戦国のロミオとジュリエット

ロミオとジュリエットと言っても、男同志の話になりますので、苦手な方は(´•ω•`)


昔、昔、尾張に尾張守護大名の斯波氏の家臣に、簗田弥次右衛門やなだやじえもんという苦みばしったイケメンがいました。

彼は身分こそ小身でしたが、頭の回転も早く、目端の利くなかなかの人物だった様です。


弥次右衛門は、ある時、同じ清須城に住む守護代の織田大和守信友の家臣の名古屋弥五郎なごややごろうという若者に目を付けました。


この名古屋弥五郎という若者は、家臣が300人いたそうです。

関ヶ原前後で1万石につき約250人と言われているので、石高にして1万越えのなかなかの大身です。


因みに前田又左衛門利家は信長公の命で、兄から荒子城を相続しますが、この荒子の貫高約2000貫強が、石高にすると3000から5000石程度と書かれています。

この時代は石高=身分ではありませんが、それなりの立場にはあったのではないでしょうか。





 さて、弥五郎はお父さんがまだ幼い頃に戦死して、家臣達が親鳥が雛を守る様に一生懸命育ててなんとか元服を済ませた所です。


家臣達は一安心という所でしょう。


ところが、ようように前髪が取れ、1人前になったばかりの若様が、同じ清須に住む、にっくき斯波家のスレた小者にたらしこまれてしまいました。


そうです。


清須城の中を流れる川を挟んで住んでいる、斯波家と織田大和守家は、当時、犬猿の仲だったのです。


時は天文21年(1552)頃と記されています。

丁度、信長公の父親が亡くなり、家督を相続した前後です。



「我らの仲が露顕ろけんすれば、ただでは済まぬ。大身のそなたの家のことを考えると、最早これまで」


同じ城に住んでいるとはいえ、敵と味方。

親しげにしている所を見られれば、敵に通じているのでは...と疑われてしまいます。


しかし、すぐ手が届くほど近くにいるのに、まるで織姫と牽牛のように1本の川を挟んで、なかなか逢えない。

そのもどかしさで、余計に燃え立つのは、男も女も変わりありません。


ようよう持った一時の甘い逢瀬で、そんなことを冷たく言われた若様はショックを受けてしまいます。


「そんな!弥次右衛門様、惨い!!」


若様は口を震わせます。

スレっからしの弥次右衛門と違い、若い弥五郎にとって初めての恋です。

弥次右衛門の裾に縋って、別れたくないと必死で掻き口説きます。


「ならば...」


と、弥次右衛門が出してきた案は、守護代織田大和守の家臣、三奉行の一家、織田弾正忠家の若き跡継ぎ、三郎信長公の元に逃げ落ちることでした。


しかながら」


弥次右衛門は続けます。


「主は大身の身なれば、手柄を持って行かねば家臣を養うだけの禄を安堵して頂けぬやも知れぬ。」


「我が家臣のことまで...。」


純情な弥五郎はヒシと弥次右衛門の胸にすがりつきます。


どうしてこの思い、遂げずにおくべきか。





くして二人は仲間を密やかに募っていきます。


 守護代の織田大和守憎しの斯波氏は、元々、信長公のお父さんの信秀の時代から弾正忠家とよしみを通じ、守護代大和守の頭を越えて直接命を下すなどし、弾正忠家を守護代扱いをしていました。


 そして、若様弥五郎の主家は守護代織田大和守家です。

こちらの当主織田大和守は、信長の父、信秀とは晩年和睦をしましたが、信長とは激しい敵対関係にありました。


織田大和守は、信長の家督相続に際して起きた鳴海城主・山口教継やまぐちのりつぐの謀反に乗じ、萱津かやづの戦いを起こしたり、信長の実弟信勝の家督相続を支持し、信長の筆頭宿老、林新五郎秀貞達と通じて信長暗殺計画を画策していました。


そんな物騒な大和守家ですが、実は内紛を抱えていました。


当時、宿老のうちの一人、小守護代と呼ばれる坂井大膳が大和守家の主権を握り、主君を転がしていました。


この坂井大膳は、今川義元と通じています。


つまり、織田信長VS今川義元なんですね。

義元の尾張侵攻は既定路線で、坂井は今川氏の元でそれなりの地位を約束されていたのでしょう。

これを面白く思わない派と二手に分かれて、まさにお家騒動の真っ只中にありました。


若様はせっせと反坂井派の人達を仲間にして行きました。

若様凄いですね。有能です。


実は上手いこと、斯波氏と信長公に踊らされてる様な気がします。


 こうして優秀な若様は確実に仲間を増やし、坂井以外の宿老まで仲間にしました。


そこで、簗田弥次右衛門は「恐れながら」と、信長公の居城の那古野城へ赴きます。

弥五郎から聞きだした信長暗殺計画も、コレコレと注進します。

それを聞いた信長公は喜んで兵を率いて清須城へ向かいます。




 清須城というのは、尾張の守護所に相応しくとても大きな城です。

城というと天守を中心にしたお殿様の居城をイメージしますが、どちらかと言うと西洋の城塞都市に近いです。

重臣から足軽たちが住む屋敷や長屋、商人の家臣の店舗付き住宅の町屋、寺院などを土塀で囲んだ総構えという城郭都市です。

主要街道と物流の要の川も、城郭内に取り込んでいます。

いわば高速道路のジャンクションと鉄道の駅を押さえているようなものでしょうか。

大きな城門を閉めれば中々攻められる物では有りません。


が、その門は名古屋弥五郎の手によって開けられ、信長公の軍勢は易々と清須城に侵入し、城下に火を付けます。


 残念ながら普通の城の3倍以上ある清須城の総構えを打ち破り、守護代の主郭まで辿り着くことは出来ませんでした。


が、この戦で清須城は裸城になってしまいました。

また家臣団もハッキリと坂井派と信長派と旗幟を明らかにした結果になりました。


遂に、いざこざが絶えない信長公と大和守家の雌雄を決する時がきました。


 時は天文23年(1554)の夏のことです。


 斯波義統の屈強の家臣達がこぞって嫡男、岩龍丸に従って大掛かりな川狩りに出かけました。

その隙に大和守家坂井派は守護屋敷を襲い、曲がりなりにも主君である義統を暗殺しました。


嫡男、岩龍丸は信長公を頼り、那古野城に逃げ込みます。


主殺しの大逆の罪を申し立てた信長公は、織田弾正忠家の当主として、大和守の味方だったはずの信勝の宿老、柴田勝家を大将に立てて清須城を攻めることを命じます。


反撃を受けた織田大和守は安食の戦いで敗れ、翌天文24年(1555)、生き残った坂井大膳の進言により、信長公の後見の織田信光の調略をするつもりが、その策を読みきっていた信長公にしてやられ、織田大和守家は滅亡し、坂井大膳は今川義元の元へ落ちていきます。


さて、このロミオとジュリエット。

弾正忠家に転仕した後、恋仲が続いたのかは定かでは有りません。


名古屋与五郎は、永禄2年(1559)信長公が少人数で上洛した際に、後から細作を走らせ、斎藤龍興の差し向けた刺客を発見し、ご注進したと言われています。


また簗田弥次右衛門は、永禄12年(1569)伊勢の大河内城攻めの名を列記した文書に名前が残っている他、天正10年(1582)本能寺の変の年に九坪村くのつぼむらの十所社を修復したと記録に残っているそうです。


とりあえず、戦国尾張のロミオとジュリエットは、この世で無事に結ばれたようでした。


めでたし、めでたし。


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