津島仮装盆踊①

 清州入城後、信長公が催した仮装盆踊について見ていきます。ここはなかなか興味深い段なのですが、今回は深読みをせず、軽く見ていきましょう。


『七月十八日おどりを御張行

一、赤鬼、平手内膳衆

一、黒鬼、浅井備中守衆

一、餓鬼、滝川左近衆

一、地蔵、繊田太郎左衛門衆。


辨慶べんけいに成り候衆、勝れて器量たる仁躰なり。

一、前野但馬守、辮慶

一、伊東夫兵衛、辮慶

一、市橋伝左衛門、辮慶

一、飯尾近江守、辮慶


一、祝弥三郎、鷺になられ侯。一段似相申し侯なり。


一、上総介殿は、天人の御仕立に御成り候て、小鼓を遊はし、女おどりをなされ候。


津島にては堀田道空庭にて、一おどり遊はし、それより清洲へ御帰りなり。


 津島五ヶ村の年寄ども、おどりの返しを仕り侯。是れ又、結構申す計りなき様躰なり。清洲へ至り候。御前へめしよせられ、「是れは、ひようげなり」。又は「似相なり」などと、それぞれへ、あひあひと、しほらしく、一々御詞懸けられ、御団にて、冥加なく、あをがせられ、御茶を下され、悉き次第、炎天の辛労を忘れ、有り難く、皆感涙をながし、罷帰り侯ひき。』

(信長公記、おどり御張行のこと)


「七月十八日おどりを催された。


赤鬼には、平手内膳の家臣たち

黒鬼には、浅井備中守の家臣たち

餓鬼には、滝川左近の家臣たち

地蔵には、繊田太郎左衛門の家臣がなった。


弁慶に仮装した人々は、極めて弁慶役にぴったりの方々であった。

前野但馬守、伊東夫兵衛、市橋伝左衛門、飯尾近江守。


祝弥三郎は鷺の仮装をされた。一際よくお似合いになられていた。


信長公は、天人の装束を身に付けられて、小鼓を打ち、女おどりを踊られた。


津島では堀田道空の屋敷の庭で、一おどりされて、そこを経由して清洲城へと御帰りなられた。


 津島五ヶ村を治めている年寄たちは、踊りのお返しをされた。これまた丁重で、言葉では言い表せないほどのご様子であった。


清洲まで来られると、信長公は彼らを御前に召し寄せられて、「これはひょうげている」、又は「ぴったりだ(似合)」などと、それぞれに、ひとつひとつ(相合ひ)、愛嬌たっぷりに(汐らし)、いちいち御言葉をおかけになれて、御団扇にて、畏れ多くもあおがせられて、御茶をお勧めになられ、かたじけない次第で、年寄たちは炎天下の骨折りを忘れて、ありがたく、皆感激の涙を流しながら、帰られた。」



 室町中期から戦国期にかけて笛、太鼓、小鼓、鉦で音楽を奏しつつ練り歩く囃子衆に、踊り衆がつく風流ふりゅう芸能が流行りました。

踊り衆は飾り立てた風流傘をさし、趣向のある仮装をして楽音に合わせて踊ります。


国立歴史民俗博物館

「洛中洛外図屏風(歴博甲本)」(1525年)

https://www.rekihaku.ac.jp/education_research/gallery/webgallery/rakutyuu/theme/event14.html


コトバンク「風流傘」

https://kotobank.jp/word/%E9%A2%A8%E6%B5%81%E5%82%98-616072


正月の松囃子と左義長、それからお盆やその時々の祭礼に各所を練り歩いたといいます。

時代祭でもこの室町時代の風流踊がありますし、こうした風流踊がYouTubeでいくつか見ることは出来ます。


また山形の鬼剣舞や津和野の鷺舞など、今回の踊を偲ぶ縁になるやもしれません。


また連絡先が分からず、許可を取れず、URLを貼れないのですが……

『盆踊りの世界』という盆踊りに関して研究をされているサイトがあります。こちらに室町、戦国時代の風流踊に関する解説がありお勧めです。



 さて信長公が行った仮装盆踊は、清洲から発して領地を練り歩き、最後に津島の道空の屋敷の庭で舞い、それからまた清州へと戻ったようです。

そしてそのお礼に、津島の長老たち(支配階級の人々)が組を作り、津島から清州まで踊りながらやってきて、信長公が御前にお召され、長老たちの仮装を丁寧にひとつ、ひとつ感想を述べられたとあります。


何しろ新暦で8月の下旬に入る頃、片道3時間ほどの道のりです。何時間も戦をする戦国の方々ではありますが、それなりにお疲れになられたでしょう。

お茶を勧めて、わざわざ長老たちを団扇であおいであげたと書かれています。

大変なサービスで、長老たちが感激したのも分かりますね。


 さてこの段、皆様は違和感、ありませんでしたでしょうか?


