前田利家正室、おまつの出自の考察①

いつもの通り、単なるエンタメとしてご拝読ください。


今回は、おまつの出自の謎について、一緒に考えて頂けると幸いです。


 加賀百万石の祖、前田利家の正室、おまつは、天文16年(1547)7月9日、篠原主計と正室竹野氏娘の間に生まれたと言います。


天文18年(1549)、安祥城合戦で父が討ち死すると、おまつは母に連れられて篠原家から出ます。その後、母が斯波氏家臣高畠氏に再嫁するにあたり、叔母の嫁ぎ先、荒子前田家に預けられ、永禄元年(1558)、数えで12歳のおり、10歳以上年上の織田家馬廻、前田利家に嫁いだとされています。


 以上、おまつの生い立ちで、気になるポイントは2点あります。

1点目は、おまつが母と共に篠原家を出ていることです。

通常、子供は家に付きますので、例えば妊娠中に夫が討ち死するなどし、婚家を出る場合でも、実家に戻り出産した後、子供を渡します。


熱田大宮司家当主千秋季忠が桶狭間で討死すると、妊娠中だった正室たあ姫は実家に戻り出産し、その後息子を千秋家へ送り出しています。

季忠の初めての男児でしたが、実兄が2人おられ、家が絶えるというわけではありませんでした。


 2点目は、再嫁する際、おまつを妹の嫁ぎ先に預けたことです。

夫の家が断絶するなどし、子供を連れて出た後、再婚の際には子供を連れ、新たな嫁ぎ先に向かうことも普通にありました。


池田恒興に再嫁した荒尾氏娘は、亡き夫織田秀俊の娘を池田家に伴っています。


また、もし嫁ぎ先に連れて行けない事情があるならば、何故実家に預けず、妹の嫁ぎ先へ預けたのでしょうか。


もしかすると、天文18年頃に、竹野氏娘の実家は、尾張にはなかったのかもしれません。しかしそれなら余計に、何故篠原家に置いていかなかったのか、また何故高畠家に連れていかなかったのか、謎です。


 まず竹野氏、篠原氏について、調べて行きましょう。

長くなりますが、お付き合いください。また、もしここでは?という出身地がありましたら、教えてくださいね。


 尾張の竹野氏の名前が遺っているのは、篠原家、前田家、高畠家の婚姻に関するものだけになり、竹野氏の素性は分かりません。


元々の出身とすると、但馬、丹後、筑後、伊勢鈴鹿に竹野郷(丹後は読みが「たかの」)、尾張東端、織田信秀が築いたとも言われる岩崎城近くに竹野山(山名、現在御嶽山とも呼ばれる)があります。

山の名前自体を、家名にするかは定かではないのですが、その一帯を竹野と呼びならわしていれば、郷村と同じ感覚だったかもしれません。


丹後は、一色氏が守護をしておられました。尾張守護斯波義達の母は、丹後守護一色義直の娘になり、竹野氏は、義直娘について尾張に入った近習の家臣かもしれません。


また筑後は遠いようですが、九州探題が筑前博多にあり、少弐氏(筑後を取得している)と融和政策をとっていたり、南北朝時代、九州探題方と佐殿方と南朝方の3つの勢力が鼎立していたりと、斯波氏、一色氏(二氏ともに九州探題に任命されていた)、津島と尾張関係者との関連が見逃せません。


個人的に推しなのは、但馬竹野郷です。

越前朝倉氏の本貫は、但馬国朝倉庄で、南北朝時代に越前に入国し、のちに斯波氏や織田氏と関係ができました。

日本海側にある竹野郷は、今も但馬に残る朝倉家嫡流の居城、朝倉城と、おおよそ馬で2時間くらいの距離にあります。


もしかすると、竹野氏は朝倉氏の家臣で、朝倉氏が斯波氏に出仕した折に、斯波氏か織田氏の証人の方、輿入れされた姫に随行し、家臣化したのかもしれません。



 また竹野氏同様、尾張には地元民の篠原氏はおられません。


篠原主計は「織田家の譜代の家柄で弓頭をしていた」と言われています。織田家の場合、「譜代の家柄」とはどの辺りを指すのか難しいところではありますが、信秀が当主の時代であれば、信貞が当主だった頃、或いは勝幡に城があったあたりをいうようです。


小身なせいかもしれませんが、寡聞にして越前、遠江の方にも、篠原氏の記録は見当たりません


丁度、荒子近隣には高畠(高畑)や篠原という村があり、非常に魅力的ですね。

高畠家にしろ、篠原家にすると、元々荒子前田家の家臣の家だったのかも知れませんが、篠原村というのは、「明治10年7月、米野と八ッ屋の二村を合併して篠原村と称す」とあるので、どうでしょうか。

