朝倉宗滴の書状と朝倉義景(『桶狭間合戦討死者書上』)2

 先の書状に出てくる「六角殿」とは、六角定頼になります。明応4年(1495)生まれの定頼は、天文元年(1532)で、38歳(数え)、働き盛りの守護大名で、信長公よりも早く楽市楽座を施行し、六角氏の全盛期を作ったという名君です。


この定頼の兄が「氏綱」で、元々は氏綱が六角家の家督を相続していました。ところが永正13年(1516)両細川の乱の戦に出陣した氏綱は、負傷。その傷が原因で、永正15年(1518)27歳の若さで亡くなり、子供が小さかったことから、弟の定頼が還俗、家督を相続しました。(回忌法要の施主が定頼であることから、氏綱には男児がいなかった説もある)


こうした時に、兄の子供が成人すると、家督を戻すこともあるのですが、定頼が天文21年(1542)、織田信秀と同じ頃に亡くなると、定頼の嫡男、義賢が跡を取りました。


確かにそうなると定頼系に移った家督を、氏綱系の子が争う危険もあり、氏綱の息子が養子に出されるというのは考えられます。

しかし、六角氏綱の末っ子が義景だというのは、なかなか難しい話です。


氏綱が亡くなったのは、永正15年7月9日(1518年8月25日)ですから、彼の末の息子が生まれるのは、どんなに遅くとも、翌年の4、5月頃になります。

そうなると天文2年(1533)生まれと伝わる義景になるには、15歳くらいサバを読むことになり、無理があります。


そこで出てくるのが、六角氏綱の次男である仁木につき義政の息子こそが、義景である説です。


義政は仁木氏を継いでいますが、この仁木氏とはどなたでしょうか。

この辺りは戦乱により、一次資料が紛失しており、定かではありません。ですので一説によると、くらいの感じになります。


仁木氏というのは、足利氏の祖義康の長子義清の系統で、足利氏嫡流の譜代の家臣です。

この頃、丹波仁木氏、伊賀仁木氏、伊勢仁木氏と三つに分かれておられた……この辺りは確かです。


そしてここから諸説あるのですが、両細川の乱で細川高国についた伊勢仁木氏の仁木高長が、細川高国とともに阿波へ移動し、残った仁木氏が衰退したらしく、群雄割拠状態になり、近江守護の六角定頼の命で、甥っ子の義政が仁木氏を継承したらしい。

そして佐々木姓も称した義政は、足利義輝、その息子の義昭の御相伴衆として活躍した。

六角氏絡みでは、こう推測されています。


つまり同時代に、少なくとも丹波仁木氏、伊賀仁木氏、伊勢仁木氏、そして六角流仁木氏が存在しています。


そしてこの六角流仁木義政の次男こそが、義景であるという説なわけです。


ちなみに六角氏綱の長男は、六角義久(義実)と伝わります。

『鹿苑日録』によりますと、天文8年(1539)3月9日に執り行われた足利義稙(義材)の十七回忌に六角義久が五千疋寄進し、16日には名代として五郎次郎大夫(仁木義政)が上洛して、細川高久、飯尾堯連たちが仏事料五千疋を寄進したと書かれています。


六角氏綱の息子たち、特にこの嫡男義久の件に関しては、江戸初期に現れた六角氏嫡流を名乗る偽書、偽家系図作家沢田源内が絡んで、非常にややこしいことになっております。

自らが佐々木源氏嫡流であるという主張の為のものなのですが、この偽書、偽伝、偽家系図の出来のいいこととと言ったら、もう本当にこの通りだと、変に辻褄あうし、とっても良い感じのまとまり方だし、非常にありがたいんだけどなぁという感じです。


Wikipediaによると、彼の制作した偽書は「『江源武鑑』『江陽屋形年譜』『大系図』『倭論語』『足利治乱記』『異本関ケ原軍記』『金史別本』など」となっています。