現代に残る地方の盆踊りは、戦死者、餓死者などが多く出た戦国時代に起源伝承を持つものが多く、信長公に限らずこうした鎮魂行事を熱心に行っていたようです。

しかしそもそも何故この一回のことだけを、わざわざ書いてあるのか大変不思議です。

更に『信長公記』の記述を信じると、不可解なことが出てきます。


 まず役を見ていきます。

盂蘭盆に行われる風流踊ですから、その仮装は死霊や死者による障りが現実のものだった当時、死者を慰め、成仏を促すものになるというのが前提です。


 最初に出てくるのが、「鬼」です。

室町時代の「鬼」という概念ですが、おおよそ三つ、見ることができます。

一つは、良くも悪くも人間を越えた強いエネルギーとしての鬼。

二つ目が、人の怨念、生霊、死霊としての鬼。

三つ目が、仏教に見る鬼です。この鬼には2種類あり、1つが二つ目の死霊にもなりますが、地獄に堕ちた人間。2つ目が地獄の獄卒としての鬼です。


この段の鬼は、お盆ですから三つ目の仏教に於ける鬼でしょう。

また戦国時代の能楽では、鬼を人の怨霊と化したものか、地獄のものとするものが多いですが、どうでしょう。


仏教に於ける鬼は赤、青、黄、緑、黒の5種類が存在すると言われていました。それは五行思想と仏教の五蓋ごがい思想が融合した結果と言われています。五蓋とは、悟りを得ること妨げる5つの煩悩を指します。


・赤鬼 火の属性。貪欲。過ぎたる欲。

・青鬼 木の属性。瞋恚しんに。憎しみや怒り。

・緑鬼 金の属性。惛沈こんじん睡眠すいめん。怠惰。鬱々とした状態。

・黄鬼 土の属性。掉挙じょうこ悪作。平静心を失っていること、後悔。

・黒鬼 水の属性。疑、疑い。


この中で「貪欲」と「疑」の2つだけが、選ばれています


 次が「餓鬼」です。

餓鬼とは人間が死後行く世界、①地獄道②餓鬼道③畜生道④阿修羅道⑤人間道⑥天道の六道のうち、餓鬼道に堕ちた人のことです。ではどのような人が餓鬼になるのでしょうか。

それは物質的欲望の強い人、特に食べ物関係で卑しく、美食、多食し、それを人に分け与えない人。そしてまた、むさぼりの心のつよい人であるとされています。


 それから「地蔵」

地蔵は釈迦の入滅後、弥勒菩薩が出現するまでの間、六道すべての世界に現れて衆生を救う菩薩であるとされています。特に子供の霊に対する救済は有名ですね。

近畿、中部辺りの皆様には、旧暦7月24日に行われる地蔵盆が浮かぶかもしれません。これは非常に妥当な感じを受けますが、何人の方が地蔵になられたのか、気になるところです。