もしかすると、利家の家臣となった後の屋敷が、こちらにあったのかもしれません。

とりあえず室町時代から戦国時代に、荒子には篠原村はなかったようです。

なお高畠村は、元荒子村の中にあり、後年やや小高い土地に畑を造ったことから、高畠という村になったと言われています。

後に触れますが、高畠氏は元々前田氏の家臣だったそうなので、こちらはそうかもしれませんね。


荒子自体が「新田」の意味を持ち、伊勢からこの辺りまで、新田開発が平安期から続いていた為、新たな領地を求めて、アメリカの西部開拓のような感じで、移住される方がおられたようです。


 それ以外で「篠原」を、尾張近くで見てみると、近江の野洲に篠原郷があります。この野洲篠原は六角氏のお膝元になります。

近江、伊勢などは六角氏関連で、尾張に落ちてきた人々も多いですから、篠原氏もそうなのかもしれません。


さらに現在愛知県豊田市に、篠原町というところがあります。

ここは「竹野山」のある岩崎の近くです。


これは「ささばら」と読むそうで、貞治3年(1364)三河三ノ宮 猿投さなげ神社の上葦勧進帳に「佐々原郷」からの寄進についての記述を見ることができます。

(三河国加茂郡篠原郷。その他佐々原、笹原とも書かれている)


篠原郷は、土田城や明智長山城などの東美濃、そして尾張に挟まれた、三河の西北にある、伊保川の上流に位置し、南北に瀬戸街道が縦断しています。

この辺りの城を見てみると、南北朝時代から、尾張、三河からの侵攻を受けています。


 特に家康の祖父、三河の覇者松平清康は、大永3年(1523)に家督を相続すると、東西に戦線を伸ばし、次々に城を落としていきます。

尾張近くでは、現在の愛知県豊田市にある、西三河鈴木氏居城、足助城あすけじょう、同じく西尾市にある、小島城(八ツ面荒川氏武将鷹部氏)などを攻め、更に先ほどの日進市の岩崎城、品野城を落としていきました。


話が横に逸れますが、竹野山の領主の居城である岩崎城は、「享禄2年(1529)松平清康が城攻めをした折、織田信秀に属していた荒川頼宗が城主を務めていた」という伝承があります。

この頃の織田家当主は信貞で、勝幡に城を構えています。

しかし永正8年(1511)生まれの信秀は既に19歳、家臣を整えてもらっていてもおかしくありません。


こちらの荒川氏は、八ツ面荒川氏(吉良氏)とは違った一族で(元は一緒の足利氏ですが)、斯波氏支流渋川氏のそのまた支流にあたり、応仁の乱の折の武衛、斯波義廉が渋川氏出身ですので、その関係で尾張へ来られたのかもしれません。

その後、永禄9年(1566)に生まれた荒川重世は、織田信雄に小姓として出仕し、尾張井口郷を領しました。


また赤塚合戦で長谷川橋介らと先陣を切った「あら川嘉右衛門」と「あら川与十郎」は、この荒川氏かもしれませんね。


その後岩崎城は、天文7年(1538)頃に、丹羽氏清が居城としたと伝わります。


 篠原郷は品野城と岩崎城の中間地点から、更に三河方面に南下したところにあります。


篠原氏はもしかすると、こちらの氏族で、松平清康の侵攻の為に、尾張へと落ち延びたのかもしれません。

そうであれば、私たちは「篠原主計」を「しのはら かずえ」と読んでますが、元々は「ささばら かずえ」なのかもしれません。


 また甲斐に篠原というところがあります。武田信玄の父、甲斐守護信虎により、永正16年(1519)築城された躑躅ヶ崎館のお膝元になります。


甲斐源氏の宗家武田氏ですが、鎌倉、南北朝から室町時代へと移るうちに、応永23年(1416)、娘婿の元関東管領上杉禅秀の乱に巻き込まれ、第10代甲斐武田家当主信満が自刃、甲斐守護職が空位になります。

信濃守護小笠原氏を巻き込んだ室町幕府と、鎌倉公方の争いは、永享10年(1438)の永享の乱で鎌倉府が滅亡し、永享12年〜嘉吉元年(1440〜1441)の公方残党との結城合戦まで、甲斐は大きく揺れることになりました。


このことで篠原氏も、尾張に落ちてきたのかもしれません。


色々可能性はありますが、これといった決め手はありません。


次回は、婚姻の時期について考えていきます。

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