また沙沙貴神社所蔵の『佐々木系図』には、他では見られない、上記の史料を補完するような人物が書かれている為、制作したのは沢田源内であると言われています。

ここからの引用には、注意したいところですね。

……先の書状も、彼の作品かもしれません。



 さて仁木義政の長男は、永禄8年(1565)の和田惟政宛の書状(足利義昭の興福寺脱出に協力する旨)を送っている仁木刑部大輔長頼ではないかとされ、更にこの方の息子が、『後法成寺関白記』に出てくる仁木四郎長政であるといわれています。


ということで、仁木義政の次男が、義景として、朝倉家へ養子に入ったんじゃないかという説を見ていきます。


 先程見ましたように、六角氏綱は明応元年(1492)にうまれ、永正15年7月9日(1518年8月25日)に亡くなっています。彼の次男の義政は、遅くとも永正16年(1519)頃には生まれているはずです。


この当時、戦さ場で亡くなる方より、戦で怪我をし、帰還後に亡くなる方の方が多く、氏綱も傷が原因の感染症で亡くなられたのでしょう。

死に到るような重症化する感染症の末期は、非常に厳しいようですので、負傷した永正13年(1516)くらいには、すでに生まれておられたかもしれません。


そうであれば義政の次男が、天文元年(1532)、或いは2年(1533)に生まれていてもおかしくないでしょう。


 仁木義政の次男が朝倉義景であるという傍証として挙げられているのが、朝倉義景の周りに、山内氏、河端氏、九里氏、杉若氏など六角氏の家臣の名前が残っていることです。


その元になっているものの一つが、永禄10年(1567)の足利義昭による朝倉義景邸御成を記した『朝倉義景亭御成記』です。

「国立公文書館 デジタルアーカイブ 朝倉義景亭御成記」

https://www.digital.archives.go.jp/img/741987


この年の4月に朝倉邸で元服を済ませた足利義昭は、5月17日に御成をされました。

朝倉邸に到着した義昭は、寝殿で式三献の儀を執り行います。

その後会所に足利義昭、関白二条晴良、仁木義政、朝倉義景の四人が入り、饗応が行われました。

これは義昭の元服の祝儀として、執り行われたものになります。


そしてここに仁木義政が出ているところが、まず着目点となります。

それから、この御成に参列した方々の名前が載っています。


「朝倉同名衆并年寄衆御礼申次第


(朝倉)式部太輔景鏡 孫三郎景健 次郎左衛門尉景尚 修理進 孫六景茂 修理亮景嘉 右馬助景 富次郎右衛門尉種景 右京進 小三郎景堅 向駿河守景乙 三反崎虎松 権守 掃部助 出雲守景亮 溝江大炊允景家 藤三景嘉 溝江三郎右衛門尉 左近允景満


(年寄衆)

前波藤右衛門尉景当 魚住 桜井 青木隼人佐景忠 栂野方鶴 詫美 山崎長門守吉家


(御手長)

掃部助 三反崎三郎右衛門尉景佳 左近允

三反崎三郎兵衛尉 桜井新左衛門景道 魚住彦三郎


(御部屋衆ノ相伴)

朝倉次郎右衛門尉 同出雲守


(御走衆ノ相伴)

前波藤右衛門尉


(詰衆・右筆方・同朋衆ノ相伴)

詫美越後守景徳 山崎長門守


(御小者衆相伴)

河合安芸守


(中門役)

大月治部丞 窪田将監


(御門役)

山田六郎左衛門尉 九里十郎左衛門尉


(裏ノ御門)

諏訪神左衛門尉 近藤三郎兵衛尉


(楽屋奉行)

斎藤民部丞


(座敷奉行)

鳥居兵庫助 太月三郎左衛門尉 服部兵部丞 中村五郎右衛門尉 福岡次郎右衛門尉 三輪二郎右衛門尉 小林備中守 堤左京亮 山崎七郎左衛門尉


(辻固ノ人数)

魚住備後守景固 桜井代六郎右衛門尉 山崎小五郎 河合虎松 富田民部丞 福岡聟千代 小林三郎次郎 堀平右衛門尉 氏家左近将監 真柄備中守 小林平左衛門尉 真柄左馬助 青木隼人佐 千秋因幡守 千秋左京亮 瓜生源四郎 三輪二郎右衛門尉 小林備中守 佐々布玄林坊 杉若藤左衛門尉」



