人には五郎左 御座候 丹羽五郎左衛門長秀②


五郎左、2回目です。


 ご存知の様に16歳での元服では、信長から偏諱を頂いて、五郎左衛門長秀となります。


信長公が偏諱を与えているのは、結構少ないですね。

「信」の方は息子や甥の信澄の連枝関係。近衛信尹

「長」の方でも、弟で家督相続後に元服した長益、長利。

黒田官兵衛の息子で、誤解で殺しかけた黒田長政。

斎藤道三の末子で、命辛々、道三の遺言を届けた斎藤新五郎利治の初名が長龍。

お気に入りの忠臣森可成の遺児で跡取の森長可。


父親が賜姓織田氏の酒造之助の息子、菅屋長頼を上げている場合もあります。

この方は幼名も「なが」です。

織田御長丸と呼ばれていた時期もある長頼は、確かに、格別の存在だったようで、母衣衆で構成された番に、名前が入っていたり、織田一族の守り神である織田劔神社の担当になったりしています。

長頼がそうなら、同僚の大津長昌もそれっぽいですね。

大津長昌の奥様は、丹羽長秀の妹さんです。

早くに亡くなられていますが、信長公のお気に入りの側近の一人だったようです。


 それから、伊東清蔵長久です。詳細はまた書きますが、小谷攻めで武功を上げて、諱を頂戴しています。

この方は、本当にユニークで、またお兄さんが謎ですし、是非とも覚えていて下さいね。


 後、人質に送られてきた鶴千代、後の蒲生氏郷を一目で気に入って、娘を嫁にやることを約束し、元服の折には、自ら烏帽子親を務め、嫡男の信忠の「忠」、又は「弾正忠」の「忠」を授けています。

初名、蒲生忠三郎賦秀がもうたださぶろうやすひで

最初何処に?と思ったのですが、通称の忠三郎の「忠」がそれだそうですね。

そこから取って、そこに付けるというのは初めて知った事例です。


恒興を信輝と称すものもありますが、恒興本人の発給文書でも、同年代の文書でも確認されていません。初見は江戸時代です。

恒興の通称、勝三郎の三郎がもしかしたら…




脱線しました。


さて、長秀です。

正室は庶兄信広が、清須時代に斎藤義龍に唆されて謀反を起こした後、信長公に証人として差し出した娘を養女に直した姫を頂いています。


その方との間に出来た嫡男には、信長公の娘を頂きました。


五郎左は優秀で、忠義者だったのでしょう。

それが第一の条件です。


彼の優秀さは、米五郎左という渾名に現れている様に、オールマイティになんでもできる器用の御仁だったのでしょう。


彼はヒタヒタと子飼いの家臣の筆頭の出世頭として、宿老への道を歩んで行きます。


信長公もきっと、五郎左に期待を掛けていたのではないでしょうか。


当時の宿老は、1度裏切った筆頭宿老林秀貞、信長を殺しかけた弟の元宿老筆頭の柴田、文句の多い佐久間といったところです。

彼が信頼する本来宿老格の家臣は、織田家の為に、信長公の期待通りに、戦場で生命を散らしています。(また、後日書きます)


次に、何故このような優遇措置を五郎左にしているのか。


この頃、江戸時代とは違い、分立制の権力構造の時代、家臣を統率するのはとても大変なことでした。

つまり、気に入ったからと取り立てて重臣に据えるというのは出来るようで出来ないことです。


江戸時代の柳澤氏を取り立てるようにはいきません。

だって、ほかの家臣の不平不満が募れば、大和守家の様にお互いに仲間を募り、お家騒動を起こしたり、他の人が理不尽に重用されていると怒り狂った柴田勝家の様に敵のお殿様(信長公ですね)へ通じたりします。


