したのかもしれません。


 前田利家の実弟、佐脇良之の正室、幕臣佐脇氏娘は、元亀3年12月22日(1573年1月25日)佐脇良之が三方ヶ原で討死すると、「寡婦になったので、浅井家の嫡女の乳母になった」(佐脇略譜)とあります。

当時彼女は、良之の末息子を妊娠中で、出仕はその出産後のことになります。


小谷城落城は天正元年9月1日(1573年9月26日)ですから、佐脇氏娘の出産、そして織田、浅井家の関係性を考え合わせると、彼女の出仕先は小谷ではなく、尾張守山城になります。


丁度於市の方が末娘お江与を出産する前後(一般には8月に生まれているとされるが、尾張に戻った後説もある)にあたりました。

しかし彼女はお江与のお差の乳母ではなく、「浅井氏嫡女の乳母」として任命されたと言います。


拙作では、彼女が本能寺の変の後、茶々に伴って大阪へ行かず、金沢へ向かっていることから、浅井氏娘たちと落ちてきた方々が、浅井家を滅ぼした織田家に馴染み、娘たちが織田家の娘として育つ為の、奥の指導者としての派遣であるだろうと読みました。


また佐脇氏娘にも実家がありませんでしたが、篠原長重の息子に嫁していた佐脇良之次女がこの時出家し、篠原家を出て、母や甥のフォローをしていたと考えられます。

(参照 拙作「信長公の小姓 佐脇良之」)


また池田恒興は、家刀自だった母が乳母として織田家に出仕するにあたり、推薦者であった森寺藤左衛門宅に預けられています。


それを考えると、もしかすると……なのですが(全部そうですが)


当主が亡くなり、子供が小さい場合、家としては、非常に大変な局面を迎えます。

この時代は現代に近い感覚で、自らの身分は、家によって保証されるものではありません。


ただもし死因が討死で、主家が滅びていなければ、嫡男が成人するまで、領地など安堵してもらえます。

とはいえ、リーダーである当主がいなくなると、自由度が高い主従関係の当時、家臣団が不安定になり、転仕する家臣や殿の敵に内応する方も出られることもあり、家の存続問題が出てきます。

家臣団が納得できる、リーダーが出て、嫡男が正式に出仕するまでなんとかなれば良いのですが、今度はその人が当主の座に居座ったり、権力を握ったままになるというのは、よくある事例です。


またこの頃の武家の正室というのは、お飾りではなく、外交や証人として預かる子供たちの育成の指導、側室を含む侍女団の統率など、様々な役目を担っていました。

正室が実家に戻ったり、旦那様の討死に衝撃を受けてお体を悪くされたなどあると、こちらも立ち往生します。


ということで、ある程度の家であれば、身内の後見をつけたり、正室の代わりに亡くなった殿の生母、或いは女性の後見、嫡男の乳母に頑張ってもらいます。


例えば、東条松平家では父親が討死し、嫡男家忠がまだ一歳でしたので、正室の父が後見となり、東条松平家を切り盛りしました。

しかしなかなか家臣団がいうことを聞かないので、家康に泣きをいれ、それを慰撫し、東条松平家の家臣たちにいうことを聞くように命令を出すことを約束する書状が残っています。

これが永禄3年か、4年かで、話題の書状ですね。


 さて、高畠家の左門吉光が天文17年に亡くなったとありますが、これは小豆坂合戦なのかもしれません。

この戦の大将はまさに最盛期を迎えていた織田信秀で、斯波氏と良好な関係性を保っていました。


その為、高畠家存続のために支援が入り、奥の指導者としてのフォローが、丁度主人が討死して寡婦となった、荒子前田家正室竹野氏娘の姉の派遣だったのかもしれません。


そうなるとこの前後に、高畠家は織田家に転仕し、前田氏の家臣になった(戻った)のかもしれません。


竹野氏姉姫というのは、大変優れた方だったのではないかという気が致します。



 では次に篠原家を出る時に、何故おまつを連れていったのかを考えてみましょう。


長重とまつの年齢差は、18です。

もし竹野氏娘が、篠原主計に13で嫁いだとしても、長重を産んだのが14。そこから18年で数えで33歳です。


本当にまつと長重は、同母或いは同父なのでしょうか?


次回はおまつの関係性について、見ていきます。(次回で最後です。最近長いっすね)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る