 ところで、まずこの御成です。

この永禄10年という年に、何故義昭が越前にいるか、というと……


永禄8年、永禄の変で将軍義輝が暗殺され、弟である義昭は細川藤孝らの手によって、幽閉先の奈良から脱出し、和田惟政宅へ落ち延びます。その後、義昭は六角氏の所領矢島に入りました。


この時代の六角氏当主は、六角定頼の息子六角義賢の息子、六角義治になりすね。

ところが永禄9年8月29日、斉藤龍興と六角義治は、三好三人衆と義栄方に付くことを明らかにしました。

その為、義昭は5、6人の近習のみで若狭武田家に逃げ落ち、その後朝倉家へと移座されました。


ということで、六角家当主六角義治が、義昭の対抗馬である義栄についているにも関わらず、義昭の御成の出迎えを、六角氏連枝である仁木義政が行っているというのはどういうことでしょうか。


 話は遡ります。

書状の六角定頼の跡をとった六角義賢は、永禄元年頃、義治に家督を譲っていますが、永禄3年(1560)、桶狭間で今川軍を沈めた織田家と対立している斉藤家と結ぼうとする義治に激怒した書状が残っています。


名君定頼よりも求心力のない義賢、それに二重に三重に輪をかけた義治への家臣団の不満は極まり、永禄6年に義治が、家臣団の信望の厚い重臣、父六角義賢の重臣を勤めていた後藤賢豊を惨殺するという事件が起きると、義賢、義治親子は、観音寺城から追い出されます。

この時には蒲生賢秀の取りなしで、城へ戻れましたが、最早名家六角氏の威信は地に堕ちた、と言っても過言ではないでしょう。


つまりこの永禄10年には、六角氏は完全に分裂をしており、六角氏綱の系統(仁木義政)は義昭派閥であり、越前の方へ移動していたんじゃないか……という推論がたちます。


『言継卿記』にも、永禄11年(1568)、信長公が行った上洛戦に朝倉軍と共に、江州衆が参陣していることが記録されていますので、六角氏綱の系統(仁木義政)が越前に向かったのは事実でしょう。


ただそれを朝倉家の家臣になった、更にそれは養子となった義景に随行していたからだ……というのは、言えないと思うのです。


 御成の話に戻ります。


まず御成の時に門の警護をされていた九里氏は、鎌倉時代より現在の近江八幡市西本郷町辺りにあった九里村を領した一族で、六角氏の宿老筆頭の伊庭氏に仕えていました。

その後永正5年(1508)都落ちした 11代将軍足利義澄が頼ったのが六角高頼であり、義澄御一行様が入ったのが水茎岡山城(九里城)。この城の城主が九里信隆でした。


この城で義昭の父、足利義晴が誕生し、また祖父にあたる義澄が亡くなっています。


義澄が落ちてきた当時、将軍家は細川家の権力争いに巻き込まれ、将軍位を足利義材(義尹、義稙)と義澄が争っている状況で、当初六角氏は義澄派におられたわけですね。


しかしその後、六角氏の家中で争いが起き、高頼は義材方に寝返り、義澄方への与力をあくまで主張する守護代の伊庭氏と争いました。


九里信隆はこの抗争に巻き込まれ、永正11年(1514)、六角高頼によって謀殺され、九里氏の居城、水茎岡山城は落城しました、

その後再び、永正17年六角定頼が、信隆の嫡男九里浄椿を攻め、更に大永5年(1525) 九里氏の残党が籠る水茎岡山城を攻めて、九里氏は滅亡したと言われています。


勿論短い間でしたが当主の座についていた氏綱も、九里氏を攻めています。


この間に六角氏に寝返った九里氏もおられるかもしれませんが、一族を滅ぼされた九里氏を、天文元年に六角氏が「末代までの」機密事項に関わらせるか疑問です。


六角氏に攻められた折、朝倉家に逃げ落ちた、或いはそれ以前に水茎岡山城から身柄を移された義晴に随行した九里氏が、そのまま義昭の家臣となっていたと考える方が自然ではないでしょうか。


すみません、続きます。


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