 それから「弁慶」。

弁慶は、ご存知のように義経の従者で、衣川の戦いで全身に矢を受けて、立ち往生されたので有名ですね。

何故鎮魂の行事に弁慶が出てくるのかというと、義経の西国落ちの折に、海上に現れた平家の怨霊を祈り鎮めたという辺りかもしれません。


「気仙郷土芸能まつり」の川原鎧剣舞という踊りの中の「引き刃」は、弁慶が平家の亡者たちをささらを打って成仏させるという踊りです。

「川原鎧剣舞 薙刀踊り」とYouTubeで検索して頂くと見ることができます。


「ささら」

Wikipedia

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%81%95%E3%81%95%E3%82%89#


弁慶伝説は、戦国当時、能や狂言、幸若舞になっていました。幸若舞『高館たかだち』や、平氏の亡霊を滅する狂言『船弁慶』も、YouTubeで見ることができます。


しかし平氏を成仏させる弁慶が、4人も必要だったのでしょうか。

大田牛一はしきりと『吾妻鏡』を引用したり、織田家の「家督相続争い」を頼朝、義経兄弟になぞらえることが多いので、気になるところです。



 次の「白鷺」は神の使いとも言われています。鷺舞は神社などで奉納舞として踊られています。


 民俗芸能などで男性が女性に扮してまう舞を、女踊りと呼びます。

この時の信長公のされた天人の姿とは『日本服飾史』の「能楽、羽衣のシテ(天人)」のような天女の姿だったかもしれませんね。


貪りの赤鬼と疑いの黒鬼たち、ひたすら自らの欲を満たさんとする餓鬼たち、そしてそれを救う地蔵菩薩たち。

吉兆を現す白鷺。全てを見通し、清らかな天人。

……それから義経の従者である弁慶。

なんだか、意味深な気がします。


 次にメンバーを、ザックリですが、確認しましょう。


①赤鬼、平手内膳衆

平手内膳は、信長公の亡き傅役平手政秀の縁者でしょうか。しかし内膳という官途を名乗った方は、記録されていません。

②黒鬼、浅井備中守衆

浅井備中守とは、熱田の千秋季忠の正室たあ姫のお父様です。

③餓鬼、滝川左近衆

勿論、かの有名な滝川一益のことです。

④地蔵、繊田太郎左衛門衆。

繊田太郎左衛門は、織田藤左衛門家の当主信張(寛廉)で、妹であり、乳母の子でもある小田井の方の婿殿でもある方です。

彼に関しては拙作「信長公の連枝、小田井藤左衛門家」で考察しています。



次の弁慶はどうでしょうか。


①前野但馬守

前野長康のことです。元は岩倉織田氏の家臣で、面白いことに馬の名手で、信長公より「駒之介」という名を授けられたそうです。

しかしあまり従順な家臣ではなかったという逸話の持ち主です。

次男でしたが、兄が信長公の命で母の実家の元斯波氏家臣小坂氏を継いだ為、前野家の当主になったと伝わります。


②伊東夫兵衛。

元斯波氏の家臣とも言われ、はたまた父親の代に相模より落ちてきて、岩倉織田氏に仕え後に信長公へ転仕した、或いは尾張前田に落ちてきてそれを召し出され、後に岩倉へ住んだと言われる伊東兄弟の兄の方で、黒母衣衆に選ばれましたが、加藤弥三郎たち同様「坂井迫盛(赤川氏)」を斬殺して逃亡、今川氏真に転仕しています。


③ 市橋伝左衛門。

市橋伝左衛門は、一般に市橋利尚であるとされ、美濃斎藤家の家臣で、後に信長公に転仕しました。永禄3年(1560)の美濃攻めでは織田軍を撃退したとあります。


④ 飯尾近江守。

初代下尾張守護代大和守敏定の孫であると言われ、父敏宗は斯波氏の一族飯尾氏の養子となったそうです。これは大野家の斯波義敏が、敏定のお陰で斯波武衛になれたことからのものでしょう。

地蔵を演じた信張の父親の兄が敏定ですから、叔父甥の関係で、信張同様嫡男の正室には、信秀が最晩年に乱造した娘の一人を迎えています。

彼もまた転仕組の一人ですね。


さて、ここで問題が出てきました。

この飯尾近江守は、永禄3年5月19日、桶狭間合戦で討死しています。

これでは桶狭間の後の美濃戦の折に、斉藤家にいた市橋さんとは踊れません。困りましたね。


 元々、この踊は天文年間に行われたと言われていました。すると清洲が信長公の居城になったのは天文24年(1555)で、その年の10月23日に 戦乱などの災異のため改元されていることから、この踊は天文24年のことになります。

『武功夜話』では兄織田信時(秀俊)の亡くなった、そして稲生の戦いの翌年、弘治3年(1557)であるとされています。


しかしどちらにせよ辻褄が合いません。


前野長康の子孫がまとめた『武功夜話』では、稲生の戦いの功名に市橋伝左衛門の名前があり、古くからの家臣であるとされています。

しかし『武功夜話』は「墨俣の一夜城」など一般受けのする話が多く、話としてはとても面白いのですが、当時では使われていない言い回しや戦国当時にはなかった地名などがあり、肯定派、否定派共に江戸後期の作であること自体は認めています。(伝承を江戸後期にまとめた)

ですので、伝左衛門が本当に稲生合戦の折に、尾張にいたかどうかは定かではありません。

少なくとも手持ちの『信長公記』三種の中には、稲生合戦の段に「市橋伝左衛門」の名前は発見出来ません。


秀吉の忠臣であった前野長康の子孫が、ここのキーパーソンである「市橋伝左衛門」をわざわざ稲生合戦の功名に入れ込んでいることが、また面白いところです。



 そして鷺の姿になったのは、はふり弥三郎重正です。彼のことは浅井備中、平手内膳と共に考察を出しますが、この盆踊が初出で、その後本能寺の変に至るまで信長公に近待している姿が記録されています。


なかなか意味深なメンバーですね。


次回は津島と堀田道空について見ていきます。

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