信長公の筆頭宿老の林さんもそうですよね。信長公が言うことを聞かなくて怒って、与力の前田氏の城へ退去します。

あ、この前田氏のことを覚えててくださいね。



さて、下克上の時代ですが、だからこそ「何でもあり!」ではなく、世間を、組織を納得させる「大義名分」が必要とされていました。


ですから、信長が上司にあたる守護代織田大和守を攻めた時に、「主殺しの大罪を犯した大和守家を、斯波岩龍丸殿の命にて成敗せん!」という大義名分を立てたために、本来、敵方の信勝の宿老柴田勝家を大将にして、攻めさせることができた訳です。


親殺しをした斎藤義龍も「自分は道三に滅ぼされた美濃守一色氏である。敵討ちである。」という大義名分を立てました。



ですから、同じように斯波氏家臣の子弟である長秀を重用する為には

「主君の連枝格である」という大義名分が必要になったです。

信長公の身内のちょうど良い娘が結婚できる歳になるまで、耐え忍んだことでしょう。


特に尾張一国時代というのは、まだまだ信長公の威信も行き渡らず、家臣団のお互いを伺う感じは結構シビアで、男の嫉妬が渦巻く世界が展開されています。


家臣の奥さんを見ると、その家臣団に於ける立場のバランスというものがよく分かります。



地位に相応しい、「格」「大義名分」を与える事によって、いうことを聞かせるというのは、織田家に限りません。


今川義元の、現代においてあの不評プンプンの「公卿の格好をし、輿に乗っていた」というのは、自分が禁裏からそれを許されている格別な存在であるという事の周囲に対するアピールで、単なる公家かぶれの風流おじさんではないんですね。


戦国大名というのは、本当に冷静で、知的な、自己コントロールに長けた方々です。


 三河の完全平定を目論んでいた義元は、「三河守」の授位が決定的になる前から、後の徳川家康である松平元康ではなく、自分が三河の主人だ!と内外にアピールする為に、三河に公家スタイルの巡業に行っています。

桶狭間の一ヶ月前にも見せつけに行って、そのついでに優雅に船遊びをしていたら織田軍の来襲を受け、吉良浜あたりで激突しています。


様々な形で、自分の公的な格を周知させ、立場を明確にしていくというのが、とても大切な行動指針なわけです。



のちに光秀や秀吉、塙達と一緒に任官され、姓を頂きますが、これも同じですね。



さて、長秀は、家臣団に先駆け大名となり、安土城築城の折には総奉行に任命され、馬揃えの際には先頭切って入場しました。

家臣団に於ける席次は、柴田勝家についで二番手です。


でも長秀が一番分かっていたのではないでしょうか。


天正3年(1575)若狭一国を頂いた辺りから、武功を立てるのが厳しくなりつつあり、天正8年(1580)佐久間信盛への折檻状の中で、信長公が信盛と比較をする為に武功を褒め讃える武将の中に、長秀の名前は出てきません。


光秀や秀吉、滝川一益程の飛び抜けたアクの強さもなく、勝家程の器もなく...

後ろからは、同じオールマイティタイプの更に自分よりも優秀な堀秀政が追いかけてきています。


今までのやり方を見直し、限界を突破して、新たな自分を作っていくというのは現代の私達も一緒ですね。


しかし、長秀にはそれを成し遂げ、敬愛する信長公に己の忠義を見せていく時間は残されていませんでした。



本能寺の変の折り、堺から帰ると、噂を聞いた兵が霧散していました。

長秀は、信長の弟の信勝の息子で、信長が可愛がり、頼りにしていた信益を、明智光秀の娘を嫁に迎えているので光秀に内応しているかもしれないという疑いで問答無用で殺害しました。


ここに長秀の大きな哀しみと焦りを感じます。


しかし、戦国武将に気が動転してという事は許されません。


例えば、秀吉ならどうしたでしょうか。


信益は幽閉し、信益の兵をも取り込み、手元の兵をまとめて、景気の良いプロバイダを拡散しながら、仲間をかき集めつつ、光秀を目指して走り抜けた気がします。


もし長秀が光秀を討ったなら?

もしかしたら、光秀はそれを予測していたら?


少なくとも、織田政権は続いていたような気がします。


その結末を考えると、長秀の苦悩の深さに同情を感じずにおられません。















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