人には五郎左、御座候・丹羽五郎左衛門長秀①


不動行光ふどうゆきみつ 九十九髪つくもがみ 人には五郎左ごろうざ 御座候ござそうろう


 信長公の作ったとされる有名な戯れ唄ですね。

宴席でほろ酔い気分になった信長公が、自分のお気に入りのものの名前を連ねて、膝を叩いて唄ったとされています。


不動行光は鎌倉の刀工、藤三郎行光作の短刀です。

行光ではなくて、不動国光という説もありますね。


九十九髪は、大名物・唐物茄子茶入 。

本能寺の変の時にも信長公は持参しています。

それを本能寺の焼け跡へ、約一週間後に辿り着いた秀吉が拾い上げて、なんだかんだで家康に伝わって現存しているのですが、科学的な調査の結果、九十九髪に火が入ったのは、製作した時の1度だけだそうです。

本能寺で焼けたという話はありえないということになります。




そして五郎左。

丹羽五郎左衛門長秀、幼名万千代。

初期の頃、「お万は連枝れんし(親戚)である」と信長公が言ったという逸話があります。


そんなにお気に入りだったのでしょうか。


信長公十代のみぎり、小姓として侍っていた初期のメンバーは

池田勝三郎恒興  織田弾正忠家臣 嫡男(乳兄弟)

岩室長門守重休  織田弾正忠家臣 嫡男(出自を含めて推定)

加藤弥三郎    織田弾正忠家臣 熱田豪商 次男

長谷川橋介    織田弾正忠家臣 一族も弾正忠家 次男

佐脇藤八郎良之  織田弾正忠家臣 前田利家実弟五男 養父将軍直臣 嫡男

前田又左衛門利家 織田弾正忠家臣 四男

山口飛騨守    織田弾正忠家臣 不明

そして

丹羽五郎左衛門長秀 斯波家家臣 次男


これ以外にもいた筈ですが…残念なことに名前は残って居ません。


それにしても

弾正忠家の直臣の子弟が居並ぶ中、五郎左衛門は異色じゃないですか?


利家の実弟藤八郎の養子先の佐脇さんは幕臣ですが、岩倉城に住む守護代織田伊勢守家に暫くいた後、まだ仲が拗れる前に弾正忠家に移っています。


 元々弾正忠家と伊勢守家は、伊勢守家当主織田信安の正室が信長の叔母さんで、行き来があり、信長公も小さい頃から信安達と一緒に遊んでいたそうです。

佐脇氏と信長公は昔から顔見知りだったと考える方が自然です。

更に、この伊勢守家には、前田又左衛門利家の叔父さんが仕えていますので、小姓として付き従っていた又左衛門、藤八郎兄弟の事も親しみを持って見ていたかも知れませんね。


信長公が清須城に移った後では、出陣した後の留守居を賜っている人物なので、付き合いも長く、信頼されて居たはずです。



 さて、前回も話題にしましたが、斯波氏とは、清須城を居城とする尾張守護大名ですね。

家格として、弾正忠は斯波氏から見ると家臣の守護代の奉行の一家なので相当下になります。


 では何故、五郎左は主君でも無い格下の大名の信長公に出仕したのか。


前回の話を念頭に置いていただけると幸いです。


信長公の父親の時代から斯波氏は、守護代の織田二家の専横にウンザリしていました。そこで守護代の家臣で、当時、力を付けてきていた弾正忠家に誼を通じ、親しくしていました。


それは信秀が亡くなり、信長公が跡目を継いでも変わりません。


五郎左衛門が出仕したのは天文19年(1550年)15の歳と言います。


丁度、斯波氏にとっても、信長公にとっても、大和守家との争いが激化している頃です。


 小姓というのものの、役割りの一つに、証人あかしびと(人質)という側面がありました。


江戸時代のように、確固とした家を基点に置いた主従関係は、この時代はありませんでした。

中世期の城の武家屋敷跡を見るとよく分かるのですが、重臣の城屋敷というのは、主君の本城とさほど規模が変わらず、四方に堀を巡らせています。

基本的に土地は「ここに建てなさい」と主君がくれますが、上物は自分で建てます。もしかしたら、木材はくれるかもしれません。


木材はものすごく貴重な財産なので、勝手に伐採されると主君も困りますものね。


取り敢えず、各自勝手に設計すると、籠城出来るようにできるように建てます。

絶対服従の立場にありませんから、もしもに備えるのは当たり前のことです。


主君も家臣も、権力に於いては同等の権利を持ち、家臣は自分の意思で主君を決める代わりに、その働きによって恩恵を受けることができるという物です。

ですから、家督相続の度に、大騒ぎになるのは仕方のない事だったのです。


反対に主君から言えば、家臣はいつ裏切るかわかりません。

これは!と思う家臣には偏諱を与えたり、婚姻関係を結んだり、男色関係に持ち込んだり、特別感を醸し出して絆を深める努力が必要です。


後の徳川家、当時の松平家の家臣団は、恐ろしく忠義の心があり、美談が沢山あります。まあ勝者だからかも知れませんが。

それに引替え、尾張の家臣団はドライで、信長公が苦心しまくって気の毒です。



さて、当時の分立性の権力構造に於いて、子供を主君の身の回りに置くことは、諸刃の剣の意味を持ちます。

主君の身近にいれば優秀さを認めて貰いやすく、息子の出世の道が開かれます。

しかし、もし、自分が主君を裏切れば、即、子供は首を刎ねられます。


小姓ではありませんが、黒田官兵衛の息子の黒田長政が織田家の人質時代、有岡城の戦いで交渉に行ったはずのお父さんが消息不明になりました。

裏切った!と激怒した信長公に「首を斬れ!」と命令されて、竹中半兵衛がこっそり隠して置いたという話は有名です。


実際、人口が少ないので、余程の事でない限り、即、子供の首を刎ねられるというのは、多くはなかったようです。

ある程度の猶予期間があり、その期間中に挽回できるかという感じで、信長公の場合は、子供ではなくて本人にペナルティを与えていたみたいですね。



さて、そんなこんなで、斯波氏家臣の丹羽氏にとって、万千代の出仕は斯波氏の人質という意味があったのかも知れません。

まさか守護大名の斯波家の御曹司を証人にとったり、連枝や重臣の子弟を家臣にしたりすることは出来ませんから、取次という織田家担当の窓口であっただろう丹羽氏の次男を差し出したのかもしれませんね。



幸い、万千代は信長公の眼鏡に叶い、出世をして行きます。


元服は16歳。


長秀の初陣は、19歳、梅津表の戦いと記されていますが、結構遅めですね。

17歳の時には大きな戦が二つあり、そのうちの萱津合戦では歳下の前田利家が初陣を飾っています。

この時に五郎左衛門も従軍したという記事もあります。


初陣ではないんですね。


優秀な長秀は、普段は米五郎左、戦さ場に於いては鬼五郎左と渾名される立派な侍になって行きます。


長秀のお父さんは、丹羽長政。

斯波氏と共に弾正忠家へ逃げ込んだのか、討ち死にしたのかは不明です。


お兄さんは丹羽長忠

丹羽将監長忠は、信長公に出仕し、信長公と信勝が戦った稲生の戦いの合戦場近くに屋敷を持ち、あまり長生き出来ずに、跡目を長秀に譲ったという話が残っています。


家族が全員「長」が付いていますが、長秀の「長」は信長公からの偏諱を頂戴したと言われています。


次回はこの辺りの話をしてみたいと思います。



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